M K

遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

新福菜館

2011年12月31日 18時10分00秒 | ラーメン・グルメ
さすがにラーメンネタが多すぎるので、
カテゴリー名を「グルメ」から「ラーメン・グルメ」に変更。


大晦日も営業。これはありがたい。


猛烈にしょっぱそうな見た目に反して、鶏の甘みが効いているせいか、案外まろやか。
とはいえ、醤油の味が濃いのは事実なので注意。

京都 撞木町

2011年12月31日 16時30分00秒 | ◇京都
遊廓→赤線
大正元年、業者数19、娼妓数43
昭和2年、業者数13、娼妓数51
昭和9年、業者数21、娼妓数108
昭和33年、業者数9、娼妓数40

 
[左]遊廓の入口。左の石柱の文字は「志ゆもく町廓入口」か。風流な文字づかいだ。
[右]内側からも一枚。左の柱は無地、右の柱には「大正七年八月吉日」と刻まれている。


撞木町廓之碑。遊廓の来歴が文語体で詳しく記されている。
裏にも何か書かれていたが読み取れなかった。


「大石良雄遊興之地よろつや」とある。「よろづや」ではないらしい。
大石良雄は、大石内蔵助(くらのすけ)という仮名のほうが通りがいいだろう。

 
ひと目でそれとわかる建物は残っていない。上の二軒は少し気になった店舗風の家屋。


古い街区表示板。「撞」ではなく「橦」になっている。

 
撞木町のはずれにあった石柱。「撞木橋」は、ネット検索しても由来がわからない。
もし、遊廓でいうところの「思案橋」のような存在だったら楽しいなあ、と勝手に妄想。

 
不思議な三角形の石。明らかに人工的な形をしているが、用途は不明。
遊里と関係があるならがぜん興味がわくのだが、はたして。

なんだか石の紹介ばかりになってしまった。

長建寺

2011年12月31日 15時20分00秒 | ◇京都
中書島遊廓ゆかりの寺。

 
西柳町の北西部にある公園(名前を確認しわすれた)で見かけた案内図。
弁財天が「遊女の神として親しまれた」とある。


山門。中国の寺院を思い起こさせる。


ピンクに近い、明るい色調の赤が印象的。


灯籠や手水石を見て回ったが、遊廓や遊女とのつながりは見つけられなかった。

京都 中書島(2)

2011年12月31日 15時00分00秒 | ◇京都
(1)では西柳町が中心だったので、(2)では東柳町へ。


手作り感あふれる鱗模様がユニーク。
その左に格子窓が見える。和風建築の半分をカフェー風に改造したのだろう。

 
煤けさせることによって重厚に仕上がった板張りが目を引く。文字看板や丸窓も必見。
「木津乃家」という屋号は地図にも記されているが、現役なのだろうか。


一階はほぼリフォームされているが、それとは対照的に、二階は当時の装いそのまま。

 
かなり改装の手が入っているものの、タイルや窓の造作に往時のなごりを見て取れる。
玄関には朱書きの屋号が残存。


小田原の抹香町を連想させる四角い平屋建築。奥に引っ込んだ入口が特色。
(参照記事:抹香町の写真はこちら


建物と建物のあいだに石畳が敷かれて通路になっている。
非常に狭いが、単なる住人用の通路には見えない。誘われるように足を踏み入れた。

 
奥には茶屋風の店が軒を並べていた。退役ずみの店もある模様。
なぜこんなひっそりした場所で、と考えると謎が深まっていく。
遺構の可能性も捨てきれないが、先ほどの遊里跡とはまったく異なる雰囲気だ。

京都 中書島(1)

2011年12月31日 14時30分00秒 | ◇京都
遊廓→赤線
大正元年、業者数67、娼妓数230、芸妓数60
昭和9年、業者数68、娼妓数450、芸妓数52
昭和30年、業者数69、娼妓数228
昭和32年、業者数58、娼妓数183
以降、売春防止法の施行まで存続。


自動車が一台通れるくらいの路地にたたずむ和風建築。寺院のような欄干がおもしろい。
窓がすだれで見えないのは残念だが、建物とすだれが調和したこの眺めも魅力的だ。

 
玄関に文字看板が残っている。右のくり抜き窓は非常に精緻な造り。
ところで、こういう黒い壁の妓楼は希少だろう。墨を思わせる黒で、どこか温かみがある。

 
すだれ掛けに家紋と屋号の透かし彫りが施されている。
内側をのぞくと、チューリップ柄の面格子が現れた。予想外の趣向に驚く。


遊里ではおなじみの銭湯。シンメトリーの美しさが際立つ看板建築風のデザイン。

菊川 初咲町

2011年12月31日 08時40分00秒 | ◇静岡
遊廓(戦後は不明)
日本茶の産地として栄えた町に、旅館などとともに設置。
昭和5年ごろ、業者数4、娼妓数25
近辺に茶畑が広がっていたことから、「茶畑」という通称で親しまれた。

 
数少ない情報によると、遊廓は初咲町にあったらしい。
すでに消滅した地名だが、バス停や集会所にその名が残っている。


バス停と集会所の場所を頼りに地図を調べると、不自然に見える区画を見つけた。
写真中央の、「回」のようになっているところ。ビジネスホテルの存在も気になる。


近くの銭湯。歴史の長い銭湯であれば遊里との関係もありそうだが、さて。


残念ながら、目星をつけていた場所は更地と新築の家ばかりだった。


ビジネスホテル。実物を見るまでは、娼家からの転業のような事例を想像していたが、
これはちょっと、そういうケースではないように思える。


手がかりを失ってしまい、ほかに何かないかとうろうろ。これは居酒屋風の一軒。


気になって撮影したポール。あらためて見ると、それほど古いものではなさそうだ。

結局、遊里があったことを裏付ける材料は見つからなかった。
とはいえ、調査不足の感は否めない。次は地元の図書館で資料にあたってみたい。

夜の川崎南町

2011年12月20日 20時30分00秒 | ◇神奈川
南町は時おり会社帰りに散策しているが、写真は初。


スナックとして営業中。奥は旅館。


旧・かの子。現在は民家と思われる。


最近まで営業していたと思うのだが。閉店してしまったのか、たまたま休みだったのか。

ここまで来て、あたりがものものしい雰囲気であることに気づいた。
組事務所の周辺にたくさんの駐車車両、さらに組員らしき数人が交通整理までしている。
散策の途中だったが、長居は無用ということで早々に引きあげた。

津 橋向町

2011年12月10日 15時40分00秒 | ◆東海
専修寺の参詣客を目当てにできた遊里。
昭和5年ごろ、業者数11、娼妓数50

 
一身田寺内町の図(左)と説明文(右)。
「黒門跡」(図の赤丸部分)の説明に、「これより南に遊廓街を形成」とある。
昭和30年ごろまで栄えていたということは、戦後は赤線に移行したのだろう。

 
黒門跡。橋の向こう側が遊廓のあった場所。


まっすぐ延びる通りに古い日本家屋が建ち並ぶ。

 
上の写真のいちばん手前の家屋。「永」と刻まれた鬼瓦やタイル張りが目につく。

 
木と竹で組み合わされた玄関まわりの装飾が印象的。
すっかり色あせてしまっている赤い壁も、往時は人目を引く華やかな彩色だったであろう。

 
奥行きのある建物。このあたりでは大店だったと思われる。奥のほうは三階建て。

 
洋風の建物にタイルの装飾を発見。しかし、これは関係ないかもしれない。