
(つぶやきメモ:少女の身体)
琉球王府時代、表の外交芸能の中心は少年の楽童であり、遊廓では少女たちが男装して二才踊を披露した。少年と少女が表と裏の歓待外交芸能の花の中心だったのだね。
一方現代の少女たち『高校生』の年齢が援助交際などでも性を切り売りする状況がある。少女たち、15歳から18歳前後の年齢に秘められたもの!
少女たちは18歳で娼妓や芸妓の鑑札を受けるまで客を取らされたのである。15歳くらいから性的対象になっていった。芸妓として芸を見せるのが5歳から稽古を積んで7歳からはお座敷に立てたのだ。明治・大正時代の写真を見ると、少女達が舞踊衣装をつけて踊る姿や写真スタジオ用の写真が目立っている。
大正時代の吉原遊廓の記録を残した『吉原花魁日記』の光子さんにしても、過酷な妓楼主の収奪が凄い。『少女売春供述』の中でも身体は成熟しつつあっても、自律した意識が明快には思えない少女たちを騙し収奪する男達がいる。半年で230人の男達の性の相手をさせられて1000万円近く収益を得ているはずの少女はピンはねされ150万円の収入しか手に入らなかった。大正時代の光子さんも一日10人とか12人の男の相手を余儀なくされても、その借金は目減りしていかない仕組みになっていた。オウナー〈妓楼主〉は彼女の労働の四分の三も収奪していたのである。彼女はコツコツと日記を書き、客が贈〈送〉ってくる書物を読んでいた。地獄の淵から彼女は脱出したのだが、異常な環境〈ハレの場、性的饗宴、性欲処理空間〉で2~3年を過ごした彼女の生涯はその後明らかになっていない。世を、男を呪っていた光子さんは国家公務員と結婚し其の後離婚している。彼女の人生行路の全容は明らかになっていない。
援助交際の少女達の事例も様々で立ち直り大学に進学したり、結婚したりする少女がいる一方で性ビジネスに居場所を見つけていく少女達もいる。普通の体験を超えた時間がどう解消されていくのか、人は変われるということは確かだと云えよう。
一方で不特定多数の男達の女神のような存在になっていった女性たちがシャーマンのような存在になったり、日常や規範を超えた存在のもつ才覚や感性で人生航路を歩んでいく(いった)姿に尊いものを覚えるのも其の通りだ。孤独で寂しい男や女の心象風景が連なっているように思える。
懸命に芸を追及していた少女たちの姿が現在に続く琉球・沖縄の女性芸能史なのだと納得するばかりー。
ちょっと話がずれたり混じったりしているが、『少女売春供述書』を読むと、親子関係、家族の在り様、社会の在り様の屈折がドスンとやってきた。オランダの「飾り窓」でもそこでビジネスをするのが他国人が多いという事実は、最も親に知られたくないと告白した少女達の思いと重なっているといえる。性ビジネスが裏ビジネスであることに変わりはないということかもしれない。
隔離された境界にやってくる男達を一方で冷ややかに見据えていた森光子さんの仲間の花魁たちがいた。
ギリシャの成功したヘタイラのようにみんながなれたわけではなかった。境界を越える女性達はしかしいたのだね。何が女性たちを越境させ、何がその他多くの女性たちを従属させるのだろうか?