遊廓(和多見町)→移転(伊勢宮町)→赤線
昭和5年ごろ、業者数38、娼妓数110
昭和30年、業者数60、従業婦数250
戦後は「黒門」という通称で親しまれていたらしい。
登録有形文化財の旧・米江楼。飾り窓や出格子も見のがせないが、最大の注目は破風。
緻密に彫りこまれた懸魚や、その奥に見える、いまにも飛び立ちそうな鳩の彫刻が出色。
平入りの和風建築のファサードだけが洋風に造り変えられている。
妓楼の一部を改造するのは戦後に各地で見られたスタイルだが、この物件ははたして。
二つ並んだ縦長の回転窓が目を引く。よく見ると、入口が微妙にななめに振られている。
レトロな雀荘。入口の上部に注目すると、遊技場と書かれた小さな鑑札が残っている。
開業当初から、ずっと雀荘(当時は麻雀屋か)として営業をつづけてきたのかもしれない。
現役の歓楽街である伊勢宮町。飲食店が目立ち、性風俗的な店舗はあまり見られない。
しかし、無料案内所があるところを見ると、そういう店も町の中にまぎれているらしい。
電柱のプレートに新地の文字が。遺構の少ない場所では得がたい証拠になる。
伊勢宮町のすぐ西側の寺町に、カフェーを彷彿させるような建物がいくつか散見された。
伊勢宮町だけでなく、このあたりもひょっとしたら、と想像をかき立てられる。
昭和5年ごろ、業者数38、娼妓数110
昭和30年、業者数60、従業婦数250
戦後は「黒門」という通称で親しまれていたらしい。
登録有形文化財の旧・米江楼。飾り窓や出格子も見のがせないが、最大の注目は破風。
緻密に彫りこまれた懸魚や、その奥に見える、いまにも飛び立ちそうな鳩の彫刻が出色。
平入りの和風建築のファサードだけが洋風に造り変えられている。
妓楼の一部を改造するのは戦後に各地で見られたスタイルだが、この物件ははたして。
二つ並んだ縦長の回転窓が目を引く。よく見ると、入口が微妙にななめに振られている。
レトロな雀荘。入口の上部に注目すると、遊技場と書かれた小さな鑑札が残っている。
開業当初から、ずっと雀荘(当時は麻雀屋か)として営業をつづけてきたのかもしれない。
現役の歓楽街である伊勢宮町。飲食店が目立ち、性風俗的な店舗はあまり見られない。
しかし、無料案内所があるところを見ると、そういう店も町の中にまぎれているらしい。
電柱のプレートに新地の文字が。遺構の少ない場所では得がたい証拠になる。
伊勢宮町のすぐ西側の寺町に、カフェーを彷彿させるような建物がいくつか散見された。
伊勢宮町だけでなく、このあたりもひょっとしたら、と想像をかき立てられる。
遊廓
明治38年に隣町の伊勢宮町へ移転し、おそらく消滅したと思われる。
戦後には検番があったそうだが、四十年前に転出した遊廓との関係は定かではない。
角を大きく切った建物。年季を感じさせるたたずまいだが、遺構ではないだろう。
左の奥に写っている物件も、下見板張りが映える古風な和風建築だった。
気になる建物がいくつか点在する通り。
ひょっとしたら、遊里がなくなった後も、飲食店街としてにぎわっていたのかもしれない。
三本の円柱と豆タイルの装飾が特徴の一軒。
タイルといえばカフェー建築だが、この建物は、どちらかといえば理容店を思わせる。
風俗店のようなピンク色の看板が目を引く。看板の文字はまったく読めない。
建物の造りを見るかぎり、とてもいかがわしい店だったようには見えないが、はたして。
昔はカフェーかバーだったのではないかと思われる物件。外壁は白く上塗りされている。
[左]ホテル風の旅館。なにげなく階段の下をのぞいてみると、意外な光景が現れた。
[右]それが、この箱庭風の中庭。風情こそあまり感じられないものの、ユニークな演出だ。
明治38年に隣町の伊勢宮町へ移転し、おそらく消滅したと思われる。
戦後には検番があったそうだが、四十年前に転出した遊廓との関係は定かではない。
角を大きく切った建物。年季を感じさせるたたずまいだが、遺構ではないだろう。
左の奥に写っている物件も、下見板張りが映える古風な和風建築だった。
気になる建物がいくつか点在する通り。
ひょっとしたら、遊里がなくなった後も、飲食店街としてにぎわっていたのかもしれない。
三本の円柱と豆タイルの装飾が特徴の一軒。
タイルといえばカフェー建築だが、この建物は、どちらかといえば理容店を思わせる。
風俗店のようなピンク色の看板が目を引く。看板の文字はまったく読めない。
建物の造りを見るかぎり、とてもいかがわしい店だったようには見えないが、はたして。
昔はカフェーかバーだったのではないかと思われる物件。外壁は白く上塗りされている。
[左]ホテル風の旅館。なにげなく階段の下をのぞいてみると、意外な光景が現れた。
[右]それが、この箱庭風の中庭。風情こそあまり感じられないものの、ユニークな演出だ。
花街
起源は定かではないものの、松江城の膝元である殿町に、かつて花街が存在していたと
