時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

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倭の「神」と「仏」 ~そして「倭国」から「日本」へ~

2014年05月16日 | 日本古代史散策
 1)八百万神という多神の世界

 「倭」の神は弥生以来の水稲耕作社会を基盤とした農耕神である。その自分たちが生きる土地に豊穣をもたらす穀霊神、土地と一族を守る産土神である。それはまた一木一草に神宿る自然崇拝であり、一族の祖先を祭る祖霊崇拝でもある。すなわち多神教世界である。八百万の神々がいた。稲作は北部九州に大陸から伝わった生産技術、生活様式であり,在来の縄文的な狩猟採集生活を営んでいた原住民との間に徐々に融合が進んで行ったと言われている。以前からの自然崇拝信仰(土偶に見られるような)もあったのだが、定住農耕生活の開始とともに新たな農耕神が古神道の中心になっていったのだろう。しかし、そうした自然崇拝、祖霊崇拝の古神道の姿はいつから皇祖神アマテラスを中心とした神社神道に替わって行ったのだろう?

 弥生時代から「倭」の時代、稲作農耕社会にとって、生産手段たる土地の所有、水源の確保、天変地異、天候の予測、土木技術、農具とりわけ鉄器生産確保、労働力としての人民の確保と統率、生産管理、収穫物(富)の流通、保管、分配、蓄積。やがては奪い合い、戦いなどをマネージできる支配者が現れる。生産集団はムラになりクニになる。その集団を守る神が創造される。神の意思をを伝え、祭りを執り行う司祭や巫女がムラやクニの意思決定に重要な役割を果たす。こうしてムラ、クニの数だけ、氏族、豪族の数だけ神がいるという多神の世界が出現した。いわば「私地私民制」の時代の倭国はそうした多元的なムラやクニの集合体であった。

 やがてそのなかから、クニグニの争いによる資源の消耗を避けるために、複数の氏族・豪族や王により共立された大王が生まれる。倭国連合の盟主邪馬台国の女王卑弥呼もそうした大王の一人だったのだろう。しかし。まだその大王は,全ての土地,人民という生産手段を支配し、富を囲い込む権力を手中に収めるには至っていなかった。認められていたのは、神と通じる事により地上の政(まつりごと)を決めるための宣託を行う祭祀者としての権威であった。

 古神道の世界では、神は天にいて,時々地上に降り立つ。神は姿も無く言葉も発しない。教えも解かない。神の降り立つ岩、石、樹、森、山など、神籬、磐座、よりしろに、人々が祭礼を行うために集まったのが古神道の原型であった。それは稲作という生産活動を行い、生活を営むムラの近くにあった。後にそこに遥拝所として社が建てられ神社になってゆく。ご神体山やご神木、鎮守の森は神社の建物を守るものではなく、その山、木、杜そのものが神のよりしろであったのだ。今でも田舎の小さな村の鎮守の杜には、そうした弥生の,倭国の神のよりしろの佇まいを良く残している所がある。神社の建物に凝り出すのはずっと後のことなのだ。

 2)唯一最高神アマテラスの出現

 しかし、4世紀にはいってヤマトの大王(ヤマト王権)が徐々にその倭国の支配権を拡大する中で、他の豪族や氏族と異なる支配の正統性と権威を獲得しようとする。最初は、東アジア世界の中心であった中華王朝への朝貢、柵封による倭の支配権の認証を得る事であった。1世紀の漢倭奴国王や3世紀の親魏倭王卑弥呼の時代から続くこうした中華帝国皇帝による統治権威の認証は、華夷思想に基づく東アジア世界秩序のスタンダードな形態であった。なにも倭国に限った話ではない。5世紀の倭の五王の時代には柵封認証は朝鮮半島南部の支配権にまで及ぶ事となる。

 しかし、倭国を実質的に支配する中央集権的な力を備えるには、さらに300年以上の時間が必要であった。頭角を現した有力豪族蘇我氏を倒し、朝鮮半島白村江の闘いに敗北し、倭国存亡の危機に直面し、さらには国内最大の内乱、壬申の乱を経て王位に就いた天武天皇の時代を待たねばならない。大王/天皇を中心とした国家体制の整備のためには、まず多くの氏族、豪族が支配する土地と人民、すなわち「私地私民」制を廃して、天皇の「公地公民」制へ。という経済政治体制の大変革が必要であった。そしてそのためには、私地私民体制のイデオロギーである八百万の多神の世界から、それらの神々の上に立つ神、すなわち他の氏族豪族の神々の上に位置する唯一最高神の創造が必要であった。しかもこの天から降臨して来た唯一最高神の子孫が大王/天皇であるという、新たなイデオロギーが不可欠であった。

 こうして皇祖神天照大神という八百万の神の上に存在する唯一最高神が創造され、その天上界から最高神の命を受けて降臨してきた神の子孫が地上の支配者たる天皇であるというストーリが組立てられた。従来からの在地の神々や氏族豪族の神々は、その最高神やその子孫の様々な営みから生まれ出てきたものとする、いわば八百万の神々の「再定義」「体系化」が進められる。それを明文化したのが日本書紀や古事記に表された神話の章である。しかし。前述のように、弥生以来の歴史的経緯からみると、まず八百万神々(多くのムラ、クニ、氏族、豪族)がいて、後に皇祖神天照大御神(大王、天皇)が生まれた。

