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時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

平安京ここに始まる ~青龍殿将軍塚からの眺め~

2015年11月05日 | 京都散策

東山山頂の「将軍塚」からは京都市内を一望できる。

正面の緑地は京都御苑(御所)。

平安京の大極殿はこの画面の左奥に位置していたが現存しない

平城京、長岡京からの遷都を考えていた桓武天皇は、側近の和気清麻呂の案内で山背国葛野(かどの)の地、東山の山頂に登り立った。山に囲まれ、豊かな川の流れに恵まれ、風水にかなった地形をみて、ここをあらたな都に決めたという。そして新都鎮護の祈りを込めて、将軍の像を造らせ、それに甲冑をまとわせて埋めたのが将軍塚だといわれている。793年のことだ。そしてわずか1年後の794年には平安遷都がなる。以来、この地は明治の東京奠都までの1000年の都となる。

 今でもここは京都を一望に見渡せる絶好のビューポイントだ。特に清澄な秋の空の下、とても視界が効いてよく見渡すことができる。ここには青蓮院の離れ青龍殿があり、大日如来を祀る大日堂があった。木造のテラスが去年新設され、新たな京都の観光名所として脚光をあびることとなった。ここには青不動(国宝)が安置されている。

 たしかにこうして見渡すと京都は四神相応にかなっている。日本における風水、四神相応は中国における地形の比定とは異なっているそうだが、北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎であることは同様で、平安京について、東青龍を鴨川に、西白虎を山陰道、南朱雀を巨椋池(今は干拓で消滅してしまったが)、北玄武を船岡山にあてる。もっとも比定地には諸説あるようだ。

京都は日本の首都としては地の利を得たロケーションと言える。東西南北に延びる街道、淀川を経て瀬戸内に延びる水運、琵琶湖の水運など都が置かれる位置としては最適だった。このころはいまだ現在の東北地方は蝦夷の地とされ、朝廷の支配が安定している領域は今よりも日本列島のずっと西に偏っていたのでまさに日本の中心であった。西南の雄藩中心の明治新政府が、徳川幕藩体制の拠点であった江戸の制圧、それを最後まで支えた東北諸藩地域の統治、さらには北海道の開拓などで、都を京都から江戸、すなわち東の京都、東京に移したことで日本の中心がより東寄りになったのは比較的新しいことである。

 京都盆地は、以前の都があった奈良盆地とはどのように異なるのか。奈良盆地は西は河内、難波をへて瀬戸内海に開けて良いが、東へは山に阻まれて都合が悪い。ヤマト王権、さらには朝廷が東国への支配を強め、物流、情報流を活発にするにはやはり遷都が必要であった。飛鳥、奈良からさらに京都へと北に向かって都を移していった。この南北一直線上の遷都にも合理的意味があるのだろう。その地の利ゆえに京都はその後1000年もの間日本の首都として続いたわけだ。

 一方、奈良や飛鳥がシルクロードの東端として、積極的に都の国際化を図り、渡来人コミュニティーが出来ていた国際都市であったのと異なり、京都は国内の物流・情報流の中心としての性格がより濃くなった。すなわち飛鳥倭国時代は蘇我氏のような渡来人コミュニティーを権力基盤とした有力豪族が大王家と姻戚関係を結びつつ、大陸との文化・経済交流を国の安全保障と国富発展の基礎としてきた。しかし白村江の敗戦以降は国内統治体制整備と防衛に邁進し、都には比較的安定した国内の政治経済の中心としての役割が求められるようになる。それでも藤原京、平城京は対外関係を意識した壮大な中国風都城の建設を企図したものであったが、平安京は、菅原道眞の建議で遣唐使が廃止され、国風文化が盛んになる平安時代の象徴的な都であった。ある意味で日本がよりドメスティックで内向きになり平和な時代(平安時代)が続いた。のちの鎖国体制の江戸時代はその再来なのであろう。勿論唐物に対する憧れはあったにしろ、国際関係は、もっぱら都から遠い筑紫の太宰府、鴻臚館を中心とし、むしろ都には外国船を近づけない方策が取られた。これを破ろうとしたのは武家の棟梁平清盛で、瀬戸内海を国際航路として整備し、都に近い福原に国際貿易港を作り、さらには遷都すら企画した。しかし、こうしたグローバル派は歴史上は少数派である。平安遷都は国内と国際を分離する、二元論で生きてゆく時代の始まりであった。

