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チクシ王権はヤマト王権に変遷したのか?

2015年05月17日 | 日本古代史散策

 チクシ倭国の時代:

紀元前1世紀から紀元2世紀頃までの倭国は、北部九州の奴国や伊都国などのチクシの国々が中国王朝(この頃は前漢、後漢)との外交を主導し、中国の華夷思想にもとずく朝貢・冊封体制のもとで東夷の倭国という地域を統治するの権威を得てきた。この頃の東アジア的世界観では、圧倒的な文化力と経済力を持つ中国王朝の皇帝から冊封を受けることが、その地域での王権の維持に不可欠であった。北部九州チクシは列島の中で大陸に最も近く、人の往来も古来より盛んで、ことに弥生文化を代表する水稲稲作農耕が倭国で一番最初(紀元前10世紀頃)に入ってきた地域であり、最も先進的な地域であった。したがって、奴国や伊都国のような国がこれら倭国連合において経済的優位性と外交的優位性を享受できたとしても不思議ではないだろう。

 

このことは後漢書東夷伝の記述(57年の奴国王の朝貢「漢委奴国王印」、107年の倭王帥升の遣使)にあるのみならず、考古学的にも検証されている。紀元前1世紀の奴国の王都であるスク・岡本遺跡からは30枚もの前漢鏡やガラス装飾品、武具などの王の権威を示す中国皇帝からの下賜品が出土している。また、同時期の伊都国王墓と言われる三雲・南小路遺跡や井原・槍溝遺跡、さらには平原王墓遺跡からも、奴国王墓を上回るほどの前漢鏡、装飾品が出土している。また、福岡市の早良で発掘された吉武・高木遺跡(早良国の遺構といわれる)からは、最初期の王墓らしき遺構が見つかっており、ここからも多数の中国由来の遺物・威信財が出土している。紀元前1世紀から紀元2世紀初頭までは、近畿を始め、出雲・吉備などの地域では見られないことで、北部九州チクシが中国王朝から冊封を受け、統治権威を有する、倭人社会、倭国連合の中心であったことを示している。

 

「漢委奴国王」の金印が出土した福岡市の志賀島

 

奴国王墓

春日市のスク・岡本遺跡

伊都国王墓

糸島市の三雲・南小路遺跡

伊都国王墓

糸島市の平原遺跡

吉野ケ里遺跡の復元神殿

 

巫女が神がかりとなって御宣託を聞く

その御宣託に基づいて王と一族の長が集まり意思決定する。

 

ヤマト倭国の時代へ:

 ところが、2世紀後半から3世紀になると、こうしたチクシ中心の倭国の姿が、ヤマト中心の倭国へと変遷してゆく様子が見られるようになる。史書の記述でいう「倭国大乱」の時期を境にこの変異が起こっているようにみえる。例えば、考古学的にはこの頃になるとチクシにもヤマトから伝来した土器などが出現するようになるが、その逆は見られない。ある時期から倭国連合の中心がチクシからヤマトへと移ったらしい。3世紀後半の古墳時代になると、明らかにヤマトに大型の前方後円墳が出現し、初期のヤマトの古墳(ホケノ山、メスリ、黒塚古墳)からは多数の三角縁神獣鏡などの後漢鏡・魏鏡などの中国からの威信財が出土する。やがてこの前方後円墳という墓制はヤマト王権の倭国支配の権威の象徴として各地域の首長へ伝搬されてゆく。チクシで主流であった土坑墓や甕棺墓などの墓制はヤマトでは見られず、やがてはヤマトで出現した前方後円墳がチクシへも伝搬してゆく。

 

