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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

直方・飯塚・六本松・中洲

2019年01月13日 07時30分00秒 | ◇福岡
福岡遠征二日目。最終日。

直方では、遺構のアパートや石柱が健在でほっとした。
前回訪問時になにげなくシャッターを切り、後日「遊廓」の文字が刻まれていることに
気づいた石碑を、今回はしっかり撮影。

飯塚では、飲み屋やスナックが密集する本町のあたりを中心に探索。
前回訪れた西町の再訪は、時間の都合で見送った。

田川 栄町

2013年05月03日 17時30分00秒 | ◇福岡
最初は花街としてスタートし、のちに遊廓地として認可
昭和4年、業者数67、酌婦数210

 
親子格子を有する和風建築。二階の造作に惹かれた。


空き地に玄関の痕跡が残る。どんな建物だったのだろう。



 
玄関戸の隙間から内部をうかがうと、手の込んだ意匠が目に飛び込んできた。

 




田川伊田駅から栄町へ向かう途中にあるスナック街。あきらかに現役ではない風情。
かつて青線であった可能性はあるのだろうか。

以下余談。
18時を知らせるチャイムのメロディーが、盆踊りでおなじみのあの炭坑節だった。
こういう地域独自の風習はいいなあ。

飯塚 西町

2013年05月03日 15時00分00秒 | ◇福岡
昭和4年、業者数33、酌婦数129

明らかにそれとわかる遺構はすでに残っていない。
古い建物を眺め、過去を想像しながら歩く。


メインストリートに入る直前、その横道にたたずむ建物群に注意を引かれた。
(以下2点も同様)





 
かなり崩壊が進んでいる。入口まわりにはわずかながらタイルの装飾が見られた。



 
かすれた看板を注意深く見ると、以前は新聞の専売所だったようだ。

 
玄関まわりの造作に惹かれた。

直方 西町

2013年05月03日 13時40分00秒 | ◇福岡
表向きは花街とされていたものの、実態は私娼街だったらしい。

 
建物の側面に回ると、パステル調のタイルの装飾が現れた。



 
現役の料亭。赤色のプレートははじめて見たかもしれない。

 
個性的な看板建築。相当直されているが、もとはなんの建物だったのだろうか。




豪快に改められた洋風のファサードの上から、和風の屋根の拝み部分がのぞく。


多賀神社

2013年05月03日 13時30分00秒 | ◇福岡
高台に建つ神社。
遊里との関係は明らかではないものの、一つおもしろいエピソードがある。


直方の遊廓は、多賀神社と同じく、小高い丘に設置された。
そこへ、大勢の遊客がぞろぞろとのぼっていく。
その光景は、人々の目に、まるでもう一つ新しい多賀神社が現れたかのように映った。
そのことから、直方の遊廓は、俗に「新多賀」と呼ばれるようになったという。


今回は時間がなく、外からの撮影のみ。

直方 二字町

2013年05月03日 12時30分00秒 | ◇福岡
明治41年、貸座敷許可
昭和5年ごろ、業者数15、娼妓数120


大門の柱が片側のみ残っている。
かろうじて「遊廓」は読めるものの、それ以下の文字が判読できない。

 
元妓楼がアパートとして健在。その大きさに圧倒される。


遊里跡のあたりから市街地を見下ろす。
その立地の高さから、「山」と称されることもあったという。

 
注意を引かれた建物。手すりや窓の一部が凝っている。

 
なんとなくカメラを向けた石碑だったが、帰宅後にじっくり写真を見てみると、
中央に「直方遊廓」と書かれているようだ。
もっと仔細に撮影しておくべきだった。




引き返す途中、石垣の上にホテルのような謎の廃墟を発見。
これもなごりの一つだろうか。

福岡 新柳町(2)