 しかし、そのような遷都の歴史的合理性・意味づけが論じられるのはのちの時代のことである。実はそもそも平安遷都の理由は諸説ありはっきりしない。魑魅魍魎の跋扈する奈良を嫌がり、王位継承争いで非業の死を遂げた早良親王の怨霊から逃避、平城京の貴族政治勢力からの逃避、などなど。必ずしも日本という国家の行く末を展望した政治経済合理性に基づく遷都決定ではなかったのかもしれない。もっともこのころの陰陽道的世界観から見れば「怨霊封じ」は立派な合理的理由だったに違いない。一方で平城京が奈良仏教の拠点となり、仏教勢力が力を持ち始め、孝謙天皇の治世で起こった道鏡事件や、仏教勢力の政治への介入に嫌気がさしたためともいう。桓武天皇の信任厚かった和気清麻呂の遷都進言が大きかった。和気清麻呂といえば宇佐八幡宮のご神託で、道鏡を排して皇統を守った忠臣として語られる。またこの地は渡来系氏族である秦氏の本貫地で、その財力を頼ったとも言われている。太秦の広隆寺はもともとこの地に勢力を持っていた秦氏の氏寺。

 そのため奈良にあった寺の平安京移転を固く禁じた。聖武天皇創建の鎮護国家の寺、東大寺も、西大寺も、藤原京から移転してきた天武・持統天皇の薬師寺、鑑真和上の唐招提寺も移転していない。そして藤原氏の氏寺、興福寺も移転せず。こうして仏教勢力や有力貴族である藤原氏を避けて遷都されたはずなのだが、結果は衆知の通り、平安京は藤原摂関政治の都となり、新しい仏教勢力の拠点となってゆく(京都にはお寺さんがぎょうさんに居てはりますよね)。皮肉なものだ。さらに平安末期にはその藤原摂関政治、後白河上皇の院政を脅かす最大の政治勢力、南都北嶺すなわち奈良の興福寺、比叡山延暦寺の僧兵たちが日枝神社の神輿を担ぎ出して跳梁跋扈する都となる。やがて朝廷や公家の番兵であった武家が勢力を握り、平氏や源氏の武家政権が誕生する。さらにその後の武家勢力の争いの場として応仁の乱、それに端を発する戦国の世に突入し都が荒廃してゆく。都が活気を取り戻すのは、皮肉にも武家政権の織豊政権から徳川政権になってからである。統治権力の都としてではなく、統治権威のおわします都としてであるが。

 

将軍塚

鴨川と下鴨神社。手前は京都大学

平安神宮の大鳥居

金戒光明寺

真如堂

青龍殿とガラスの茶室

南禅寺

青龍殿に新設されたウッドテラス 

ここからの眺めは絶品

東寺五重塔、京都駅、京都タワー

夕日が二人を照らす

 

(撮影機材:SONYα7II+Vario Sonnar 24-240mm)

 

もう一つの「山崎の合戦」サントリーの山崎になぜアサヒビールか?

2015年03月09日 | 京都散策

 NHK朝ドラ「マッサン」が人気だ。スコットランドから連れてきた妻のエリーの健気な姿がとても日本人ウケする。日本人はこういう「外人」に弱い。一方、巷では、ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝がモデルとなっているのでサントリーが僻んでるとか、「マッサン」を取り上げた雑誌にはサントリーは広告を出さないとか、まあ、どこまで本当なのかわからないが騒いでいるようだ。サントリーほどの企業がそんな子供じみた反応するとは思えない。そもそもドラマのストーリー読んでも、マッサンは鴨居商店で日本で初めてのウイスキー醸造所を作り、しかも鴨居社長にはいたく恩義を感じて、共に日本のウイスキーづくりに頑張っているではないか。そもそもライバル同士が切磋琢磨し、正々堂々と競争してない業界があるとすればそれは終わってしまった業界だろう。世の中には、ホントにつまらんうわさ話を作り出しておもしろおかしく「売り」にするヤツがいるものだと思う。 ところで、大阪と京都の間に位置する山崎の地は、歴史好きには明智光秀と秀吉の「山崎の合戦」「天下分け目の天王山」、ウヰスキー好きにはサントリー山崎ディステラリー、「鉄ちゃん」には新幹線とJR東海道線、阪急電車の並走競争「山崎の合戦」で有名な土地である。古来より京都・大阪を結ぶ重要な交通の要衝で、三川合流する谷間の狭い回廊が、様々な「合戦」の舞台であることを示している。