 このように皇祖神アマテラスの創造、天孫降臨神話は7世紀後半の天武/持統天皇時代に、天皇中心の新しい国家統治体制の確立を目指して「開発された」ストーリーである。このストーリーを描いたのは、天皇親政をとり、側近をあまり持たなかった天武天皇の唯一の忠臣(右大臣も左大臣もおかなかった)中臣大嶋であると言われている。巳支の変で功績のあった中臣鎌足の子,藤原不比人はまだ幼く、権勢を振るうまでにはまだ時間があった。大嶋は鎌足の直系ではなく、傍系であったが、中臣氏は天照大御神に仕える天児屋根命の子孫であるとする。これが後の藤原一族の天皇側近としての長きに渡る栄華を保証する「立ち位置」を示す重要な根拠であった。

 皇祖神天照大神は、天皇の宮のある大和ではなくて、大和を遠くはなれた東国の伊勢に鎮座する。なぜ伊勢に鎮まったのか。天皇は自らの祖霊神を身近な宮廷の地に祀らなかった。一説に壬申の乱と関係があると言う。吉野を脱出した孤立無援の大海人皇子を救ったのは、大和の東にいた伊勢大神であった。代々伊勢神宮の神官を務める渡会氏の祖先である伊勢の豪族勢力が、大海人皇子を助け,近江京を攻め、大和凱旋、飛鳥に王位継承を可能としたと言われている。この伊勢大神が天照大神に同体化された。皇祖神アマテラスの登場は、大海人皇子、天武天皇の即位のプロセスに深い関係を持っているようだ。ちなみに神武天皇の東征伝説も、この時の大海人皇子の戦い、大和凱旋のルートをモデルにして創作されたともいわれている。

 3)仏教の受容

 一方、仏教は6世紀半ばに百済の聖王によって倭国にもたらされたが、当然ながら時の欽明大王は異国の神の受け入れには慎重であった。いかに時代がグローバル化し世界思想たる仏教が東アジア世界の潮流であったとしても、弥生的な鷹揚さを持った多神世界であった当時の倭国であっても、容易に新しい外来思想を受け入れる事は出来なかった。しかし渡来人コミュニティーを背景に持つ蘇我氏は積極的に導入を推進、飛鳥に法興寺を建立する。廃仏派の物部氏らと対立したは既知の通りだ。やがては用明大王の時代、蘇我氏が物部氏を打倒し、聖徳太子、推古大王の時代に至りようやく大王家が仏教を取り入れることになった。特に蘇我一族につながる聖徳太子は篤く仏教を信奉し、斑鳩宮に法隆寺を建立した。蘇我氏は倭国に革命的な思想を持ち込んだ。弥生的な多神教世界に一神教を持ち込んだのだから。やがて蘇我一族の内紛としての聖徳太子一族(山背大兄王子一族の抹殺による)の血脈の断絶、巳支の変による蘇我宗家の滅亡へと歴史は大きく転換するが、仏教の法灯は生き続ける。

 本格的に仏教を受容した最初の大王は欽明大王であった。それ以降、仏教寺院は私寺(蘇我氏の法興寺、聖徳太子の法隆寺のような)としてではなく、官寺として造営されるようになる。天武/持統時代には大官大寺や薬師寺が建立される。すでに仏教伝来からおよそ一世紀以上の時間を要している。国家統治の理念として、鎮護国家思想が取り入れられるのはさらには聖武天皇時代の東大寺大仏建立を待たねばならなかった。

 このように仏教が天皇により国家統治の理念として受容されてゆく道のりは険しいものがあった。しかし、仏教は神道の神と違い、姿形、言葉を持って人々と接する神であり、現世利益という点では共通するものの、教えを説く神である。しかも、限られた地域や一族だけの神では無く、多神教でもない。その教えは無為無辺であり、私地私民制的な分立体制を打ち破る公地公民制、統一国家の思想としては最適でもあった。またビジュアルとしても異国風の堂々たる寺院建築と美しい威厳に満ちた仏像が人々を引きつけ、権力者の権威を可視化させる効果があった。こうした中央集権的な「公地公民制」移行を目指す勢力に取って、仏教ははまたとないシンボルでありイデオロギーとなっていった。

 4)「倭国」から「日本」へ

 このように氏族豪族が群有割拠する倭国の分断化された「私地私民」の体制を打破し、大王(やがては天皇)を中心とする律令制、公地公民制による中央集権的な国家体制の確立に必要な思想、理念が求められた。これが皇祖神天照大神を最高神とする八百万の神々の体系化(それを正史として明文化させた日本書紀)と、外来の神(思想)である仏教による鎮護国家思想である。国家統治ディシプリンとして、経済改革、政治改革の中心理念として確立されていった。分権から集権へ。これが「日本」という国家の始まりの姿であった。「倭国」から「日本」へのパラダイムシフトである。

 やがては大王は自らを天皇と名乗り,倭国は日本と国号を変える。これは,中華帝国の皇帝が支配する宇宙以外に東アジア世界にもう一つの天帝が支配する宇宙がある事を宣言したものだ。自ら名乗った訳でもない「倭」という国号を捨て、太陽神の子孫が統治する日の出る国「日本」を名乗る。これは中華帝国の柵封体制からの離反を意味する。日本はこの時中国皇帝の柵封国家から独立国家となることを宣言した。

