遊廓→赤線
昭和5年ごろ、業者数34、娼妓数180
昭和30年、業者数41、娼妓数約100
町の歴史は、高松特殊浴場協会の公式サイト「城東百科」(18歳未満禁止)に詳しい。
高松では雨に見舞われ、傘を片手に、ぎこちない体勢になりながら撮影。
ぶれないように注意していたものの、後で見たら、何枚かピンぼけになってしまっていた。

全面がサイディング張りになっているが、もとは看板建築だったとおぼしき建物。
遺構かどうかは、この状態ではなんともいいがたい。

親子格子を左右に配した和風建築。どちらかといえば花街的なたたずまい。

[左]こぢんまりとした外観ながら、三つもの入口を備えた、ある意味贅沢ともいえる構え。
[右]ピンぼけ失礼。玄関の巴瓦は鶴のレリーフになっている。

[左]一階のタイル張りが目を引くが、これはオリジナルの意匠ではないかもしれない。
[右]笹の葉と鳥の透かし彫りを施された欄干と、桧垣模様を描く戸袋がおもしろい。

右奥に伸びる和風建築。角地のみを洋風に作り変えられている。
生い茂った庭木が中庭からはみ出している。廃屋化して相当年月が経っているらしい。

青みがかったグレーが、建物に落ち着いた雰囲気を与えている。建物の状態も良好。
井桁状の桟をあしらった欄間や、カーブを描く飾り窓など、デザインの工夫が見られる。

奇妙な平屋建て。なんの建物だったのだろうか。
以下余談。
写真を撮っていると、とある風俗店から、呼び込みの店員が傘もささずに近づいてきた。
注意されるかと思って身構えたら、予想外の質問。
「あのう、写真撮ってますけど、この建物って何かあるんですか?」
「えっ?」
思わぬ問いに言葉を詰まらせていると、
「いや、じつは午前中にも別の人が撮影に来ましてね。不思議に思っていたんですよ」
「ああ、なるほど」
質問の意図がわかり、町のことを簡単に説明すると、店員は礼を言って店に戻っていった。
雨に濡れながらわざわざ聞きに来たのが印象的だった。
写真を撮る人がよほどめずらしかったのだろう。
午前中に来たという撮影者氏は、ひょっとすると、今朝秋田町で会った同好の士かもしれない。
昭和5年ごろ、業者数34、娼妓数180
昭和30年、業者数41、娼妓数約100
町の歴史は、高松特殊浴場協会の公式サイト「城東百科」(18歳未満禁止)に詳しい。
高松では雨に見舞われ、傘を片手に、ぎこちない体勢になりながら撮影。
ぶれないように注意していたものの、後で見たら、何枚かピンぼけになってしまっていた。