魏志倭人伝の記述にあるように、「倭国大乱」の後、3世紀半ば(249年)に邪馬台国女王卑弥呼が、魏の明帝に使者を送り冊封された(親魏倭王)。その時に銅鏡100枚を下賜された。また、チクシの伊都国には卑弥呼の代官、一大卒が駐在して、大陸との通交、九州の統括を行っているとされている。この頃には57年に後漢に朝貢した奴国王の存在は記述されておらず、奴国には地方官僚の存在のみ記されている。すなわちチクシは邪馬台国の支配下にあった。その邪馬台国はどこにあったのか?九州のどこかなのか、それとも近畿なのか。有名な邪馬台国論争だ。また卑弥呼の死後は「大いに塚をつくり」埋葬していることから、ヤマトの箸墓古墳がそれではないか。これは邪馬台国、卑弥呼がチクシのクニ、女王ではなく、ヤマトに起こった(あるいは移動してきた)クニであることを推測させるものではないか(邪馬台国近畿説)。もちろん後世、倭国の中心が北部九州を離れ、近畿に移ったことは明らかなのだが、問題は「何時」「どのように」ということだ。

  

卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳

 

箸墓古墳の背後にそびえる三輪山

メスリ山古墳

最古の古墳形式を確認できる貴重な遺跡

 

崇神天皇陵(行灯山古墳)

巨大な古墳が並ぶ大倭古墳群

 

ちなみに、鏡は、統治権威を伝える威信財として重要な役割を持っていた。中国皇帝から下賜された複数(数十枚~100枚)の銅鏡は、下賜された王が、さらに「中国皇帝から倭国王として冊封された証」として、さらに連合王国の地域の王や首長に「権威の象徴として」下賜する。という構造になっている。このような「威信財」を配ることで地域支配の権威を与える、という統治の仕掛けは、5世紀に入ってヤマト王権が次第に倭国全般のし支配圏を確立してゆく「倭の五王」の時代にも引き継がれる。埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出た「獲加多支鹵」(倭王武、ないしは雄略大王)の金石文が入った鉄剣などが、ヤマト王権が地方首長の地域支配を冊封した証拠だといわれる。

 

倭国大乱:

話を戻すと、このようなチクシとヤマトの倭国支配の勢力逆転はいつ頃、どのように起こったのか?これが「邪馬台国の位置論争」の正体である。そう理解しないと議論する意義はない。1世紀にはチクシが、3世紀になるとヤマトが倭国の盟主となる。魏志倭人伝によれば、男王の治世が7~80年続いた後、2世紀後半(146~189年頃)に「倭国大乱」で王がいない時期が続く。「倭国大乱」とはどのような争いであったのか。なぜ騒乱になったのか(何を巡って争ったのか?)。何が当時の倭国に起こったのか。邪馬台国の卑弥呼擁立により騒乱は収まったとされるが、それはチクシでの話なのか、もっと広範囲にヤマトを含めてで起こったのか?。

 

おそらく「倭国大乱」は当時の東アジア情勢の流動化が原因であろう。後漢王朝の滅亡は周辺諸国に、戦乱、地域支配権の攻防や、亡命、難民の発生など大きな影響を与えた。倭人社会においても、漢王朝の冊封を受けていたと倭国王が、その統治権威を失い、争いになっただろう。また、稲作農耕や武器として必須の戦略資源である「鉄」は当時朝鮮半島南部でしか入手できなかったが、その入手ルートや資源権益を掌握していたチクシ倭王がなんらかの理由で争いに破れ、ヤマト倭王に奪われてゆく。また、大量の亡命者や難民が列島に押し寄せた可能性もある。そういった混乱が王位継承争い(倭国連合盟主争い)の実態ではないかと考える。やがて邪馬台国の鬼道をよくするシャーマン卑弥呼を倭国連合の霊的権威として担ぎようやく乱が収まった。すなわち、中国との外交権、武力による支配権の争いを、祭祀権をもって収めた。

 

邪馬台国がヤマトならば、57年のチクシ奴国王の後漢への朝貢、107年の倭王帥升(伊都国王であろう)の朝貢から100年足らずの間に近畿地方に北部九州チクシを凌駕するヤマト・邪馬台国が生まれたことになる。漢に代わる新しい中華王朝魏の冊封を受け、なんらかの形で半島の製鉄利権を獲得し、チクシにかわって倭国連合の盟主となったヤマト・邪馬台国は、こうして大陸から遠く離れたヤマト奈良盆地に、大陸に最も近い先進地域である北部九州チクシの奴国や伊都国を凌駕する外交力、武力を持ったクニを出現させた。ということなのか?