 我が国に現存する唯一の正史である「日本書紀」や「古事記」は、7世紀後半から8世紀初頭の、こうした時代背景のもとに編纂された「文書」で在るコトを知っておくべきだろう。天武/持統帝の明確な新しい国家理念の発露であった。歴史書は必ずしも史実を客観的に記述したものではない。まして神話は素朴な民間伝承説話と異なり、極めて一定の意図を持って取捨選択されあるいは創作されるものである。国家の正史と称されるものの編纂には大きな権威と権力が必要である。そうした時の権力者が、自らの権威と支配の正統性を明文化するために表した文書が「正史」である。さらに中華大宇宙に対抗する日本小宇宙を宣言するには「正しい国史」を整え,対外的に示す事も必要であった。文献歴史学とは、そうした史料の背景を理解し、批判的に読み込んで行くものである事は、いまさら言うまでもないであろう。

 参考文献:「飛鳥時代 倭から日本へ」田村圓澄著。明解な記述で一読をお勧めする。

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 (吉野ヶ里の祭礼殿では巫女が神のご宣託を伺い、隣室の王にそれを伝える。政(ヒコ)祭(ヒメ)制の原初的な姿だ)


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 (大宇陀阿騎野の里の神社。田圃の中に鎮守の森が残る典型的な倭国の神の姿だ)


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 (大和當麻の里の神社。大きなご神木が弥生の時代からここに神のよりしろとして存在し続けている)


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 (明治の近代化により、東海道線に境内を分断されてしまった近江長嶋神社。しかし鎮守の森の姿を今に良く残している)


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 (神聖なる磐座、神籠、神のよりしろとしてしめ縄により結界された場所。これが原始神道の祭祀の姿であった)



「筑紫の日向(ひむか)」は何処? ~天孫降臨の地を探す~

2014年02月21日 | 日本古代史散策
 記紀神話によれば、アマテラスの誕生の地、その孫のニニギ天孫降臨の地は、「筑紫の日向(ひむか)」であると記されている。すなわち律令時代の日向国、現在の宮崎県高千穂地方である、というのが定説になっている。しかし、以前「アマテラスは宮崎出身?福岡でなくて?」で考察したように、アマテラスと天孫族が穀霊神に繋がる稲作農耕神である事を考えると、弥生時代の最初期の稲作農耕遺跡(板付遺跡、菜畑遺跡など)や、その農耕集落の発展形たる、倭国連合のクニグニ/都邑の遺跡(須玖岡本遺跡、比恵遺跡、三雲南小路遺跡、吉野ケ里遺跡等等)などの考古学的な物証が集中している北部九州こそ我が国の稲作農耕文化の発祥の地であり、葦原中津国であったのではないかと思わざるを得ない。

 そう思っていたら、歴史学者のなかにも「筑紫の日向(ひむか)」は北部九州であろう、という説を唱えておられる方々がいる。なかでも上田正昭先生は、著書「私の日本古代史(上)」のなかで、やはり「韓国に向い...朝日の直射す...」は朝鮮半島が望める地域、すなわち奴国や伊都国の辺りの北部九州だろうと。また、田村圓澄先生も、著書「筑紫の古代史」のなかで、穀霊神や天孫降臨神話は朝鮮半島の新羅、伽耶辺りの王権神授説を指し示す神話と共通する点が多いとする。北部九州にそうした伝承が(稲作農耕文化伝来に伴って)引き継がれて来たのであろうか。

 水稲農耕文化である弥生文化が朝鮮半島を通じて大陸から伝わった北部九州の筑紫は、まさに倭国黎明期における経済/文化の最先進地域であったことは間違いない。ここから、縄文的な社会を形成していた日本列島を東へと、徐々に弥生文化は伝搬していった。であれば、7世紀後半8世紀初頭に編纂された記紀(八百万の神々の上位に立つ皇祖神の創出、各地豪族の神々の体系化、天皇支配のレジティマシーの可視化)で創出された天孫降臨神話(「日向神話」)は、「弥生水稲農耕神であるアマテラス(天つ神)の孫ニニギノミコトが、筑紫(北部九州)に降臨した(渡来した)物語である」と理解されてもおかしくないであろう。むしろ縄文世界を色濃く残す熊襲、隼人の地である南九州、しかも記紀編纂時点でもヤマト王権に服従しなかった地を、皇祖神誕生の地、天孫降臨の地、ヤマト王権のルーツとする方が不自然であろう。

 また「国譲り神話」の舞台である出雲は、背後に筑紫勢力の存在があり、筑紫の水稲農耕文化伝播の痕跡が至る所に見いだされる地域である。出雲在地の粟、稗畑作農耕神(縄文世界)の「国つ神」大国主一族が、筑紫に天下ってきた(渡来した)「天つ神」、水稲農耕神(弥生世界)たるアマテラス一族に「国を譲った」(縄文世界から弥生世界へ転換した)、とする形で語られた方が筋が通っているように思う。

 また、上田先生は、記紀が編纂された7世紀後半から8世紀初期は、まだ律令制下の日向国は成立していない時期であること、記紀の国生み神話にも筑紫国、豊国、肥国、熊曾国は出てくるが、日向国の存在は語られていないことから、「筑紫の日向(ひむか)」が現在の宮崎県・鹿児島県であるとは言い切れないとしている。ニニギノミコトが降臨した地は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」で、「此地は韓国に向ヒ、笠沙の御岬にまき通りて、朝日の直射す国、夕日の日照る国なり。故、此地はいと吉き地」だと語られていることから、韓国(からくに)に向かう地は北部九州だろうとする。アマテラス、ツクヨミ、スサノオ三貴子がイザナギの禊で生まれたとする「筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あはぎはら)」も北部九州のどこかである可能性があることになる。ちなみに福岡市には日向(ひなた)峠や小戸(おど)海岸(小戸神社がある)、糸島市にはクジフル山の地名がある。