 

以下は以前の訪問した時のブログ: 「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 大山崎山荘美術館 ーOyamazaki Villa Museum of Artー: http://tatsuo-k.blogspot.jp/2011/09/oyamazaki-villa-museum-of-art.html 最近ちょっと美術館巡りが続いている。今回は京都府乙訓郡大山崎町にあるアサヒビール大山崎山荘美術館。  この山荘美術館の本館は、大正7年に実業家加賀正太郎によって建てられた、英国ハーフティンバー様式の建物だ。英国の生活様式に憧れて建物を本格的に設計、建築した。この時代には好事...

 この大山崎の背後にそびえる天王山。その中腹に、立派な英国風ハーフティンバーの山荘がある。現在はアサヒビール大山崎山荘美術館として一般に公開されているが、元は関西の財界人加賀正太郎が建てた別荘である。素敵な建物と庭園、一級の美術品。安藤忠雄設計の半地下の新館にはモネの睡蓮が。テラスからは木津川、桂川、宇治川が合流して淀川となり、やがて大阪へと流れ下る景観を一望に見渡せる。素晴らしい景観と歴史的な建築。私の好きな場所の一つだ。 しかし、山崎といえばサントリー山崎ディステラリーを思い起こす人が多いだろう。TVのコマーシャルでもおなじみのあの静かな森に囲まれた醸造所だ。サントリーで有名なここ山崎に、何故アサヒビールの美術館があるのか?ちょっと不思議に思っていた。サントリー山荘美術館じゃなくて、アサヒビール山荘美術館なのだから。なにか曰く因縁があるのだろうかと。現にすぐ隣にあのサントリーのシンボルたる醸造所の建物がそびえている。ちなみにアサヒビールは大阪生まれのビールの老舗(大阪麦酒)。同じく大阪生まれのサントリーはビール市場では新規参入事業者だ。しかし、そういう競争関係だけでなく、実はアサヒビールは現在はニッカウヰスキーを吸収しているので、サントリーの本丸とも言えるウイスキー市場での競争相手なのだ。 そうなると、にわかにここ山崎の地が騒がしくなってくる。 話は少々込み入ってくるが、ここは関西の起業家・企業家たちのビジネスの主戦場の一つ、もう一つの「山崎の合戦」の舞台でもあったのだ。すなわち、「マッサン」こと竹鶴政孝は、鳥井信治郎に見込まれてサントリーの前身、鳥井商店・寿屋に入り、日本初の本格的なウイスキー醸造所をここ山崎に創設する。竹鶴はのちに寿屋を離れ、北海道余市に醸造所を設け、ニッカウヰスキーを設立する。こうして世話になった鳥井信治郎の元を離れ、彼が開設し所長を務めたサントリー山崎醸造所とも競争関係になる。 竹鶴のニッカウヰスキーはその株の70%を関西財界の大物、加賀正太郎に保有してもらう(出資してもらう)ことで事業化に打って出ることが出来た。加賀は良きパトロン、筆頭株主としてニッカの事業支援を行ってゆく。この加賀正太郎が、この山崎の山荘の所有者である。また竹鶴政孝とその妻リタ(エリーのモデルとなる)はこの山崎に一時住まい、リタは加賀夫人の英語の家庭教師を務めたという。晩年に加賀は、この株をアサヒビールの山本為三郎に譲渡する。安定的にニッカの事業を継続できる株主としてアサヒビールを選んだと言われている。アサヒビールはニッカウヰスキーを吸収合併して現在に至っている。そういった加賀と山本の関係もありアサヒビールが、一時存続が危ぶまれていた加賀の山崎山荘を買い取り、再生して「アサヒビール大山崎山荘美術館」が誕生することとなったというわけだ。 ちなみに、この「山崎の合戦」のプレーヤーを簡単に紹介しておこう。関西財界の超有名人、実力者達なので今更履歴など書き連ねても始まらないが。