全面がサイディング張りになっているが、もとは看板建築だったとおぼしき建物。
遺構かどうかは、この状態ではなんともいいがたい。

親子格子を左右に配した和風建築。どちらかといえば花街的なたたずまい。


[左]こぢんまりとした外観ながら、三つもの入口を備えた、ある意味贅沢ともいえる構え。
[右]ピンぼけ失礼。玄関の巴瓦は鶴のレリーフになっている。


[左]一階のタイル張りが目を引くが、これはオリジナルの意匠ではないかもしれない。
[右]笹の葉と鳥の透かし彫りを施された欄干と、桧垣模様を描く戸袋がおもしろい。

右奥に伸びる和風建築。角地のみを洋風に作り変えられている。
生い茂った庭木が中庭からはみ出している。廃屋化して相当年月が経っているらしい。


青みがかったグレーが、建物に落ち着いた雰囲気を与えている。建物の状態も良好。
井桁状の桟をあしらった欄間や、カーブを描く飾り窓など、デザインの工夫が見られる。


奇妙な平屋建て。なんの建物だったのだろうか。
以下余談。
写真を撮っていると、とある風俗店から、呼び込みの店員が傘もささずに近づいてきた。
注意されるかと思って身構えたら、予想外の質問。
「あのう、写真撮ってますけど、この建物って何かあるんですか?」
「えっ?」
思わぬ問いに言葉を詰まらせていると、
「いや、じつは午前中にも別の人が撮影に来ましてね。不思議に思っていたんですよ」
「ああ、なるほど」
質問の意図がわかり、町のことを簡単に説明すると、店員は礼を言って店に戻っていった。
雨に濡れながらわざわざ聞きに来たのが印象的だった。
写真を撮る人がよほどめずらしかったのだろう。
午前中に来たという撮影者氏は、ひょっとすると、今朝秋田町で会った同好の士かもしれない。
遊廓→赤線
明治16年、業者数4、娼妓数44
明治33年、業者数6、娼妓数29
昭和5年ごろ、業者数20、娼妓数100

和風の長屋建築。壁面はトタンで覆われているものの、出格子が往時の姿を保っている。

意外に奥行きのある和風建築。玄関まわりに雰囲気がただよう。

メインストリート沿いにたたずむ木造長屋。欄干や持ち送りに装飾が見られる。

かなりリフォームされているものの、かつては料亭であったような気配が感じられる。
照明部分の「淀川」は屋号だろうか。

年季が伝わってくる木造建築。逆光に苦心しながら撮影。
出格子は切子を組み込んだ親子格子。丸山の建物の出格子は、総じて親子形式のようだった。

元旅館らしい長屋造り。全面トタンでふさがれた二階の内側が気になる。
玄関の足元には、いろいろな種類の小石が等間隔に埋め込まれていた。

黒壁と羽目板の組み合わせが渋い和風建築。
窓に注目すると、一階、二階、側面のすべてが、親子格子で統一されている。
明治16年、業者数4、娼妓数44
明治33年、業者数6、娼妓数29
昭和5年ごろ、業者数20、娼妓数100

和風の長屋建築。壁面はトタンで覆われているものの、出格子が往時の姿を保っている。


意外に奥行きのある和風建築。玄関まわりに雰囲気がただよう。


メインストリート沿いにたたずむ木造長屋。欄干や持ち送りに装飾が見られる。


かなりリフォームされているものの、かつては料亭であったような気配が感じられる。
照明部分の「淀川」は屋号だろうか。

年季が伝わってくる木造建築。逆光に苦心しながら撮影。
出格子は切子を組み込んだ親子格子。丸山の建物の出格子は、総じて親子形式のようだった。


元旅館らしい長屋造り。全面トタンでふさがれた二階の内側が気になる。
玄関の足元には、いろいろな種類の小石が等間隔に埋め込まれていた。


黒壁と羽目板の組み合わせが渋い和風建築。
窓に注目すると、一階、二階、側面のすべてが、親子格子で統一されている。
青線
かつて徳島駅の西側に存在した、闇市起源の私娼街。
建物は長屋形式で、ピアノの鍵盤のような店が100軒ほど(通路を挟んで50軒ずつか?)
ずらっと並んでいたという。
昭和46年(1971年)、新天地の跡地に、ポッポ街という商店街が建設された。
新天地とのつながりは不明。おそらく立地以外の関係性はないのだろう。

ポッポ街の東口。建物は完全に一新されており、当時の痕跡は何も残っていない。

「ポッポ」は蒸気機関車のことらしい。

「駅前商店街」が正式名称だろうか。あるいは途中で改名したのか。

店舗配置図。
まっすぐの通路沿いに店が連なる細長い長屋造りは、新天地の様式を踏襲している。

二階の風景。現在のポッポ街から、新天地時代の様子を思い描くことはできないが、
当時は、一階が居酒屋、二階で客を取るという、典型的な青線方式だったらしい。

西口。
かつて徳島駅の西側に存在した、闇市起源の私娼街。
建物は長屋形式で、ピアノの鍵盤のような店が100軒ほど(通路を挟んで50軒ずつか?)
ずらっと並んでいたという。
昭和46年(1971年)、新天地の跡地に、ポッポ街という商店街が建設された。
新天地とのつながりは不明。おそらく立地以外の関係性はないのだろう。

