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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

出雲麺話

2012年07月15日 17時30分00秒 | ラーメン・グルメ
グルメストリート的なところに出店するテナントだったので、最初は期待していなかったが、
いい意味で裏切られた。




うまい! 魚介だしがじんわり染み入るあっさり系の塩スープ。
麺や具もスープによく合っている。いままで食べた塩ラーメンでトップ3に入る大ヒット。

松江 新地

2012年07月15日 16時30分00秒 | ◆中国
遊廓(和多見町)→移転(伊勢宮町)→赤線
昭和5年ごろ、業者数38、娼妓数110
昭和30年、業者数60、従業婦数250
戦後は「黒門」という通称で親しまれていたらしい。

 
登録有形文化財の旧・米江楼。飾り窓や出格子も見のがせないが、最大の注目は破風。
緻密に彫りこまれた懸魚や、その奥に見える、いまにも飛び立ちそうな鳩の彫刻が出色。


平入りの和風建築のファサードだけが洋風に造り変えられている。
妓楼の一部を改造するのは戦後に各地で見られたスタイルだが、この物件ははたして。


二つ並んだ縦長の回転窓が目を引く。よく見ると、入口が微妙にななめに振られている。

 
レトロな雀荘。入口の上部に注目すると、遊技場と書かれた小さな鑑札が残っている。
開業当初から、ずっと雀荘(当時は麻雀屋か)として営業をつづけてきたのかもしれない。

 
現役の歓楽街である伊勢宮町。飲食店が目立ち、性風俗的な店舗はあまり見られない。
しかし、無料案内所があるところを見ると、そういう店も町の中にまぎれているらしい。


電柱のプレートに新地の文字が。遺構の少ない場所では得がたい証拠になる。

 
伊勢宮町のすぐ西側の寺町に、カフェーを彷彿させるような建物がいくつか散見された。
伊勢宮町だけでなく、このあたりもひょっとしたら、と想像をかき立てられる。

松江 和多見町

2012年07月15日 15時30分00秒 | ◆中国
遊廓
明治38年に隣町の伊勢宮町へ移転し、おそらく消滅したと思われる。
戦後には検番があったそうだが、四十年前に転出した遊廓との関係は定かではない。


角を大きく切った建物。年季を感じさせるたたずまいだが、遺構ではないだろう。
左の奥に写っている物件も、下見板張りが映える古風な和風建築だった。


気になる建物がいくつか点在する通り。
ひょっとしたら、遊里がなくなった後も、飲食店街としてにぎわっていたのかもしれない。

 
三本の円柱と豆タイルの装飾が特徴の一軒。
タイルといえばカフェー建築だが、この建物は、どちらかといえば理容店を思わせる。


風俗店のようなピンク色の看板が目を引く。看板の文字はまったく読めない。
建物の造りを見るかぎり、とてもいかがわしい店だったようには見えないが、はたして。


昔はカフェーかバーだったのではないかと思われる物件。外壁は白く上塗りされている。

 
[左]ホテル風の旅館。なにげなく階段の下をのぞいてみると、意外な光景が現れた。
[右]それが、この箱庭風の中庭。風情こそあまり感じられないものの、ユニークな演出だ。

松江 殿町

2012年07月15日 14時30分00秒 | ◆中国
花街
起源は定かではないものの、松江城の膝元である殿町に、かつて花街が存在していたと
しても、なんら不思議はない。
また、いつからか「橋北」と呼ばれるようになったらしい。大橋の北に位置するからだろう。


商店風の建物。遺構ではないだろうが、右半分には妓楼を思わせる趣向が見られる。

 
[左]外装は地味ながら、幅広な竪板張りが印象的だったので、なんとなくカメラを向けた。
[右]玄関をのぞくと、丸窓の凝った意匠が現れて驚いた。何かの店だったのだろうか。

 
袋小路の最奥部にひっそりと店を構える料亭。
隠れ家のような立地だが、それが功を奏しているのか、規模のわりには落ち着いた風情。


このサイズで入口が三つ。間取りがどのようになっているのか興味深い。
一見洋風で、カフェー的な雰囲気も感じられるものの、もともとは和風建築だった模様。


歴史を感じさせる料亭。建物は新しく、門の木材だけが当時のものかもしれない。
「ビアホール」の看板にふらふらと引き寄せられたが、酒を楽しむ時間はないので自制。

 
アパートのようでいて、それだけではないような気にもさせられる、なんともいえない物件。
玄関もどこかひっかかる造りだが、それはそういう意識で見ているせいかもしれない。

米子 灘町

2012年07月15日 10時30分00秒 | ◆中国
遊廓→現在地へ移転→酌婦指定地→赤線
昭和5年ごろ、業者数33、娼妓数53
昭和32年、業者数29、接客婦数77


メインストリート。整えられた道路がまっすぐに伸びる。
当時の道幅を歩道まで含めて想像すると、かなりの幅員を持つことがわかる。


平入りの木造和風建築。二階の窓の内側に手すりが見える。


松皮菱をかたどった巨大な飾り窓が強烈なインパクトを放つ。
逆に、それがなければごく普通の家屋に見えるという、なんともアンバランスな建物だ。

 
[左]かなりの規模を誇る和風建築。この地では大楼の一つに数えられていたことだろう。
[右]庭木が飛び出ている。装飾がユニークで、二階のコウモリの彫り抜きが印象深い。