 竹鶴政孝 (大阪高等工業のちの大阪大学工学部。グラスゴー大学留学) 寿屋で鳥井信治郎の元で本格的なウイスキー製造を始める。山崎醸造所開設。のちに独立してニッカウヰスキー創立。北海道余市に醸造所を開設する。

 鳥井信治郎 (大阪高等商業のちの大阪市立大学) 大阪道修町小西儀助商店などを経て鳥井商店、のちの赤玉ポートワインの寿屋を創設。現在のサントリーの創業者。

 加賀正太郎(東京高等商業のちの一橋大学。英国留学) 加賀財閥主人。加賀証券社長。ニッカウヰスキー設立に関わり、筆頭株主(70%)。のちにアサヒビールに全株売却。

 このようにこの業界だけ見ても、当時の関西はこうした起業家・企業家がダイナミックに合従連衡する土地柄だったことがわかる。高等工業や高等商業といった実業を教える高等教育機関がこうした若い人材の育成に大きな役割を果たしたこともわかる。学校卒業後、地元の企業に入り、下積みから努力して、やがて独立し起業する。成功した財界人は彼らのパトロンとなり、そうした若き起業家を育て、出資し、事業の成功を支援する。ベンチャーキャピタルファンド、エンジェル、人材育成... 当時の関西にはシリコンバレー顔負けの産業生態系(エコシステム)が出来上がっていた。日本一の経済産業都市、大大阪のエネルギーの源泉はこの辺にあったようだ。 資本、人材、技術、これらが自由でダイナミックに融合し、競争し、あるいは衝突しながら産業、経済が成長してゆくという資本主義の本質。それを育む土壌と気質。これが大阪という土地の生来の特色だ。それらがこの「合戦」エピソードを生み出しているのだ。マッサン人気とサントリーの苛立ちなどという下らない岡目八目の噂話などではなく、むしろこうしたダイナミズムを感じさせる話が最近トンと聞こえてこないほうを心配したい。もっと後世に残るドラマの主人公になる逸材や、豪奢な別荘でも建てる大物がドンドン出てこないものか...

アサヒビール大山崎山荘美術館 加賀正太郎が建てた英国風別荘が元になっている
天王山中腹にハーフティンバー様式の山荘が威容を誇る
山荘テラスから展望する大山崎 京都からの木津川、桂川、宇治川がここで合流し淀川となって大阪湾に流れ込む 英国のテムズ川やエイボン川の風景を彷彿とさせる
サントリー山崎醸造所(同社HPより)
 

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「無鄰菴」探訪

2015年01月19日 | 京都散策

京都東山南禅寺界隈は明治期から昭和にかけての政財界人が建てた別荘が集まる地域としても知られている。野村白雲荘、など。これらの別荘は、それぞれ東山を借景とした広大な庭園を有している。また琵琶湖疏水を利用した水の流れを庭作りに生かしていることも特色である。それぞれに伝説的な作庭師が庭作りに腕を振るい、今はその別荘のあるじが変わっても、カリスマ庭師の子孫や弟子たちが、代々庭を守っている。これも伝統工芸そのものだ。京都という町の伝統の奥深さを改めて感じることができる。

もともとこの辺りは南禅寺の広大な寺域で、多くの塔頭あったところだ。明治初期の廃仏毀釈の動きの中で、これら塔頭の多くが取り壊され、その跡地を緑豊かな別荘地にしたのが始まりだ。また南禅寺境内には、明治維新後に建設されたレンガ造りの琵琶湖疏水の水路閣が、ローマの水道橋風に、一見場違いな風情で連なっている。この空間はまことに不思議な空間だが、今となっては1200年の都らしく、時空を超えて中世と近代が同居する景観となって、すっかり違和感がなくなっている。実はこの疎水が運ぶ琵琶湖の水がこの界隈の別荘群にとって重要なエレメントになっている訳だ。

ただ残念なことに、こうした別荘群のほとんどが一般には非公開である。企業の迎賓館として所有されたりしている。こうした別荘は時代の流れで所有者が変わってゆく。明治、大正期には関西という大きな経済圏を背景に、財界人や、明治政府の元老政界人が造営、所有する。終戦後は進駐軍が接収して将校ハウスに利用され、無残な改造を受けたりした。やがては、日本の復興、経済成長とともに個人所有者から大手企業や宗教団体が所有するようになる。中には何有荘のように、シリコンバレー一の日本通、オラクルの創業者ラリー・エリソンが最近購入して、修景保存工事を行っているところもあるなど、時代を映し出すものとなっている。