ポッポ街の東口。建物は完全に一新されており、当時の痕跡は何も残っていない。

「ポッポ」は蒸気機関車のことらしい。

「駅前商店街」が正式名称だろうか。あるいは途中で改名したのか。

店舗配置図。
まっすぐの通路沿いに店が連なる細長い長屋造りは、新天地の様式を踏襲している。

二階の風景。現在のポッポ街から、新天地時代の様子を思い描くことはできないが、
当時は、一階が居酒屋、二階で客を取るという、典型的な青線方式だったらしい。

西口。
ひきつづき秋田町を歩く。

壁の色が若干赤みを帯びている。往時はもっと派手な色彩だったのかもしれない。
玄関の欄間は繊細な造り。扉は新調されているが、以前はどんな装いだったのだろうか。

玄関の欄間を除き、窓という窓がふさがれてしまっている。空き家なのだろう。
二階の軒下には照明の跡が並んでいる。

現代風にリフォームされているものの、よく観察すると、角を切った構造や、
古びた屋根瓦といった特徴が見られ、遺構の可能性は高いと思われる。

[左]大通りを挟んだ反対側の一軒。こちらにも気になる物件がいくつか点在している。
[右]この建物は一階の全面がタイル張り。落ち着いたパステルカラーで統一されている。

一見普通の家屋のようでいて、入口が三つ。軒下には軽料理店のプレートが。
この「軽料理店」というのは、徳島では特殊飲食店的な位置づけだったのかもしれない。

アーチ窓など、カフェー風に見えないこともない外観だが、そこまで古い建物ではないか。

板張りの木目が印象に残る建物。欄間を彩るのは桜と矢羽の彫刻。
探索中、こちらと同じような物件にカメラを向けている男性がいることに気づいた。
もしやと思って挨拶すると、やはり遊廓跡を撮っている方だった。
町並みを撮影している方なら、これまでも、玉の井や吉原ですれ違ったことがあるものの、
遊里を撮っていると明言する方と遭遇したのははじめて。
けっして多くの言葉を交わしたわけではないが、同好の士との出会いはうれしかった。
もう少し話せばよかったな、と後悔。


壁の色が若干赤みを帯びている。往時はもっと派手な色彩だったのかもしれない。
玄関の欄間は繊細な造り。扉は新調されているが、以前はどんな装いだったのだろうか。


玄関の欄間を除き、窓という窓がふさがれてしまっている。空き家なのだろう。
二階の軒下には照明の跡が並んでいる。

現代風にリフォームされているものの、よく観察すると、角を切った構造や、
古びた屋根瓦といった特徴が見られ、遺構の可能性は高いと思われる。


[左]大通りを挟んだ反対側の一軒。こちらにも気になる物件がいくつか点在している。
[右]この建物は一階の全面がタイル張り。落ち着いたパステルカラーで統一されている。


一見普通の家屋のようでいて、入口が三つ。軒下には軽料理店のプレートが。
この「軽料理店」というのは、徳島では特殊飲食店的な位置づけだったのかもしれない。

アーチ窓など、カフェー風に見えないこともない外観だが、そこまで古い建物ではないか。


板張りの木目が印象に残る建物。欄間を彩るのは桜と矢羽の彫刻。
探索中、こちらと同じような物件にカメラを向けている男性がいることに気づいた。
もしやと思って挨拶すると、やはり遊廓跡を撮っている方だった。
町並みを撮影している方なら、これまでも、玉の井や吉原ですれ違ったことがあるものの、
遊里を撮っていると明言する方と遭遇したのははじめて。
けっして多くの言葉を交わしたわけではないが、同好の士との出会いはうれしかった。
もう少し話せばよかったな、と後悔。
遊廓→赤線
明治3年、散在傾向にあった遊女屋を一ヶ所に集める。「南廓」「南新地」と呼ばれた。
明治16年、業者数25、娼妓数40
明治33年、業者数62、娼妓数106
昭和5年ごろ、業者数83、娼妓数250
昭和30年、業者数57、娼妓数約173

