
(琉球新報7月13日)
南城市は汚名を返上するためにも、市長は謝罪し、辞職された方がいいかと思うのですが~。
歎異抄の「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや (ぜんにんなおもておうじょうをとぐ、いわんやあくにんをや)は、 親鸞 による教えの言葉。 人間 というのは誰でも悪人であり、このような悪人こそが信仰によって救われるべき対象であるということである 。 この言葉は、 歎異抄 の3章で述べられていた言葉である。 ここでは、善人でさえ幸せになれ、悪人はなおさら幸せになれるということが述べられていた。」
wikipedia 「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」より。
完璧な善人は存在しません。「人間は皆悪人です」の親鸞の教えは、腑に落ちます。ゆえに古謝市長は謝罪することによって救われるのだと思います。南城市も汚名を返上できます。
文化遺伝子という概念はご自分が編み出したとする詩人・批評家が貘賞選者です。しかもセクハラがいろいろ目撃されている方ですね。なぜか恥ずかしい沖縄の文化状況です。この方もご自分の公の悪を謝罪された方がいいですね。
デマゴギーで他者の論を拝借したならそれをはっきり書かれることも道理です。それをご自分がいかにも概念を生み出したとする姿勢そのものが、おかしいですね。それを擁護する新聞社の社会正義も眉唾物です。ユング理論を借用したりもしていますが、潜在意識や無意志理論なども、魂にすり替えていますが、そこもしっかり影響をうけた理論なり概念を表示しないと、おかしくなりますね。
セクハラやパワハラはかなり日常にはびこっていても、告発まではいかないことが山ほどありそうです。裁判になるとたいへんなエネルギーが損失されるからです。
しかし小さな運動の持続は大事ですね。おかしいと思ったことをおかしいと言える社会にしなければと思います。表現の自由は常に保障されるべきです。何らかの圧力で、脅しも含めて、個人の人権が損なわれる状況は常に、声をあげる必要があります。
南城市の市長専属運転手だった方は勇気のある女性です。セクハラ、パワハラを受けて告発したわけです。彼女の告発が実ることを念じています。
いつでも声をあげられない立場の一人一人を守る体制・システムが必要ですね。そして声をあげられる表現の自由は、最も大事です。
若い頃、存在そのものが罪ではないかと考えていました。キリスト教も原罪という概念の上に構築されていますね。性善説と性悪説がありますが、両方兼ねた存在が人間であり人類なのかもしれません。