 

 

ヤマトの起源は?:

そもそも山々に囲まれた内陸の盆地であるヤマトでは、弥生世界でどのようにクニが形成されていったのだろうか?もともとヤマト盆地に発生した弥生の農耕集落・ムラが成長していってクニになったのか?あるいは、西から移動してきた勢力によってある時期に形成されたクニなのか?意外にわかっていない。

 

奈良盆地の中心部に位置する(古代奈良湖のほとりの湿地帯に形成された)唐古・鍵遺跡は弥生初期(紀元前3世紀頃)の大環濠集落跡であるが、これがのちの邪馬台国に発展していった形跡はないといわれている。古墳時代までには消滅している。一方、3世紀頃、三輪山の山麓に形成された纒向遺跡は人工的に建設された「都市」のようで、各地の土器が出土するなど、「共立された女王卑弥呼の都」らしい雰囲気が溢れている。卑弥呼の神殿と思しき遺構からは、祭祀に用いられたと思われる桃の種が大量にみつかるなど、中国の神仙思想の影響を受けた有様が見て取れる。もちろん3世紀後半から始まった巨大古墳群の築造がヤマトの独特の景観を形作るようになるのだが、ここヤマト邪馬台国には防御を念頭に置いた弥生型高地性集落も環濠集落も(唐古・鍵遺跡の他に)見つかっていない。

 

このような列島内部の盆地に位置しながら大陸との交流は誰が取り仕切ったのか?後世、チクシの安曇族(住吉族)や宗像氏がヤマト王権の大陸との通交を取り仕切るが、ヤマト初期(チクシと覇権を争っていた時期)には誰がそれを行ったのか。それがなければチクシに代わって倭国連合の盟主にはなれなかったはずだし、帯方郡を通じての魏への朝貢もできなかったはずだ。

 

唐古・鍵遺跡

ヤマト盆地最古の稲作農耕環濠集落跡

 

竜王山から望む奈良盆地

古代にはここが左の図のように湖だった

正面に二上山

古代奈良湖推定図

唐古・鍵遺跡や纒向遺跡の位置に注目

 

三輪山

纒向遺跡の発掘

卑弥呼の神殿ではないかと言われる遺構が発見された

背後には三輪山がそびえる

 

我々はヤマト、すなわち山々に囲まれた奈良盆地の箱庭のような舞台が日本の誕生の地、日本文化発祥の地だと考えている。もちろんそれは事実だ。ある時期以降、ヤマト王権が列島支配権を確立してゆく過程で奈良盆地が倭国・日本という国家の揺籃の地であったことは間違いない。しかし、見てきたように、実はヤマトがなぜ、いつ頃、倭国・日本の中心となっていったのかは謎に包まれている。列島の文化は弥生以降、大陸に近い西から東へと伝搬していった。大陸の文化や経済と切り離して成長は考えられない。それらをいかに獲得・独占するかが支配者の争いの核心であった。その過程で北部九州チクシから近畿ヤマトが中心となっていった訳だが、その間の事情はまだ解明されていない。日本の古代史はまだまだ多くの謎に満ちている。

 

今回は、あえて8世紀初頭に編纂された日本側の歴史書である日本書紀や古事記の記述には触れなかった。もちろん中国の史書が正確なものであるとは考えないが、編年体で記述され、8世紀以前に記述された文献資料としては史書しかないこと。また、これら史書の記述と考古学的発掘成果の突合による時代考証が比較的可能であることは、古代史を研究する手法においては貴重であると考える次第である。

  

古代伊都国は今...

 

 

 


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