しても、なんら不思議はない。
また、いつからか「橋北」と呼ばれるようになったらしい。大橋の北に位置するからだろう。
商店風の建物。遺構ではないだろうが、右半分には妓楼を思わせる趣向が見られる。
[左]外装は地味ながら、幅広な竪板張りが印象的だったので、なんとなくカメラを向けた。
[右]玄関をのぞくと、丸窓の凝った意匠が現れて驚いた。何かの店だったのだろうか。
袋小路の最奥部にひっそりと店を構える料亭。
隠れ家のような立地だが、それが功を奏しているのか、規模のわりには落ち着いた風情。
このサイズで入口が三つ。間取りがどのようになっているのか興味深い。
一見洋風で、カフェー的な雰囲気も感じられるものの、もともとは和風建築だった模様。
歴史を感じさせる料亭。建物は新しく、門の木材だけが当時のものかもしれない。
「ビアホール」の看板にふらふらと引き寄せられたが、酒を楽しむ時間はないので自制。
アパートのようでいて、それだけではないような気にもさせられる、なんともいえない物件。
玄関もどこかひっかかる造りだが、それはそういう意識で見ているせいかもしれない。
起源は定かではないものの、松江城の膝元である殿町に、かつて花街が存在していたと
しても、なんら不思議はない。
また、いつからか「橋北」と呼ばれるようになったらしい。大橋の北に位置するからだろう。
商店風の建物。遺構ではないだろうが、右半分には妓楼を思わせる趣向が見られる。
[左]外装は地味ながら、幅広な竪板張りが印象的だったので、なんとなくカメラを向けた。
[右]玄関をのぞくと、丸窓の凝った意匠が現れて驚いた。何かの店だったのだろうか。
袋小路の最奥部にひっそりと店を構える料亭。
隠れ家のような立地だが、それが功を奏しているのか、規模のわりには落ち着いた風情。
このサイズで入口が三つ。間取りがどのようになっているのか興味深い。
一見洋風で、カフェー的な雰囲気も感じられるものの、もともとは和風建築だった模様。
歴史を感じさせる料亭。建物は新しく、門の木材だけが当時のものかもしれない。
「ビアホール」の看板にふらふらと引き寄せられたが、酒を楽しむ時間はないので自制。
アパートのようでいて、それだけではないような気にもさせられる、なんともいえない物件。
玄関もどこかひっかかる造りだが、それはそういう意識で見ているせいかもしれない。
遊廓→現在地へ移転→酌婦指定地→赤線
昭和5年ごろ、業者数33、娼妓数53
昭和32年、業者数29、接客婦数77
メインストリート。整えられた道路がまっすぐに伸びる。
当時の道幅を歩道まで含めて想像すると、かなりの幅員を持つことがわかる。
平入りの木造和風建築。二階の窓の内側に手すりが見える。
松皮菱をかたどった巨大な飾り窓が強烈なインパクトを放つ。
逆に、それがなければごく普通の家屋に見えるという、なんともアンバランスな建物だ。
[左]かなりの規模を誇る和風建築。この地では大楼の一つに数えられていたことだろう。
[右]庭木が飛び出ている。装飾がユニークで、二階のコウモリの彫り抜きが印象深い。
大幅にリフォームされていながらも、タイルや石材や窓に、往年のなごりが見て取れる。
よく見ると袖看板の金具が残っている。近年まで何か営んでいたのだろうか。
軽妙な風合いの建物。改装がじつに自然で、どこまで原形を保っているのかわからない。
ひょっとすると、腰まわりの石材以外はすっかり取り替えられているかもしれない。
遊里につきものの銭湯が、いまも近場に二軒あった。
「弁天湯」のほうはやや離れた場所に位置しているので、遊里とは無関係かもしれない。
昭和5年ごろ、業者数33、娼妓数53
昭和32年、業者数29、接客婦数77
メインストリート。整えられた道路がまっすぐに伸びる。
当時の道幅を歩道まで含めて想像すると、かなりの幅員を持つことがわかる。
平入りの木造和風建築。二階の窓の内側に手すりが見える。
松皮菱をかたどった巨大な飾り窓が強烈なインパクトを放つ。
逆に、それがなければごく普通の家屋に見えるという、なんともアンバランスな建物だ。
[左]かなりの規模を誇る和風建築。この地では大楼の一つに数えられていたことだろう。
[右]庭木が飛び出ている。装飾がユニークで、二階のコウモリの彫り抜きが印象深い。
大幅にリフォームされていながらも、タイルや石材や窓に、往年のなごりが見て取れる。
よく見ると袖看板の金具が残っている。近年まで何か営んでいたのだろうか。
軽妙な風合いの建物。改装がじつに自然で、どこまで原形を保っているのかわからない。
ひょっとすると、腰まわりの石材以外はすっかり取り替えられているかもしれない。
遊里につきものの銭湯が、いまも近場に二軒あった。
「弁天湯」のほうはやや離れた場所に位置しているので、遊里とは無関係かもしれない。
青線?