 
大幅にリフォームされていながらも、タイルや石材や窓に、往年のなごりが見て取れる。
よく見ると袖看板の金具が残っている。近年まで何か営んでいたのだろうか。


軽妙な風合いの建物。改装がじつに自然で、どこまで原形を保っているのかわからない。
ひょっとすると、腰まわりの石材以外はすっかり取り替えられているかもしれない。

 
遊里につきものの銭湯が、いまも近場に二軒あった。
「弁天湯」のほうはやや離れた場所に位置しているので、遊里とは無関係かもしれない。

米子 朝日町

2012年07月15日 09時00分00秒 | ◆中国
青線?
加茂川沿いに娼家が散在していたという。

 
狭い路地に袖看板の突き出た飲み屋が軒を連ねている。
青線らしい雰囲気は充分備わっているものの、「散在」ではない点がひっかかる。


風変わりな建物。広いポーチ、タイルの円柱、腰の鉄平石など、気になる要素が満載。
明らかに普通の住宅とは趣を異にしているが、かといって娼家のようにも見えない。

 
[左]モダンな外観。相当古そうな見た目だが、当時から残る物件なのかは不明。
[右]壁にアーティスティックな装飾があしらわれている。何かを模したデザインだろうか。

 
二階の壁から妙なポールが伸びている。近づいて確かめると、葉っぱつきの擬木だった。
単なる装飾というには、どうも不自然だ。当初は袖看板の支柱だったのかもしれない。


小箱のようなフォルムに、大きな円のくぼみがなんともユニークな一軒。
店名になっている白拍子といえば遊女の一形態だが、そこまで深い意味はないのだろう。


この朝日町一帯ではほとんど遭遇しなかった、堅実な造りの木造和風建築。
ここが遊廓跡であれば妓楼と考えてしまうところだが、残念ながらそういう場所ではない。

 
細い通路の先に凝った装いの玄関。入口の左上のプレートによると、もと飲食店らしい。
こんな奥まったところにまで飲食店があったことに驚かされる。

米子灘町 一時撤退

2012年07月15日 08時00分00秒 | 日記・雑記
写真を撮っていると、あちこちの邸宅から住人が出てきて、道路の掃除をはじめた。
どうやら町内一斉清掃の時間らしい。
のんびり撮影できる雰囲気ではないので、いったん引き返し、先に朝日町を回ることに。


メインストリート。


現在は花園町という町名に変わっている。

 
何点か撮影したところで、だんだん掃除をする方の数が増えてきた。
探索を中止し、裏手へ回る。


裏手の様子。


メインストリートの反対側を通過して離脱。朝日町へ向かう。

米子 皆生温泉

2012年07月15日 06時00分00秒 | ◆中国
芸娼妓混在地
昭和30年ごろ、置屋数13、芸娼妓数72
売春防止法施行後、個室付浴場の制限(許可)地域に指定され、現在に至る。

「皆生温泉」は、その名のとおり温泉地の名称だが、いまは敷衍して町名にもなっている。

 
温泉旅館街の中心ともいえるその一画に、鳥取県有数のソープランド街が存在する。
いわゆる「トルコ」の時代から継続している風俗街だが、それ以前のルーツは不明。


鳥取県有数といっても、もとより県内にはソープ街自体が少なく、ここも規模は小さい。
都心のソープ街をイメージして訪れると、寂しい印象を受けるかもしれない。


何か残っていないかとあちこち歩き回ったが、それらしい建物は一軒も見あたらない。
もともと娼家のような物件は建てられなかったのだろうか。


大人のおもちゃ屋と射的屋。こういった店も、かつての歓楽街情緒の一つであったろう。
皆生温泉名物というのはなんだろう。


古びた小店舗が連なる長屋建築。こちらにも大人のおもちゃ屋が一軒入っていた。

幸雅

2012年07月14日 19時00分00秒 | ラーメン・グルメ
牛骨スープで知られる倉吉のラーメン。


「なつかしい」というキャッチフレーズが印象的。
関東では牛骨ラーメンにその感想は出てこないだろう。


あっさりしていそうな見た目に反して、口に含むと濃厚な風味が押し寄せるスープ。
出会ったことのない味で困惑したが、慣れればおいしく食べられるような気がする。

倉吉 新地

2012年07月14日 17時30分00秒 | ◆中国
私娼街→酌婦指定地→赤線
昭和4年、業者数12、私娼数48
昭和32年、業者数11、接客婦数43

 
並行する二本の通り。道路がぐるりと長方形をなす倉吉新地の長い二辺に相当する。
地図を見ると、周囲から明らかに浮いており、遊里独特の町割りであることがうかがえる。


電柱のプレートに「新地」の文字。遊里跡ではおなじみの名前だ。
声をかけてくださった地元の方も、「新地」という言葉をごく当然のように使っていた。

 
かなりの奥行きを持つ和風建築。木造建築ならではの重厚感が際立つ。
現存する遺構の中では、もっとも改修が目立たず、往時を偲ばせる風情を保っている。


引き戸が中央に固まっている物件。一点集中で客を引き込む方針だったのだろうか。
木材は全面的に新調されているものの、建物の造りはそれほど変わっていないようす。


これは大楼だ。かなり後ろまで下がって、ようやく全景をカメラに収めることができた。
サイディングの影響も大きいと思うが、妻側と平側で、まったく異なる表情を見せる。

 
上記建物から二点。[左]窓ガラスの市松模様と、ミニチュアのような欄干がおもしろい。
[右]路地裏の入口。「梅乃家」という屋号が残っている。両脇の「お」はなんだろうか。


地図を眺めると、遊里跡のすぐ北東にも、ちょっとした幅広の通りがあることに気づく。
ひょっとしたらこちらも遊里の範囲内だったのでは、と期待するも、見事に空振り。