 記紀に、「筑紫神話」が無い、筑紫が国の発祥の地、ヤマト王権、皇統のルーツであるとする認識が無いことを,以前から不思議に感じていたが、天孫降臨神話すなわち「日向神話」と言われる神話そのものが「筑紫神話」なのであるとしたら、その疑問は解消されることになるのだがどうであろう。邪馬台国が3世紀時点で九州にあったのか、近畿にあったのかはともかく、それ以前から弥生稲作農耕国家(クニ、都邑)は北部九州に多く発生していた。特に魏志倭人伝に記述があるように、2~3世紀には北部九州(玄界灘沿岸から有明海沿岸まで)に倭国連合の主要なクニグニがあった。さらに紀元1世紀には奴国王のように後漢に倭国の王として柵封されていた(後漢皇帝の金印を受けていた)クニがあった。それがある時点で文化/経済/政治の中心が北部九州から近畿奈良盆地へと遷っていった。それが何時で、なぜ、どのように、という点は依然、謎に包まれているのだが。天孫族の子孫とされる神武天皇が筑紫を出て、新天地大和へ東征したエピソードも、こうした弥生文化の東遷を後世に物語化したものかもしれない。

 奈良盆地に広がる豊葦原瑞穂の国の原風景が、筑紫平野のそれとオーバーラップするのは、かつてそうした遷移があった事の暗示なのだろうか。デジャヴである。

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(古代奴国、現在の福岡市上空。右手が博多湾、下に那の津大橋が見える。古代筑紫の面影は、今や150万都市の街中に囲い込まれてしまった緑の荒津山(西公園)くらいだ。遠景は古代伊都国のあった糸島半島である。)

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(志賀島。漢倭奴国王の金印が発見された島。また海人族である安曇一族の発祥の地。一族の氏神、志賀海神社はこの集落の中にある。博多湾を取り囲む砂州で本土と繋がる陸繋島だ)

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(「韓国に向い....朝日の直刺す国、夕日の火照る国なり」。ニニギノミコトが天上界から降り立った時に見た地上界の光景は、まさにこれだったのかもしれない)

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(福岡市シーサイド百道から、夕日に映える糸島半島のランドマーク加也山(かやさん)を望む。古代伊都国の残像、その名は、朝鮮半島の伽耶(かや)は加羅(から)から来ていると言われる。故郷を懐かしんで命名したのであろうか)


アマテラスは宮崎出身? 福岡出身じゃなくて?

2013年12月26日 | 日本古代史散策
 暮れも押し迫り、なんとなくばたばたと忙しい今日このごろである。この時期になると追い立てられるように忙しくなるのはなぜだろう。それほど年内に解決しておくべき重要な案件が山積している訳でもないのに。そして気ぜわしくなればなるほど、あの疑問が脳裏に湧いてくる。強迫観念のように。 そう、「なぜ記紀は筑紫をヤマト王権のルーツとして扱わなかったのか」という疑問。気ぜわしさを紛らわせ、歴史を巡る時空撮影旅行にも出掛けられないフラストレーションを払拭すべく、梅原猛の「「天皇家の”ふるさと”日向を行く」を読んでいる。しかし、面白いが、ますます謎が深まり、気ぜわしさやフラストレーションから解放されてリラックスするどころか、古い漫才じゃないけど「それを考えると夜も眠れない」状況に陥ってしまっている。なんとも厄介だ。

 この本の基本メッセージは『記紀に記述された「日向神話」は、戦前の皇国史観への反発から史実とは無縁だとされているが、必ずしも荒唐無稽な建国神話として全てが排除されるべきではない。その神話の背景にある考古学的な発掘成果、地元に伝わる伝承などを丁寧に読み解いてゆくと、そこには神話として伝承されたストーリーの背景に、ある歴史的な事実が読み取れる』というものだ。確かに戦前の「八紘一宇」や「天壌無窮」などの国家主義的なスローガンの発祥の地として利用されてきた歴史を払拭したいとして、神話の史実性の全否定という態度に理解を示すことも出来る。しかし、戦前とは逆の意味で、もう少し冷静かつ客観的に理解しようとする努力も必要であろうという。たしかに筆者が言うように記紀に描かれた物語は決して、皇国史観の聖典として神聖視されてきた、品行方正で、勇ましい武勇伝の記録ばかりではなく、むしろ本能の赴くままに行動する人間のおおらかさや、残虐さ、愚かしさが至る所に記述され、国史としてカッコ良く編纂されているとは言えないところが目立つ。そういう太古の人間臭いエピソードに見え隠れする事柄の中に事実を見つけ出していこう、そのためには現地を旅して歩け、という。この点は「時空トラベラー」たる私のモットーであり、大いに共感する。