加茂川沿いに娼家が散在していたという。
狭い路地に袖看板の突き出た飲み屋が軒を連ねている。
青線らしい雰囲気は充分備わっているものの、「散在」ではない点がひっかかる。
風変わりな建物。広いポーチ、タイルの円柱、腰の鉄平石など、気になる要素が満載。
明らかに普通の住宅とは趣を異にしているが、かといって娼家のようにも見えない。
[左]モダンな外観。相当古そうな見た目だが、当時から残る物件なのかは不明。
[右]壁にアーティスティックな装飾があしらわれている。何かを模したデザインだろうか。
二階の壁から妙なポールが伸びている。近づいて確かめると、葉っぱつきの擬木だった。
単なる装飾というには、どうも不自然だ。当初は袖看板の支柱だったのかもしれない。
小箱のようなフォルムに、大きな円のくぼみがなんともユニークな一軒。
店名になっている白拍子といえば遊女の一形態だが、そこまで深い意味はないのだろう。
この朝日町一帯ではほとんど遭遇しなかった、堅実な造りの木造和風建築。
ここが遊廓跡であれば妓楼と考えてしまうところだが、残念ながらそういう場所ではない。
細い通路の先に凝った装いの玄関。入口の左上のプレートによると、もと飲食店らしい。
こんな奥まったところにまで飲食店があったことに驚かされる。
加茂川沿いに娼家が散在していたという。
狭い路地に袖看板の突き出た飲み屋が軒を連ねている。
青線らしい雰囲気は充分備わっているものの、「散在」ではない点がひっかかる。
風変わりな建物。広いポーチ、タイルの円柱、腰の鉄平石など、気になる要素が満載。
明らかに普通の住宅とは趣を異にしているが、かといって娼家のようにも見えない。
[左]モダンな外観。相当古そうな見た目だが、当時から残る物件なのかは不明。
[右]壁にアーティスティックな装飾があしらわれている。何かを模したデザインだろうか。
二階の壁から妙なポールが伸びている。近づいて確かめると、葉っぱつきの擬木だった。
単なる装飾というには、どうも不自然だ。当初は袖看板の支柱だったのかもしれない。
小箱のようなフォルムに、大きな円のくぼみがなんともユニークな一軒。
店名になっている白拍子といえば遊女の一形態だが、そこまで深い意味はないのだろう。
この朝日町一帯ではほとんど遭遇しなかった、堅実な造りの木造和風建築。
ここが遊廓跡であれば妓楼と考えてしまうところだが、残念ながらそういう場所ではない。
細い通路の先に凝った装いの玄関。入口の左上のプレートによると、もと飲食店らしい。
こんな奥まったところにまで飲食店があったことに驚かされる。
芸娼妓混在地
昭和30年ごろ、置屋数13、芸娼妓数72
売春防止法施行後、個室付浴場の制限(許可)地域に指定され、現在に至る。
「皆生温泉」は、その名のとおり温泉地の名称だが、いまは敷衍して町名にもなっている。
温泉旅館街の中心ともいえるその一画に、鳥取県有数のソープランド街が存在する。
いわゆる「トルコ」の時代から継続している風俗街だが、それ以前のルーツは不明。
鳥取県有数といっても、もとより県内にはソープ街自体が少なく、ここも規模は小さい。
都心のソープ街をイメージして訪れると、寂しい印象を受けるかもしれない。
何か残っていないかとあちこち歩き回ったが、それらしい建物は一軒も見あたらない。
もともと娼家のような物件は建てられなかったのだろうか。
大人のおもちゃ屋と射的屋。こういった店も、かつての歓楽街情緒の一つであったろう。
皆生温泉名物というのはなんだろう。
古びた小店舗が連なる長屋建築。こちらにも大人のおもちゃ屋が一軒入っていた。
昭和30年ごろ、置屋数13、芸娼妓数72
売春防止法施行後、個室付浴場の制限(許可)地域に指定され、現在に至る。
