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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

新城

2013年06月29日 09時00分00秒 | ◆東海
新栄連と呼ばれる赤線があったらしいが、その歴史や場所などは一切不明。
業者数10、従業婦数23という記録が残っている。

何かないかと新城駅の周辺をさまよう。以下の写真の場所はばらばら。



 
なんということのない小さな橋だが、名前を見てのけぞった。
これは遊里でおなじみのあの橋だろうか。
ひょっとしたらと思い、対になる「思案橋」を探すも、そちらは見あたらず。




親子格子の建物。腰のストライプがいい。

 
新栄連という名は、「新城市」「栄町」の頭字を合成したものかもしれない。
栄町という地名はないが、通称として使われており、同名の交差点やバス停が存在する。
そのあたりを歩いてみたものの、収穫なし。


二階の軒下に雀荘の看板が残っている。


桑名 長島

2012年04月01日 08時30分00秒 | ◆東海
遊廓→赤線
明治5年ごろ、業者数5、娼妓数26
昭和5年ごろ、業者数13、娼妓数103
赤線時代は「水郷園」と呼ばれていた。

残念ながら、これはと思える決定的な遺構は見つけられなかった。
手ぶらで帰るのも寂しいので、目についた古そうな建物を恣意的に撮影していく。


長島町のゲート。小さく「水郷公園」と書かれている。「水郷」の名を残す一つだろうか。


古そうな建物。妓楼にも商店にも見えないものの、気になる造りではある。

 
三つの入口に、出格子を備えた平屋建て。もともとはなんの建物だったのか興味深い。

 
小道を歩いていたら、風流な建物が現れた。玄関まわりに華やかな雰囲気がただよう。

 
窓におもしろい趣向が見られたので撮影。とはいえ、このたたずまいは一般住宅だろう。


元商店といった風情。遊里がこのあたりにあったのか、だんだん自信がなくなってきた。


遺構の可能性があるとすれば、この建物か。サイディング前の様子を見てみたい。

四日市 住吉町(2)

2012年04月01日 06時30分00秒 | ◆東海
ひきつづき住吉町を探索。


カフェー建築というには無骨な造作だが、古そうな外観に惹かれてカメラを向けた。
鏡映しのような二階に対し、一階のほうは微妙に装いが異なっているのがおもしろい。

 
横に長い建物で、右奥まで連続している。
色あせてしまっている赤い壁も、かつては鮮やかな色彩で人目を引いたことだろう。

 
格子窓が美しい和風建築。二階の軒下に照明の跡が確認できる。
玄関まわりはタイル張りだが、これは昔からのものではなく、最近のリフォームのようだ。


築年数は相当と思われるものの、いま一つピンと来ない一軒。
妓楼や料亭といった種類の建物ではないのかもしれない。


親子格子や下見板など、木造部分が見どころ。
ただし、一階の木材は、二階の色具合と比べてみると、新しく交換されたものらしい。

 
廃屋然としたたたずまい。軒下の電球が往年の形状をとどめている。
門もかなり古そうな印象を受けるが、華奢な造りで、とても長持ちするようには見えない。

 
左右で印象の異なる物件。右奥の白い部分もつながっており、見た目以上に大きい。
入口の唐破風は凝った造り。照明の上部に何か書かれているようだが、なんだろう。

四日市 住吉町(1)

2012年04月01日 06時00分00秒 | ◆東海
遊廓→赤線
詳しいなりたちは不明だが、運河に囲まれたその独特な地形から、
計画的に設置された遊里であることが想像できる。

 
煤けた木材と大きな丸窓が目を引く和風建築。小ぶりな料亭といったたたずまい。
入口の上部には、料理店のプレートが残っていた。


朝明楼。住吉町から運河を隔てた対岸に位置する現役の料理旅館。
場所は遊里から外れているが、その立地から考えて、遊里と無関係ではなかっただろう。

 
建物は小さいながらも、入口を二つ備えた構え。
かなり直されているものの、かろうじて欄間の造作に特徴が残っている。


こちらも入口が二つ。親子式の出格子を除けばシンプルな外観といえる。

 
工場のようなコンクリート造りにカラフルなタイル張り。不思議な建物だ。
よく観察すると、銭湯のような構造だと気づいたが、煙突がなく、確証は得られない。


料亭と思われる店構え。屋根の上から、恵比寿天と大黒天が通りを見下ろしていた。

 
相当の奥行きを持つ和風建築。壁の色や玄関の装飾に、往時の華やかさがうかがえる。
現在はお茶屋(待合ではない意味の茶店)として営業しているようだ。

各務原 那加

2012年03月31日 17時00分00秒 | ◆東海
青線
昭和33年、業者数5、娼妓数10

那加の遊里については資料が乏しく(青線だからしかたない?)、場所もはっきりしない。
今回は、那加大東町と那加西野町の二つの町を歩いてみた。


まずは那加大東町。閑静な住宅街の一画に、スナックなどの入った建物が固まっている。
このあたりは昔、進駐軍の基地に隣接した地域。いろいろ想像はできるが、真相は不明。

 
[左]一風変わった外観に惹かれて撮影したものの、これは遺構ではないだろう。
[右]石材の使い方が大胆で、雰囲気もある。とはいえ、遺構と断定するには材料不足。


ここ那加には「那加楽天地」という地域がある。電柱にも「楽天地」のプレートを見つけた。
楽天地といえば、立川や亀有や横浜など、遊里ではポピュラーな通称。
気にはなったが、日没が迫っている。電柱だけ撮影し、那加西野町を目指す。

青線は「西野町」にあったらしい。現在の那加西野町と考えて間違いないだろう。
ほどなく那加西野町に到着。


現役の旅館。最初は娼家からの転業を想像したが、青線の転業にしては立派すぎるか。

 
青線ということを念頭におくと、該当しそうな物件は一軒も見あたらない。
あとは青線かどうかを気にしないで撮影するしかない。この写真は古そうな和風建築。

 
少し歩くと、さらに古そうな物件が現れた。玄関の屋根瓦に凝った装飾が見られる。
あたりは暗くなりはじめており、カメラも限界でピンぼけ気味。

 
右隣りの和風建築。二階の欄干のトンボのような透かし彫りがおもしろい。

多治見 西ヶ原

2012年03月31日 14時00分00秒 | ◆東海
遊廓→赤線
大正元年、業者数13、娼妓数86
大正10年、業者数11、娼妓数90
昭和5年ごろ、業者数11、娼妓数87
昭和33年、業者数9、娼妓数28
「西ヶ原」は昔の地名で、現在の広小路2丁目あたりが該当する。


たじみ広小路。かつては「遊廓通り」と呼ばれ、道沿いに妓楼が建ち並んでいたという。

 
残念ながら、旧遊廓通りにそれらしい建物は残っていない。
ちょっと横道に入ってみると、腰に豆タイルをあしらった和風建築が現れた。

 
一本南側の通りに、丸窓が目を引く和風建築が残っていた。花街的な風情がある。

 
レトロな玉突き場。妓楼と直接の関係はないものの、過日の栄華を物語る貴重な物件。
全体は和風の造りでありながら、入口まわりは洋風の装いになっている。


引き戸の多い和風建築。この通りは商店街だったそうだから、この建物もその一つだろう。


出格子の色が渋い。うっかり妓楼と断定してしまいそうだが、このあたりも商店街である。
奥はなぜか大和張り。板が比較的新しいところを見ると、改装後の意匠かもしれない。

 
旧遊廓通りの北側。まっすぐ伸びる路地に沿って、平屋建てが連なっている。
看板があったりと、かつては何かの店だったと思われる家が目につく。興味深い一画だ。