電柱を見上げると、「シンチ」の文字が目についた。
上の錆びついたプレートにも「新地」の字が読み取れる。これはなんの標識だろうか。

虫籠窓が特徴の和風建築。二階の窓と欄干には橘紋が描かれている。

無骨な手すりのベランダが目を引く。が、遺構かどうかは微妙なところか。

二階に袖看板の跡が残っている。
近づいてみると、入口の頭上に「軽料理店」「バー」の鑑札が貼られていた。

[左]転業旅館とおぼしき小旅館。屋号はくっきり残っているものの、現役には見えない。
[右]二階の欄干。こぢんまりとした透かし彫りがかわいらしい。

上記旅館の裏手。この狭い空間に入口が設けられていることに驚く。
勝手知ったる常連客は、こちらから出入りしていたのかもしれない、と想像がふくらむ。

ここ秋田町は、写真のような、比較的小さめの遺構が大半を占めている。
大楼といえるような規模の建物はなかったのだろうか。
明治3年、散在傾向にあった遊女屋を一ヶ所に集める。「南廓」「南新地」と呼ばれた。
明治16年、業者数25、娼妓数40
明治33年、業者数62、娼妓数106
昭和5年ごろ、業者数83、娼妓数250
昭和30年、業者数57、娼妓数約173

電柱を見上げると、「シンチ」の文字が目についた。
上の錆びついたプレートにも「新地」の字が読み取れる。これはなんの標識だろうか。


虫籠窓が特徴の和風建築。二階の窓と欄干には橘紋が描かれている。

無骨な手すりのベランダが目を引く。が、遺構かどうかは微妙なところか。


二階に袖看板の跡が残っている。
近づいてみると、入口の頭上に「軽料理店」「バー」の鑑札が貼られていた。


[左]転業旅館とおぼしき小旅館。屋号はくっきり残っているものの、現役には見えない。
[右]二階の欄干。こぢんまりとした透かし彫りがかわいらしい。


上記旅館の裏手。この狭い空間に入口が設けられていることに驚く。
勝手知ったる常連客は、こちらから出入りしていたのかもしれない、と想像がふくらむ。

ここ秋田町は、写真のような、比較的小さめの遺構が大半を占めている。
大楼といえるような規模の建物はなかったのだろうか。
昭和初期、善通寺の遊廓が置かれていた場所は、「砂古裏」という地名だった。
戦後に赤線があったとされる「西山」とのつながりは、この時点では不明。
「裏」というからには「砂古」という地名もあったのではないかと思い、地図を調べたところ、
この砂古荒魂神社を発見。現在、「砂古」の地名が残る唯一の物件らしい。
砂古荒魂神社の周辺地域を「砂古」と仮定すると、西山の位置はまさしく「裏」にあたる。
砂古裏の遊廓と西山の赤線――どうやら連続性があると考えて間違いなさそうだ。
遊里の話が長くなってしまったが、この神社自体は、遊里との関係はない様子だった。

入口は閉ざされている。参拝者は脇から入るということらしい。

建物は新しく、あまりおもしろいものではない。

裏のほうはやや古いか。
戦後に赤線があったとされる「西山」とのつながりは、この時点では不明。
「裏」というからには「砂古」という地名もあったのではないかと思い、地図を調べたところ、
この砂古荒魂神社を発見。現在、「砂古」の地名が残る唯一の物件らしい。
砂古荒魂神社の周辺地域を「砂古」と仮定すると、西山の位置はまさしく「裏」にあたる。
砂古裏の遊廓と西山の赤線――どうやら連続性があると考えて間違いなさそうだ。
遊里の話が長くなってしまったが、この神社自体は、遊里との関係はない様子だった。