その中にあって、今回訪ねた無鄰菴(むりんあん)は公開されている数少ない別荘の一つである。
無鄰菴は明治の元老山県有朋が明治27~29年(1894~96年)にかけて造営した別荘である。その大半を占める庭園(面積3,135㎡)は第7代小川治兵衛(屋号:植治)の作庭による。やはり東山を借景に、疎水の水を取り入れた池泉回遊式庭園である。母屋は木造二階建ての比較的簡素なもの。茶室と煉瓦二階建ての洋館を含めた3棟で構成される。この洋館は、よく見ると煉瓦建ての頑丈な蔵になっており、元老の身辺防備の意味もあったのだろうか?しかし、その二階には江戸時代初期の狩野派による金碧花鳥図で飾られた洋間がある。ここは、日露戦争開戦直前、我が国の外交方針を決める、いわゆる「無鄰菴会議」が開かれたところである。明治36年(1903年)4月21日、元老山県有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎がこの二階に会した。この会議の翌年の2月にはついに開戦となり、明治日本が一つの画期ををなすこととなる。その歴史の舞台がここ無鄰菴だ。


植治作庭の庭園

 

 

 

 

この洋館の二階で「無鄰菴会議」が開催された


折上格天井に狩野派の金碧花鳥図という
洋間で4トップが会した


広大な敷地を囲む塀


博多聖福寺、京都建仁寺、鎌倉寿福寺 ~栄西の足跡をたどる旅~

2013年09月30日 | 京都散策
 栄西の足跡をたどる旅。今津の誓願寺、博多の聖福寺に始まり、京都の建仁寺、そしてついに鎌倉の寿福寺にたどり着いた。寿福寺は鎌倉扇ガ谷にある静かな佇まいの古刹だ。今の姿は、聖福寺や建仁寺のような往時を彷彿とさせるような壮大な伽藍や広大な寺域を誇る訳ではない。源氏山一帯は文字通り源氏ゆかりの土地であり、源義朝の居館があったと言われている。源平の戦いに勝利し、鎌倉入りした頼朝が鎌倉幕府創設を企図した土地である。その一角に境内を公開もせずにひっそりとたたずむ。

 現在扇が谷と呼ばれるこの一体には、花の寺で有名な英勝寺や海蔵寺があり、源氏山に登れば頼朝の像がある。化粧坂やその他の山間谷筋の道は鎌倉独特の狭い切り通し。武家の墓である岩壁を削った「やぐら」も至る所に見受けられる。内陸の盆地である京都や奈良とは異なる独特の佇まいを見せる。武家の拠点らしい、攻めるに難しく、守るに容易な海に面した山と谷の連続の地形が鎌倉の特色だ。

 栄西は、当時宋で盛んであった臨済禅を学び、1191年に帰国後は天台教学復興のために禅を広めようと努力する。しかし京都ではなかなか臨済禅の布教を支持してもらえず、京都での禅寺の創建を一時はあきらめる。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の支援を受け、1195年にようやく博多に聖福寺を創建する。やがては武家政権の中心である鎌倉に遷り、北条政子創建の寿福寺の初代住持となる。京都に建仁寺を創建できたのは宋からの帰国後11年を経たときのことである。これも武家の棟梁である鎌倉幕府二代将軍頼家の開基によるものだ。このように臨済禅は武家社会の支持によってようやく我が国に受け入れられた。

 当時の京都は比叡山延暦寺の力が強く、なかなか新興の禅宗は受け入れられなかったと言われている。栄西自身は比叡山に学び、宋の天台山万年寺に留学している、最澄の延暦寺は天台教学、戒律、密教、禅の四宗並立で、いわば当時の総合大学のようなものであった。そこでは栄西の他にも法然(浄土宗)、道元(曹洞宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(日蓮宗)などの鎌倉期から室町期の新興宗派の開祖たちが学んだ。しかし、その「卒業生」が海外留学の後に持ち込もうとした臨済禅が、お膝元でなかなか受け入れられなかったとは... 仏の御心の寛容性、オープンネスの実現は、現世の人が関わると容易なものではなさそうだ。