2012年04月29日 17時00分00秒 | ◇福岡
福岡遠征のラストスパート。もう少し新柳町を歩く。


現在はもはや見る影もないが、遊廓の入口にはかつて、石製の大門が建っていたという。
そのなごりなのか、ここ一帯の電柱には「大門」と書かれたプレートが貼られている。

 
二重庇と欄間が特徴的な和風建築。外壁はトタンで覆われており、なんともいえない。


不思議な構造の建物。窓の配置も奇妙な印象を受ける。奥がどうなっているだろうか。

 
微妙な壁の色や、二階の窓のテントが、単なる住宅ではなかったことを示している。
右手に回ると、奥まった意味ありげな入口が現れた。想像をかき立てる造りだ。

 
木材やモルタルの色あせ具合が時の流れを感じさせる。
注目は二階の窓の組子細工。戸袋の大和張りにも細かいこだわりがうかがえる。


遊里につきものの銭湯。裏手に回ると、極太の煙突が姿を現す。
廃業してしまったのか、ウェブ上の地図に「桜湯」の記載は見あたらない。

 
かつて新柳町には、「一楽」という名の、奇抜な外観で知られる大楼が存在した。
このホテルがその末裔なのか、単に名を借りたのかは不明だが、無関係ではあるまい。

福岡 新柳町(1)

2012年04月29日 16時30分00秒 | ◇福岡
遊廓→赤線
明治43年、柳町から移転
大正4年、業者数47、娼妓数650
昭和5年ごろ、業者数42、娼妓数520
昭和30年、業者数76、娼妓数648

 
歴史を感じさせる料亭。位置としては、かつて遊廓のあった手前になるだろうか。
当時は芸妓もいたそうだから、この周辺は、花街的な役割を担っていたのかもしれない。


不思議な外観の建物。ななめに引っ込んだ入口や、怪しげな壁の色が気になる。


レトロな三階建て。一応写真を撮ってみたものの、遊里とは無関係かもしれない。

 
連続するアーチが象徴的なカフェー建築。
玄関や腰に貼られたタイルは、遊里であまり見ない種類だが、当時のものだろうか。

 
迫力のある三階建て。看板建築調の前面だけでなく、うしろのほうも三階まである。
奥行きはさほどではないとはいえ、部屋数は相当ありそうだ。

 
平凡なモルタル造りのように見えて、後方へ回ると、そう単純ではない構造が見えてくる。
外観はかなりリフォームされているため、もとの姿を想像するのは難しい。


角を切った建物というと、角地に建っているイメージがあるが、目の前に例外が現れた。
全体の造りも独特。和風のようでありながら、単純に和風とはいえない様式である。

選擇寺

2012年04月29日 16時00分00秒 | ◇福岡
柳町遊廓(新柳町遊廓の前身)ゆかりの寺。
遊女のひとりである雪友の墓と、ほかの遊女たちの無縁墓が建てられている。


山門。


読みは「せんちゃくじ」。


雪友の墓は、寺の裏手のほうにあった。
雪友は大変信心深く、寄進も多かったため、特別に墓が建てられることになったようだ。


「博多柳町 名娼 雪友之墓 文久元年六月廿七日 寂十九歳」とある。
死因は不明だが、非常に若くしてこの世を去ったことがわかる。


重ね置きされていた卒塔婆を、失礼して横並びにして撮影させていただいた。
右が雪友の卒塔婆、左が雪友の母親の卒塔婆。

最後に両手を合わせて、寺を辞去。
次の目的地へ向かうバスの中で、無縁墓を見忘れていたことに気づいた。

福岡 大浜 ~拾遺編~

2012年04月29日 15時30分00秒 | ◇福岡
大浜のあれこれを落ち穂拾い的に。

 
大浜公民館。大浜の名を残す数少ない物件の一つ。


看板建築。手がかりがなく、何かの店だったのだろうとしか想像できない。
興味を引かれたのは、建物の両脇に残る不思議な石柱。下の写真二点がそれだ。

 
[左]向かって左側。低い石柱である。かろうじて「櫻木」と読み取れる。
[右]右側。何か書かれているようにも見えるが、判読不能。

 
タイルをまとった極太の円柱が惹かれた。ただし遊里とは無関係だろう。


カフェー建築を思わせる豪華な三階建て。カフェーほどの築年数はなさそうだ。

 
タイルが散乱していた駐車場。かつてはこの場所にも妓楼が建っていたのだろう。

 
駐車場の塀。手前にタイル、奥にレンガの装い。
もとより塀だったのか、もしくは建物の壁だったのか、まったく想像がつかない。

福岡 大浜(2)