入口は閉ざされている。参拝者は脇から入るということらしい。

建物は新しく、あまりおもしろいものではない。

裏のほうはやや古いか。
遊廓→赤線
昭和5年ごろ、業者数11、娼妓数70
地図を見ると、西山のあたりは、町の中心地からやや離れた場所に位置している。
風紀上の理由から、遊廓の許可地を郊外に指定するのは、よくあるケースである。
現在の西山は、完全に住宅地になっており、決定的な遺構は見つけられなかった。

目抜き通りだったとおぼしき道路。
その広い道幅が、昔ここがそういう場所だったであろうことを想像させる。

戦前から残っていると思われる古い建物。妓楼ではなく、何かの商店といった風情。

気になった看板建築。カフェー風に見えないこともないが、先入観のせいかもしれない。

不思議な構造をしている。右が洋風で、左が和風。
右側に円柱のようなポールが写っているが、これは配管のようだ。

旅館のような外観。元は旅館だったのかもしれない。現在は会社の寮になっている模様。

西山でもっとも惹かれたのがこの一軒。
窓の造りが凝っていたり、裏手が出格子になっていたりと、気になる意匠が散見される。
ところが、客を招き入れるような入口がなく、娼楼としては疑問符がつく。

メイン通りに忘れ去られたように残っていた祠。
遊里と関係のある可能性は高そうに思えるものの、それを裏付ける材料は発見できず。
昭和5年ごろ、業者数11、娼妓数70
地図を見ると、西山のあたりは、町の中心地からやや離れた場所に位置している。
風紀上の理由から、遊廓の許可地を郊外に指定するのは、よくあるケースである。
現在の西山は、完全に住宅地になっており、決定的な遺構は見つけられなかった。

目抜き通りだったとおぼしき道路。
その広い道幅が、昔ここがそういう場所だったであろうことを想像させる。

戦前から残っていると思われる古い建物。妓楼ではなく、何かの商店といった風情。

気になった看板建築。カフェー風に見えないこともないが、先入観のせいかもしれない。


不思議な構造をしている。右が洋風で、左が和風。
右側に円柱のようなポールが写っているが、これは配管のようだ。

旅館のような外観。元は旅館だったのかもしれない。現在は会社の寮になっている模様。


西山でもっとも惹かれたのがこの一軒。
窓の造りが凝っていたり、裏手が出格子になっていたりと、気になる意匠が散見される。
ところが、客を招き入れるような入口がなく、娼楼としては疑問符がつく。

メイン通りに忘れ去られたように残っていた祠。
遊里と関係のある可能性は高そうに思えるものの、それを裏付ける材料は発見できず。
遊廓→赤線
昭和5年ごろ、業者数19、娼妓数120

桃山の北側一帯に古い町並みが残っている。

二階のガラス張りが印象的。一階が比較的質素なだけに、そのコントラストが際立つ。
後でわかったことだが、ここ多度津では、こういったガラス窓の物件が数多く見られる。

[左]狭い路地で見つけた総ガラス張りの二階部分。空を仰ぐように撮影。
[右]こちら側にはガラス窓がない。もともとないのか、あるいはトタンでふさがれたのか。

窮屈な通路が延びる。複雑に入り組んでいるわけではないので、迷子の心配はない。
二階を見ると、左右の建物を連絡する渡り廊下が設けられている。

[左]欄間や飾り窓に遊び心が盛り込まれた玄関。すぐ右には壁面が緑の小さな入口が。
[右]同じ建物の左手。松形にくり抜かれた壁の向こうに繊細な桟がうかがえる。

どっしりとした構えの和風建築。このあたりでは大店だったと思われる。
この建物も二階のガラス窓が目を引く。どうやら多度津では流行のデザインだったらしい。

少し注意を引かれた一軒。古い建物に全面的なリフォームがおこなわれた様子。
下部に幅木仕様のタイルが貼られているものの、これだけではなんともいいがたい。
昭和5年ごろ、業者数19、娼妓数120