 これまで巡った栄西ゆかりの寺を創建の順番でおさらいをすると、

(1)聖福寺
 宋から帰国後の1195年、時の将軍源の頼朝に許可を得て、博多の宋人居留区であった博多百堂に我が国初の禅寺を創建。開山となる。後鳥羽上皇のご宸筆「扶桑最初禅窟」の扁額が掲げられている。創建当時ほどではないが、秀吉の博多都市整備の中で削られた後も、比較的広大な寺域を維持している。室町時代には五山十刹の第二刹に序されていた。その後臨済宗建仁寺派の寺院となるが、江戸時代には黒田藩の指示で妙心寺派に転派した。

(2)寿福寺
 1200年、頼朝の菩提を弔うために北条政子により創建された寿福寺の住持となる。創建当時は鎌倉五山第3位。七堂伽藍15の塔頭を擁する大寺院であったが、その後の火災などで現在のようなこじんまりした静かな寺になっている。南北朝時代の再建によるものと言われている。この地は源氏ゆかりの地(源氏山亀が谷)で、義朝の館があったと言われる。現在は扇ガ谷とよばれている。

(3)建仁寺
 鎌倉幕府二代将軍頼家の開基、1202年に京都では初めての禅宗寺院を創建。開山となる。臨済宗の本山ではあるが、真言、天台、禅の三宗並立の寺であった。これは当時比叡山の力が強かった京の都に禅宗を普及させることはきわめて多くの抵抗にあったため、他宗派との協調、牽制による立ち位置の確保が必要であったことによるという。京都五山の第3位。応仁の乱などでことごとく消失し、創建当時の建物は残っていない。

 現在臨済宗は15派7000末寺あり。京都だけでも建仁寺の他にも妙心寺、南禅寺、東福寺、天竜寺、相国寺などの有名な大寺院が臨済宗各派の総本山として崇敬を集めている。また鎌倉には建長寺や円覚寺がそれぞれの臨済宗派の本山として君臨している。鎌倉時代に栄西によりもたらされ臨済禅は、鎌倉幕府崩壊後も足利将軍家の室町幕府により篤く保護された。さらに徳川将軍家の江戸時代に入ると白隠禅師により現在に至る臨済宗の禅が確立された。

 それにしても、木漏れ日の中に続く山門からの長い石畳と、中門を閉ざした寿福寺仏殿の密やかな姿が印象的である。まるで禅寺というよりは尼寺のような佇まいだ。ちなみに隣の英勝寺は鎌倉では数少ない尼寺の一つだ。この源氏山の麓の亀が谷(扇が谷)の地形がまるで隠れ里のような雰囲気を漂わせているせいだろうか。少なくとも大伽藍を展開するだけのスペースが確保出来ない地形だ。それ故に頼朝も、源氏父祖の地であるにも関わらず、幕府をここに設ける事を断念している。

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(博多の聖福寺。勅使門は博多の総鎮守櫛田神社にも通じている)


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(聖福寺山門。後鳥羽上皇御宸筆の「扶桑最初禅窟」の扁額がかかる)


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(再建なった聖福寺法堂。中国風の屋根の勾配が美しい)


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(京都の建仁寺法堂、天井の双龍図が有名)


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(建仁寺庭園。簡素だが力強い禅宗様式の庭園だ)


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(鎌倉の寿福寺山門)


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(寿福寺参道。木漏れ日の中の石畳が美しい)


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(寿福寺法堂。簡素な作りだ。ここから先は入れない)


 鎌倉扇ガ谷散策スラードショーはこちらから→

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(撮影機材:Leica M Type240+Summilux 50mm f.1.4, Elmarit 28mm F.2.8. Sony RX100)



建仁寺双龍図

2013年09月01日 | 京都散策
 京都の夏は暑い。とりわけ今年の暑さは尋常ではないのでなおさらだ。それにもめげず、渇望していた「いにしえの文化の香り」に触れる、というだけでワクワクしながら、関西出張の合間を縫って京都に降り立った。今回は、時間も限られていることもあり、ただひたすら建仁寺の双龍図、雲龍図、風神雷神図を鑑賞するためだけに脇目もふらず現地へ向った。