 しかし、私が引っかかっているのは、そうしたニニギノミコトの天孫降臨に伴う「日向神話」に何ほどかの歴史的な事実が隠されているかどうかというより、やはり、記紀では、なぜ南九州の日向が稲作農耕文明である弥生時代の発祥の地であり、そして農耕神であるアマテラスの誕生の地とされているのか。考古学的に検証されている我が国における稲作農耕文明(弥生時代)の発祥の地である筑紫(九州北部)が、何故そうした建国神話・歴史に登場しないのか。言い換えると、なぜアマテラスは筑紫に生まれなかったのか、なぜニニギノミコトは筑紫に降臨しなかったのか、ということだ。明らかに大陸からの渡来人(渡来の理由はさまざまであろうが)が稲作の第一歩を記したのは北部九州だ。「天孫降臨」神話が海の向こうから渡ってきた弥生文化の到来をシンボライズするものだとすると、その地は北九州であるべきであろう。決して土着ないしは、南方から黒潮に乗って渡来したであろう縄文系文化の国ではないのではないか。

 この本の第5章「アマテラスは宮崎出身?」に次のような記述があるのに目が止まった。
 梅原猛は記紀神話を三段階に分けて考えていた。(1)イザナギ・イザナミに時代、(2)アマテラス、スサノオ、ツクヨミノ時代、(3)ニニギ以降の時代。(1)を縄文時代、(2)を弥生時代前半、(3)弥生時代後半から古墳時代と考えていた。記紀によれば、イザナギの禊から生まれたアマテラス、スサノオ、ツクヨミの三貴子は日向のアオキ原にて生まれたことになっている。これを梅原は、ニニギノミコト降臨の地が日向の高千穂だから、単にその話に合わせて三貴子の誕生も日向にしたのだろう、と考えた。それにしてもなぜ「日向のどこか」ではなくて「日向の橘の小門の阿波岐原」と場所を特定したのか疑問に思ったという。そして現地を歩くうちに、昭和34年に発掘された弥生遺跡アオキ遺跡が、その後の調査で、日向におけるもっとも古い稲作農耕遺跡(弥生前期)であるとする研究成果に行き当たった。まさにこれが稲作農耕神たるアマテラスがここで生まれたとする神話の根拠だという。すなわち(1)から(2)の時代への転換点がこの日向の阿波岐原であったことを「発見」したという訳だ。これはバビロン捕囚、ノアの箱船の歴史性、事実性を発見したのと同じ意味を持つのでは、と興奮している。

 しかし、もう一度頭を冷やして振り返ってほしい。日本でもっとも古い稲作農耕遺跡は福岡市のの板付遺跡であり、唐津市の菜畑遺跡である、弥生初期の遺跡で、最近の弥生時代の始まりを確定する学術検証によるとさらに500年ほど時代をさかのぼる可能性も出てきている。北部九州から全国への稲作伝搬の速度は比較的速かったようだが、南九州や東北では、自然環境などによる稲作定着失敗で、元の狩猟採集の縄文生活に戻った地域も多いとの研究がある。日向最古の稲作農耕遺跡の時代再検証が必要だろう。こうした神話のストーリーと宮崎県の地名、遺跡とだけをつきあわせてみても、真実はなかなかわからないだろう。農耕神アマテラスは北部九州で生まれていたほうがつじつまが合うのではないか。

 それにしても記紀では北部九州をヤマト国家発祥の地であるとする認識はみじんも見られない。「筑紫神話」の存在すらもない。魏志倭人伝に見える邪馬台国に関する記述も無い。こうして見てゆくと、どうも魏志倭人伝に記述のある、北部九州に発展した弥生文化や、倭国のクニグニは、後のヤマト王権とは異なるルーツではないかと思い始めた。大陸からやってきた「弥生人」たち(大陸や半島から何らかの理由で移住してきた民、当然生活の手段としての稲作農耕技術を携え、鉄器製造技術を伴い渡ってきただろう。今で言う華僑のような人たちもいたかもしれない)が狩猟採集を生業とする縄文文化系の土着の民と融合して出来たクニグニが筑紫倭国連合であったろう。魏の皇帝に柵封、支援された国家連合だ。もちろん今のような国境や国民国家概念はないわけで、海峡を隔てて、人々は様々な形での往来があったのだろうから、華人、韓人、倭人などの厳密な区分もなかったかもしれない。

 そうしたコスモポリタンな北部九州倭国と、在地の部族や南方からの異なった文化を背負って移住してきた部族で構成される地域(南九州)との間には、様々な融合もあっただろうが、軋轢もあったに違いない。倭国争乱や邪馬台国と狗奴国との対立などはそうした背景から生まれたものなのかもしれない。記紀の記述になにがしかの史実が隠されているとすると、日向高千穂への天孫降臨やその子孫の東征伝承は、稲作弥生文化を南九州に持ち込んだ一族(これも渡来系であっただろう)が地域における支配権を確立し(海彦/山彦伝承)、さらに何らかの形で北部九州倭国連合を制圧した。それが狗奴国であったのかもしれない。がその後に勢いをかって東征し、近畿大和に進駐したものかもしれない。ちなみに記紀によれば神武天皇は東征の途中、北九州の岡田宮に3年も滞在していることになっている。

 だとするとヤマト王権のルーツは狗奴国と言うことになる。そしてやがて近畿大和に入った狗奴国の王、神武と、その子孫達は、「ヤマト王権」確立のための闘いの歴史を刻んで行く。であるから記紀においてはヤマト王権に繋がらない筑紫倭国連合の邪馬台国や卑弥呼の事績は記述されなかったのだ。そのヤマト統一のプロセスにおいては、皮肉にも一族の故地・ルーツである地域の熊襲や隼人の抵抗が激しくなり、それが日本武尊や神功皇后や応神天皇の九州全域平定のストーリーへとつながってゆくことになる。