桃山の北側一帯に古い町並みが残っている。

二階のガラス張りが印象的。一階が比較的質素なだけに、そのコントラストが際立つ。
後でわかったことだが、ここ多度津では、こういったガラス窓の物件が数多く見られる。


[左]狭い路地で見つけた総ガラス張りの二階部分。空を仰ぐように撮影。
[右]こちら側にはガラス窓がない。もともとないのか、あるいはトタンでふさがれたのか。

窮屈な通路が延びる。複雑に入り組んでいるわけではないので、迷子の心配はない。
二階を見ると、左右の建物を連絡する渡り廊下が設けられている。


[左]欄間や飾り窓に遊び心が盛り込まれた玄関。すぐ右には壁面が緑の小さな入口が。
[右]同じ建物の左手。松形にくり抜かれた壁の向こうに繊細な桟がうかがえる。


どっしりとした構えの和風建築。このあたりでは大店だったと思われる。
この建物も二階のガラス窓が目を引く。どうやら多度津では流行のデザインだったらしい。


少し注意を引かれた一軒。古い建物に全面的なリフォームがおこなわれた様子。
下部に幅木仕様のタイルが貼られているものの、これだけではなんともいいがたい。
新堀探訪のつづき。

外周の通りにたたずむ旅館。妻壁には屋号が浮き出るかたちで施されている。

更地の隅に放置された石造物の数々。灯籠、手水鉢、庭石といったものの残骸らしい。
昔は、これらの遺品にふさわしい景観が見られたのだろう。

[左]左右で異なる印象を持つ和風建築。立派な構えの門も気になる。
[右]門をアップで撮影。奥も単なる住宅ではないのかもしれない、と想像がふくらむ。

[左]旅館の裏玄関。表の三階建てビルとは対照的に、こちらは和風そのもの。
[右]二階の壁面。七宝模様の漆喰細工が施されている。

銭湯(栄楽温泉)のはす向かいの物件。両脇の入口と出格子がいわくありげに映る。
二階窓の庇の様子からすると、一時期、何かの店に転用されていたのだろう。

カフェーのようにも見える建物。かなりリフォームされており、判断に迷う。

少し離れた通りで見つけた一軒。黒光りするタイルが目を引く。
玄関前の装飾が凝っているなど、興味深い物件だが、十中八九遺構ではあるまい。

外周の通りにたたずむ旅館。妻壁には屋号が浮き出るかたちで施されている。


更地の隅に放置された石造物の数々。灯籠、手水鉢、庭石といったものの残骸らしい。
昔は、これらの遺品にふさわしい景観が見られたのだろう。


[左]左右で異なる印象を持つ和風建築。立派な構えの門も気になる。
[右]門をアップで撮影。奥も単なる住宅ではないのかもしれない、と想像がふくらむ。


[左]旅館の裏玄関。表の三階建てビルとは対照的に、こちらは和風そのもの。
[右]二階の壁面。七宝模様の漆喰細工が施されている。

銭湯(栄楽温泉)のはす向かいの物件。両脇の入口と出格子がいわくありげに映る。
二階窓の庇の様子からすると、一時期、何かの店に転用されていたのだろう。

カフェーのようにも見える建物。かなりリフォームされており、判断に迷う。


少し離れた通りで見つけた一軒。黒光りするタイルが目を引く。
玄関前の装飾が凝っているなど、興味深い物件だが、十中八九遺構ではあるまい。
遊廓→赤線
昭和5年ごろ、業者数18、娼妓数76