 建仁寺は祇園の花街、花見小路の突き当たりにある臨済宗建仁寺派総本山。よく日本初の禅寺,と紹介されているがこれは間違いだ。2010年12月24日のブログ「博多聖福寺と今津浦ー栄西の足跡をたどるー」で書いたように、博多の聖福寺こそ、その扁額のとおり「扶桑最初禅窟」である。栄西が宋留学から戻り、最初に禅寺を開いたのが博多の聖福寺だ。1199年に源頼朝のもと、博多百堂に博多の宋の華僑の協力を得て創建したもの。さらに1200年には鎌倉の寿福寺の住持となり、そして1202年に源頼家の開基、京都に建仁寺を開いた。現在手元にある建仁寺のガイド冊子にも「京都最古の禅寺」とある。当初は、禅だけでなく、天台、密教の三宗兼学道場であったそうだ。この時期、京都は天台宗比叡山の権勢が絶大であった。なかなか新興の禅宗を広めるのは抵抗があったのであろう。その後蘭渓道隆により純粋な臨済禅の道場として整備されたという。

 ここは実は文化財の宝庫だ。有名な俵屋宗達の風神雷神図もここにある。これは国宝。海北友松の雲龍図ほか竹林七賢人図などの重要文化財も。潮音庭、◯△□の庭などの禅宗独特の庭園、建仁寺垣など。なかでも御本尊釈迦如来座像のおわします法堂の天井に描かれた双龍図は圧巻である。これは2002年に、創建800年を記念して描かれた新しい作品であるが、その迫力は見るものを圧倒する。小泉諄作画伯の筆になるもの。これが今回のお目当てだ。

 ここのお寺がうれしいのは、全て写真撮影OKという点だ。特に、この法堂の天井画、双龍図は、薄暗い堂内で、露出をマイナス補正して、開放絞り、周辺光量が適度に落ちる広角レンズでの撮影の醍醐味を味わえる。ボストン美術館に収蔵されている曾我蕭白の雲竜図に劣らない阿吽の双龍。天から釈迦如来を守り、見上げる者に睨みを利かせているようだ。ビゲローによって持ち出された曾我蕭白に替わって,今京都で鑑賞出来る双龍図はこれ、という訳だ。しかし、ライカの広角レンズ群の性能を遺憾なく発揮出来る被写体だ。光源に限りがあり、暗くても諧調も豊かだし、広角レンズ特有の樽型の歪みもほとんどない。

 京都に限らず、歴史のある寺院では仏像や文化財,果ては庭園の撮影禁止,というところが多いのはがっかりだが、文化財保護、撮影側のマナーの問題も多いのも事実。しかしここ建仁寺はオープンだ。この姿勢は歓迎だ。もっともここに常設展示されている国宝の風神雷神図も雲龍図もキャノンの技術で高精細デジタル復元したレプリカ。ホンモノは京都国立博物館に展示されている。レプリカであれ、ここまでホンモノに近いものを、こうして本来置かれている場で、身近に鑑賞出来るのはうれしい。そしてなによりも写真撮影OKがうれしい。

 文化財の保存・研究のためにはやむを得ないのだが、私は博物館や美術館のショーケースに治められ、均質なライティングの下で仔細に観察するよりも、こうした木造の建物の中の、庭から射すかすかな薄明かり(available light)のなかで、もともとある「場」で観るほうがいい。見えにくいところは想像力で補う... 篠山紀信氏は,あるインタビューで「美術館は美術品の墓場だ」と言っていた。氏らしい表現だが一面の真理をついているような気がする。

「大哉心乎」(大いなる哉 心や) 栄西禅師「興禅護国論の序」より

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(法堂には、須弥壇に御本尊釈迦如来座像、脇侍迦葉尊者・阿難尊者、そして天井には2002年、創建800年を記念して小泉諄作画伯筆の双龍が描かれている)


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(本坊中庭の潮音庭。シンプルで枯淡な四角形の禅庭だ)


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(俵屋宗達の風神雷神図屏風。高精細デジタル復元されたものが展示されている)


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(海北友松の雲龍図。これも高精細デジタル復元された襖絵)

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(◯△□乃庭。◯(水)△(火)□(地)を表し、禅の世界で宇宙の根源的形態を示すと言う)

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(双龍図も角度を変えて眺めるとまた別の迫力を感じる)

撮影機材:Leica M Type240, Tri Elmar 21-18-16mm, Elmarit 28mm