 しかし、なお、それは本当か?という疑問を払拭しきれない自分が居る。古事記では、「天孫降臨」の地は、すなわちニニギが三種の神器と三神を伴って降り立ったのは「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」で「此地は韓国に向い笠沙の御前の真木通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地」だと記している。これが筑紫(九州)の宮崎県の日向をさすのか(今はそれが常識になっているが)、それとも筑紫の中でも福岡県の伊都国や奴国のあたりなのか。福岡県の糸島地方(伊都国)の日向峠からは東に福岡市(奴国)、西に松浦半島(末羅国)、壱岐対馬を隔てて北には朝鮮半島を望むことが出来る。南には神の降り立つ背振山がそびえる。この近くには弥生最初期の稲作農耕遺跡である、板付遺跡や菜畑遺跡が見つかっている事は先述のとおりだ。ここは弥生文化の発祥、稲作農耕の神々の「降臨」あるいは「渡来」にふさわしい土地柄であるような気がするが。稲作農耕神アマテラスはこの筑紫に生まれたのではないのか?と...


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(筑紫倭国のクニグニは、稲作を基幹産業とし、関連する鉄器製造や、生産物の流通、近隣諸国との交易など、弥生の経済大国としての存在感を誇っていた。ここ吉野ケ里遺跡に観る巨大な環濠集落やそれを取り巻く広大な耕作地、倉庫群はその筑紫倭国の繁栄を今に伝える遺跡だ)

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(神政一致の統治システムをシンボライズする巨大な神殿、3階の巫女が神の声を聞き、2階の王と有力者に伝え,意思決定をする。農耕神アマテラスとその執行者としてのニニギの関係を彷彿とさせる)

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(こうしたクニの王は絶対君主ではなく、有力者達により共立された合議体の長であったのだろう。このようなクニグニの統治システムのうえには、倭国連合の女王として共立された邪馬台国の卑弥呼がいた)



筑紫・出雲・大和 ~記紀と魏志倭人伝と考古学のミッシングリンク~

2013年11月23日 | 日本古代史散策
 日本の古代史を解明するには,かなりの想像力と推理力を必要とする。なにしろ古事記、日本書紀(記紀)と中国の史書である三国志の魏志倭人伝くらいしか、文字に書かれた古代倭国に関する文献資料は残されていないのだから。この他は鉄剣等に刻まれた文字、金石文を含む考古学的な発掘の成果による「物証」で史実を検証する努力が必要となる。考古学にも年代測定法等「科学的な」評価方法が導入されて,時代考証の科学的客観性が増したようだが、それでも遺跡や出土品の持つ歴史的意味等、想像力の働く余地はあまり減っていない。歴史学と考古学の成果を突き合せて考察する必要があるが,それにしても日本の古代史にはあまりにも空白部分が多すぎる。これを埋めるにはやはり想像力と推理力に頼らざるを得ない。

 そもそも3世紀に編纂された中国の三国志で記述されている倭国の状況と、7世紀後期に編纂された日本の記紀の記述にはほとんど繋がりが観られない。なぜなのだろう? 日本書紀の神功皇后の章に、わずかに魏志倭人伝の引用(一書に曰く)があることから、明らかに日本書紀の編纂者は、この400年ほど前に編纂された中国の史書の存在を知り,読み込んでいたはずであるが、ほとんどの魏志の倭国に関する記述は無視されている。このわずかに現存する二つの歴史書ですら繋がらない。ミッシングリンクはまだ見つかっていない。これが日本の古代史を推理小説もどきの謎解き話にしてしまっている理由の最大のものの一つだろう。さらに日本の古代史において重要な役割を果たしてきた筑紫、出雲、大和の関連性にも謎が多い。なぜなら、魏志倭人伝には筑紫に存在するクニグニについての比較的詳細な記述があるが、出雲、大和に関する記述は伝聞に基づくものか、位置についても不確実なものだ。一方、記紀では国家創世期における出雲,大和に関するストーリーは(神話という形であるが)詳細に語られているが、筑紫については、時代を下ったヤマト王権の勢力下の一地方としての記述しかない。

 いくつかの疑問をランダムに書き出してみる。

1)記紀には素戔嗚尊(スサノオノミコト)、大国主命を主人公とした出雲の記述(出雲神話)と、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の天からの降臨とその子孫神武の東征話(日向神話)は記述されているが、筑紫(北部九州)の記述が少ないのはなぜ?国家創世期のストーリーであるとしている神話の世界に「筑紫神話」は存在していない。

2)記紀では、なぜ「まつろわぬたみ」隼人の支配地域である筑紫の日向(南部九州)が天孫降臨の地とされたのか?何故出雲の大国主命が大和に國譲りをしたのに、天津国からニニギノミコトがわざわざ日向の高千穂に降りてきたのか(日向神話)。なぜその子孫、神武が日向から東征して大和に入った、というストーリーが必要だったのか?

3)さらにその日向から東征して大和に入ろうとした神武軍は、大和在地の強力な抵抗勢力に阻まれて苦戦している。なぜ出雲の「國譲り」で安定したはずの大和に、別の天孫降臨族である邇邇芸命とその子孫の神武が侵攻しなければならないのか。そもそも、先住の強力な在地抵抗勢力とはどういう勢力なのか?その抵抗勢力の長であるニギハヤノミコトも、河内に天の磐船で天下ってきたもう一つの天孫降臨族である事になっている。どうもストーリーが錯綜しているように思えるが...