「新堀」は旧町名。現在は西平山町。

[左]堂々としたたたずまいの和風建築。傷みが激しいのが気にかかる。
[右]海側から。手前の部分だけ不自然だが、昔はカフェー調だったりしたのだろうか。

料亭風の木造建築。焦げ茶の羽目板と純白の漆喰が互いを引き立たせている。
とはいえ、壁が塗り直されているのはほぼ間違いないだろう。元の色が気になるところだ。

きれいに整備されており、見るからに現役といった風情の旅館。転業旅館だろうか。
大幅にリフォームの手が加わっており、遺構かどうか判断はできない。

アーチ状の玄関と鮮やかなタイルが特徴のカフェー建築。軒下には照明の跡が残る。
左右の玄関は、まったくの同型に見えて、屋号の残る左側のほうがやや大きめのようだ。

不思議な外観をしている。二つ並んだ入口、塀のようにも壁のようにも見える一階左側。
二階に目を転じると、ガラス窓の内側に欄干が透けて見える。軒下には照明の痕跡が。

こちらも窓の内側に欄干を確認できる。一階の出格子も見逃せない。
昭和5年ごろ、業者数18、娼妓数76

「新堀」は旧町名。現在は西平山町。


[左]堂々としたたたずまいの和風建築。傷みが激しいのが気にかかる。
[右]海側から。手前の部分だけ不自然だが、昔はカフェー調だったりしたのだろうか。

料亭風の木造建築。焦げ茶の羽目板と純白の漆喰が互いを引き立たせている。
とはいえ、壁が塗り直されているのはほぼ間違いないだろう。元の色が気になるところだ。

きれいに整備されており、見るからに現役といった風情の旅館。転業旅館だろうか。
大幅にリフォームの手が加わっており、遺構かどうか判断はできない。


アーチ状の玄関と鮮やかなタイルが特徴のカフェー建築。軒下には照明の跡が残る。
左右の玄関は、まったくの同型に見えて、屋号の残る左側のほうがやや大きめのようだ。


不思議な外観をしている。二つ並んだ入口、塀のようにも壁のようにも見える一階左側。
二階に目を転じると、ガラス窓の内側に欄干が透けて見える。軒下には照明の痕跡が。

こちらも窓の内側に欄干を確認できる。一階の出格子も見逃せない。
遊廓→赤線
昭和5年ごろ、業者数16、娼妓数120
昭和30年、業者数16、娼妓数49

メインストリート。駅から30メートルの距離にあるのだから驚きだ。

見事なカフェー建築。タイル張りにひし形の意匠、窓に施された色ガラスが美しい。
右に修繕のための作業台が見える。建物が大事にされている様子がうかがえて心強い。

サイディングでわかりにくいが、横側のシルエットから遺構ではないかと思われる。
玄関をのぞかせていただいたら、床がタイル張りになっていた。これは間違いないだろう。

軒下に袖看板。かろうじて「春○」と読める。
この建物の左隣には、かつて、丸窓と出窓が印象的なカフェー建築があったはずだが、
この数年で取り壊されてしまったらしい。

転業旅館だろうか。旅館名を冠した看板が掲げられている。現役かどうか定かではない。

カフェー風の建物。玄関まわりに石材の装飾が見られる。廃墟になって久しい模様。

年季を感じさせる木造建築。近年は酒屋だったことは明らかだが、それ以前は不明。
持ち送りの彫り込みが凝っていたりと、気になる意匠が見受けられる。
昭和5年ごろ、業者数16、娼妓数120
昭和30年、業者数16、娼妓数49

メインストリート。駅から30メートルの距離にあるのだから驚きだ。


見事なカフェー建築。タイル張りにひし形の意匠、窓に施された色ガラスが美しい。
右に修繕のための作業台が見える。建物が大事にされている様子がうかがえて心強い。

サイディングでわかりにくいが、横側のシルエットから遺構ではないかと思われる。
玄関をのぞかせていただいたら、床がタイル張りになっていた。これは間違いないだろう。


軒下に袖看板。かろうじて「春○」と読める。
この建物の左隣には、かつて、丸窓と出窓が印象的なカフェー建築があったはずだが、
この数年で取り壊されてしまったらしい。

転業旅館だろうか。旅館名を冠した看板が掲げられている。現役かどうか定かではない。


カフェー風の建物。玄関まわりに石材の装飾が見られる。廃墟になって久しい模様。


年季を感じさせる木造建築。近年は酒屋だったことは明らかだが、それ以前は不明。
持ち送りの彫り込みが凝っていたりと、気になる意匠が見受けられる。