2012年04月29日 15時00分00秒 | ◇福岡
大浜探索を続行。

 
アーチ窓や丸窓、本を開いたような形状の窓と、華やかな窓の数々が建物を引き立てる。
要所にあしらわれたタイルは、大小さまざま、色とりどり。末長く残っていてほしい。

 
奥深い入口が気になる看板建築。二階の茶色い塗装(石材?)はあまり見ない色あいだ。


戦後に建てられたとおぼしき旅館。現役ではないようだが、転業旅館だったのだろうか。
外観に目立った装飾はなく、地味な見た目ながら、どことなく独特の雰囲気がただよう。


二階の装いが凝っている。皿を伏せたようなアーチが、大小合わせて十二個。
玄関脇の赤い壁も見のがせない。よく見ると、二階も赤が色あせたような感じがある。

 
玄関まわりに趣向が集中。八角形の飾り窓や二重の屋根の演出がおもしろい。
建物が小さい上、かなり直されているため、本来どんな建物だったのかは定かでない。

 
県道43号線を渡り、東側へ。遊里はこちら方面にまで及んでいたと思われる。
写真は和とも洋ともつかない物件。木彫りや鉄格子など、じつに多様な装飾が見られる。


出格子が美しい和風建築。妓楼に直結するような艶っぽい雰囲気は感じられない。
このあたりは商店街だったのか、大半の建物は、古いながらも遺構でない印象を受けた。

福岡 大浜(1)

2012年04月29日 14時00分00秒 | ◇福岡
私娼街→赤線
昭和4年、業者数85、娼妓数293
昭和30年、業者数120、娼妓数300


左右に入口を配している。和風ともカフェー風ともつかない中庸的なデザインが特徴。
微妙にせり出した二階の出窓がおもしろい。下部にあしらわれた雲形の装飾も印象的だ。

 
二階のアーチ窓が象徴的。反対側は三階建てになっており、窓の造作も見のがせない。
アーチ窓をよく見ると、円柱のねじれが左右対称で、シンメトリーの美学が感じられる。

 
軽自動車が通れるくらいの路地に、この建物がひっそりと残っていた。
建物は小ぶりながらも、重厚なタイル使いが存在感を放っている。


外壁に塗られた色のせいか、どっしりとした雰囲気をただよわせているカフェー建築。
タイルの装いを除外しても、建物全体の造りが普通の家屋ではないことを物語っている。

 
上記物件から二点。[左]青タイルで彩られた円盤状のオブジェがおもしろい。
[右]カーブを描く壁と、それに呼応する窓とタイルが絶品。赤タイルとの対比も効果的だ。


一見なんということのない小旅館だが、写真に写っている猫が館内へ入っていったので、
誘われるように中をのぞいてみると、欄間に施された雲形の装飾が目に飛び込んできた。

 
窓の縁や小窓の庇に、こげ茶色の豆タイルがあしらわれている。
入口は、ふさがれているものを含めると四つだろうか。この規模にしてはかなりの数だ。

北九州 戸畑(2)

2012年04月29日 11時30分00秒 | ◇福岡
ひきつづき戸畑を歩く。

 
堅固な印象のカフェー建築。この規模にしては入口が少ないほうかもしれない。
特筆すべきは玄関の装飾。波状にうねった壁にきっちり貼られたタイルに圧倒される。


指示代名詞の屋号。性的な意味合いを含む単語だが、そういう意図はあるまい。
よく観察すると不思議な造りをしている。遺構かどうか定かではない。

 
小料理屋風の一軒。撮影時には気づかなかったが、右側面の崩れ方が不自然。
ひょっとすると、以前は右奥の建物(「あそこ」の物件)とつながっていたのかもしれない。


スタイリッシュな石材が特色。艶っぽさに欠けるとはいえ、普通の住宅には見えない造り。
石材に比べ、木材の朽ち方が目立つ。石材はリフォームの成果なのだろう。

 
県道を渡り、南鳥旗町へ。こちらには古い旅館やホテルが残っている。
写真の物件が転業旅館なのかは不明だが、華やかなタイルの装飾は見ごたえがあった。


上記物件の裏手。袖看板や凝った引き戸を見ると、単なる通用口とは思えない。
想像を刺激されるたたずまいである一方で、思い過ごしである可能性も高い。

 
現役旅館のようだ。規模はかなりのもので、遺構なら相当な大店だったであろう。
建物は古そうだが、徹底的にリフォームされており、昔日の面影はほとんど感じられない。