4)一方、魏志倭人伝に記述されている筑紫の国々(ツマ国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国)、そして邪馬台国(既知のようにその位置が九州なのか近畿なのか不明であるが)、その女王卑弥呼に関する記述が記紀には見えないのはなぜか?また後漢書東夷伝に記述のある、金印(志賀島から発掘されている)を受けた「漢委奴国王」とは誰なのか?

5)考古学上、筑紫には、吉野ヶ里遺跡や奴国須玖岡本遺跡などの大規模かつ広範囲のな弥生集落(クニ)の存在が確認されているにもかかわらず、記紀の記述にその痕跡も無いのはのはなぜ? 特に北部九州は考古学上明らかに弥生稲作文化最先進地域(板付遺跡、菜畑遺跡のような最早期の稲作地跡、大規模な環濠集落(クニ)、甕棺墓、鉄器製造、大陸との強いつながり)であったにもかかわらず、記紀にそのような歴史認識が見てとれないのである。

6)日本書紀の神功皇后の章に記述のある、「魏書にいわく倭国女王の遣使」はなぜ挿入されたのだろう?これは日本書紀の編者は中国の三国志の存在を知っており、編纂にあたり読んでいた証拠である。なのに、それ以上の邪馬台国に関する記述は日本書紀には反映されていない。引用を意図的に避けたのだろうか?

7)記紀における筑紫(北部九州)に関する記述は、宗像三女神がアマテラスの子孫であること。景行天皇、その子日本武尊の熊襲征伐。仲哀天皇、神功皇后の熊襲隼人征伐、三韓征伐、応神天皇の筑紫出生、筑紫国造磐井の乱、斉明天皇・天智天皇の百済救援、白村江の戦い、水城、大野城、基城構築、といったヤマト王権の支配が筑紫地方に及んだ話しか記述が無い。なぜ?

8)中国の史書に倭国関連の記述が途絶える「空白の4世紀」に倭国に何がおこった? また何故,中国において倭国の記述が途絶えたのか?

 3世紀に編纂された中国の三国志、その魏志倭人伝における倭国と、それを構成する伊都国や奴国等の北部九州のクニグニ。その盟主であったとされる邪馬台国,その女王卑弥呼。敵対国である狗奴国に関する記述は、2000字ほどの文章ながらも生き生きと当時の倭国の情勢を伝えている。しかし、7世紀後期の日本の天武天皇により編纂された古事記、日本書紀におけるヤマト王権の歴史を語る正史の中には、先述のように、この邪馬台国も卑弥呼も全く触れられていない。まるでヤマト王権とは無関係なクニ、事蹟,歴史であるかのように。北部九州を中心とした筑紫文化圏、王権の存在は無視され、むしろ熊襲や隼人といった南部九州のヤマト王権に「まつろわぬ」国、日向が天孫降臨の地であり、初代天皇である神武が東征に出た地であるとしている。いわば夷荻の跋扈する地こそヤマト王権、皇統のルーツの地であるという。

 最近、岩波新書から「出雲と大和」という興味深い本が出ている。著者は村井康彦氏で国際日本文化研究センター名誉教授という学界の重鎮である。本の帯にもあるように「邪馬台国は出雲勢力が立てたクニである」とする。そして、出雲勢力は大和へ進出した(國譲り)が、日向から攻め込んできた新しい勢力(それを神武東征というストーリー化した)に滅ぼされた。これがヤマト王権の起源である、と。したがって邪馬台国とヤマト王権に連続性は無い。だから記紀には邪馬台国も卑弥呼も登場しないのだ、と。興味深い考察だ。学界の顕学が何故今このような大胆な説を発表したのかよくわからないが、私の疑問はこれでもいっこうに解き明かされない。即ち、魏志倭人伝に出てくる筑紫(北部九州)のクニグニの位置付けに関する考察は依然として抜けているからだ。なぜ筑紫は日本の歴史書から、いわば抹殺されたのか...

 ミッシングリンクを解明する旅はまだまだ終章に近づいてはいない。一つの章が終わると、その次に,さらなる暗闇が広がる。終わりの無い時空旅が続く。日暮れて道遠し。

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(福岡空港を南方向へ離陸すると,すぐ右手(西)に日本最古かつ最大の弥生稲作環濠集落遺跡、板付遺跡が見えてくる。この南には奴国の王都であったと言われる岡本須玖遺跡や鉄器製造コンビナートであった比恵遺跡などが連なっている。大陸との窓口に位置する北部九州筑紫は、倭国の最先進地域であった。)


日本最古の稲作環濠集落 板付遺跡 ー弥生のクニのルーツー

2012年09月26日 | 日本古代史散策
 日本に稲作が伝わってきたのは何時か?狩猟採集が生活の基盤であった縄文時代は、どのように水稲農耕生活の弥生時代に変遷して行ったのか。縄文時代と弥生時代では人種の交代があったのか。縄文時代から弥生時代へのフェーズ転換は、考古学上の論争が活発なテーマの一つである。

 従来、弥生時代は紀元前500年頃に始まるとされてきたが、最近の研究ではさらに500年ほど遡り、紀元前1000年頃ではないかという説が有力になっている。これは大陸から水稲農耕の技術、農耕文化が日本列島に入ってきた時期を問うことでもある。シロウトには考古学にまつわる様々な科学的な年代測定法の詳細は分からないが、どうも弥生時代は我々が習ったよりも早い時期に始まり、長く続いたようだ。