「皆生温泉」は、その名のとおり温泉地の名称だが、いまは敷衍して町名にもなっている。
温泉旅館街の中心ともいえるその一画に、鳥取県有数のソープランド街が存在する。
いわゆる「トルコ」の時代から継続している風俗街だが、それ以前のルーツは不明。
鳥取県有数といっても、もとより県内にはソープ街自体が少なく、ここも規模は小さい。
都心のソープ街をイメージして訪れると、寂しい印象を受けるかもしれない。
何か残っていないかとあちこち歩き回ったが、それらしい建物は一軒も見あたらない。
もともと娼家のような物件は建てられなかったのだろうか。
大人のおもちゃ屋と射的屋。こういった店も、かつての歓楽街情緒の一つであったろう。
皆生温泉名物というのはなんだろう。
古びた小店舗が連なる長屋建築。こちらにも大人のおもちゃ屋が一軒入っていた。
私娼街→酌婦指定地→赤線
昭和4年、業者数12、私娼数48
昭和32年、業者数11、接客婦数43
並行する二本の通り。道路がぐるりと長方形をなす倉吉新地の長い二辺に相当する。
地図を見ると、周囲から明らかに浮いており、遊里独特の町割りであることがうかがえる。
電柱のプレートに「新地」の文字。遊里跡ではおなじみの名前だ。
声をかけてくださった地元の方も、「新地」という言葉をごく当然のように使っていた。
かなりの奥行きを持つ和風建築。木造建築ならではの重厚感が際立つ。
現存する遺構の中では、もっとも改修が目立たず、往時を偲ばせる風情を保っている。
引き戸が中央に固まっている物件。一点集中で客を引き込む方針だったのだろうか。
木材は全面的に新調されているものの、建物の造りはそれほど変わっていないようす。
これは大楼だ。かなり後ろまで下がって、ようやく全景をカメラに収めることができた。
サイディングの影響も大きいと思うが、妻側と平側で、まったく異なる表情を見せる。
上記建物から二点。[左]窓ガラスの市松模様と、ミニチュアのような欄干がおもしろい。
[右]路地裏の入口。「梅乃家」という屋号が残っている。両脇の「お」はなんだろうか。
地図を眺めると、遊里跡のすぐ北東にも、ちょっとした幅広の通りがあることに気づく。
ひょっとしたらこちらも遊里の範囲内だったのでは、と期待するも、見事に空振り。
昭和4年、業者数12、私娼数48
昭和32年、業者数11、接客婦数43
並行する二本の通り。道路がぐるりと長方形をなす倉吉新地の長い二辺に相当する。
地図を見ると、周囲から明らかに浮いており、遊里独特の町割りであることがうかがえる。
電柱のプレートに「新地」の文字。遊里跡ではおなじみの名前だ。
声をかけてくださった地元の方も、「新地」という言葉をごく当然のように使っていた。
かなりの奥行きを持つ和風建築。木造建築ならではの重厚感が際立つ。
現存する遺構の中では、もっとも改修が目立たず、往時を偲ばせる風情を保っている。
引き戸が中央に固まっている物件。一点集中で客を引き込む方針だったのだろうか。
木材は全面的に新調されているものの、建物の造りはそれほど変わっていないようす。
これは大楼だ。かなり後ろまで下がって、ようやく全景をカメラに収めることができた。
サイディングの影響も大きいと思うが、妻側と平側で、まったく異なる表情を見せる。
上記建物から二点。[左]窓ガラスの市松模様と、ミニチュアのような欄干がおもしろい。
[右]路地裏の入口。「梅乃家」という屋号が残っている。両脇の「お」はなんだろうか。
地図を眺めると、遊里跡のすぐ北東にも、ちょっとした幅広の通りがあることに気づく。
ひょっとしたらこちらも遊里の範囲内だったのでは、と期待するも、見事に空振り。