 しかし、古代史好きの私がなぜ弥生時代にこだわるかと言うと、後漢書東夷伝や魏志倭人伝に登場する紀元1~3世紀の奴国や伊都国、邪馬台国は、こうした稲作農耕を生活の中心にした弥生のムラ、クニであった。そうした個々のクニはどのように発生、形成、発展し、さらに全国に展開していったのか、さらに、どのように倭国連合に発展し、古墳時代、大和王権に時代に突入していったのかを知るには,弥生時代の歴史、とりわけ水稲農耕が西から東へ伝搬して行った足跡を知っておく必要があると考えた。「日本文化の東遷」伝説の考古学的な検証だ。大陸から伝搬したと言う農耕は最初、北部九州に根付き、チクシ時代を築く。それが200年足らずのうちに近畿へ倭国の中心が遷り、大和王権の確立という、いわばヤマト時代へと移行する。その変遷の謎を解くヒントもそこにあるかもしれない。

 詳細は省くが、最近、研究者によって、農耕の東遷は考えられている以上にゆっくりしたものだったという見解が示されている。特に九州南部や東北地方に農耕文化が伝搬するのには様々な時間経過と紆余曲折があったという。言ってみれば縄文型の狩猟採集文化から弥生型の農耕文化へは、スパッと切り替わった(いわゆるフェーズ転換)訳ではなく、長く縄文型生活は継続し、徐々に、あるいは部分的に弥生型が入って行った地域(主たる食料生産ではない園耕地型というそうだ)と、農耕が入って行ったがまた縄文型に戻ってしまった地域(例として、東北の寒冷地域等で稲作に失敗して)もあると言う。ただ北部九州から近畿への伝播は割に短期間に進行したとも言われている。その場合、近畿へ遷る過程で、その途中の中国地方や四国地方での大型農耕集落があったのだろうか。後の出雲や吉備はそういった弥生型のムラ、クニの発展形だったのだろうか。この辺りの考古学的な検証はまだのようである。

 また人種的にも、北部九州では、縄文人の特性を備えていない、別人種の人骨が弥生遺跡から発掘されているケースがあるが、いわば原日本人(縄文人)が、外来の人々との交流、混血の中で徐々に農耕を取り入れて行った様子がうかがえるという。すなわち、イギリスブリテン等におけるゲルマン人の進入や、不断の異民族の進入、そしてノルマンの征服により,原住民ケルト人がブリテン島辺境に追いやられて行った歴史とは異なり、大陸から別人種が大量に入り込んできて原日本人を征服したり、人種が入れ替わったわけではないようだ。

 もちろん大陸との間には多くの人の行き来があったのは間違いない。今のように国境という概念も国民国家概念も無い時代であるから、倭人と漢人と韓人との区分けもそれほど明確な訳ではなかったことだろう。しかし、大陸からの征服民族が日本列島に侵入してきて(もう少し後の時代のヤマト王朝騎馬民族説のような)縄文とは全く異なる弥生時代に塗り替えてしまった、という考古学的な証拠は出ていないようだ。

 福岡市の板付遺跡はつい最近まで、日本最古の稲作環濠集落跡として考古学上の画期的な遺跡とされてた。子供の頃の歴史の教科書でもそう習ったような気がする。年代測定法で紀元前500年くらいの遺跡であるとされている。しかし、その後、福岡市周辺には江辻遺跡や菜畑遺跡といった、さらに古い稲作遺跡が見つかり、先述のような弥生時代の始まりがさらに500年遡ってしまう事となった訳だ。

 さは然り乍ら、この板付遺跡の重要性はいささかも揺るぐ事は無い。紀元前500年頃に既に高度な稲作が行われていたり、二重環濠による集落を形成し(後の時代の吉野ヶ里や唐古鍵の原型のような)、墓制についても有力者とその他の墓では副葬品が異なっている等の,既に身分の差が確認されていたり、倭国の時代にさかのぼること500年前に既にその原型が現れていた事に驚く。いわば弥生倭国のルーツである。さらにいえば現代に至るまで,稲作農耕文化を引き継ぐ日本の原点と言ってもいいだろう。

 現在板付遺跡は、福岡市の手で環濠や竪穴式住居が復元保存されている。また近くの福岡市埋蔵物文化財センターには出土品の保存展示がされている。しかし、両方とも訪問には不便なロケーション(街中にも関わらず)で、旧国道3号線沿いの福岡空港近辺に位置している。周りは国道沿いのカーディラーと大規模公営住宅団地が立ち並ぶ、という、観光客が気軽にアクセス出来るロケーションではない。現に、埋蔵物文化財センターのその日も、誰も訪問者はいなかったし、訪問記帳を見ても日に数人(しかも県外の訪問者は稀)程度。係の人も居るに居るが、説明する風でもなく、デスクに座ってパソコン観ているだけ。案内窓口の女性は愛想が良くて板付遺跡への道順等丁寧に説明してくれた。しかし壁のタイルがはげ落ちているなど、寂れた感じだ。

 板付遺跡の方はさらに寂しくて、ちょうど復元環濠内の雑草刈りをやっている最中であった。かなりの量の雑草が積上げられていた,という事は、昨日まではかなり雑草に覆われていたということか。弥生展示館は縦穴住居を模した立派なハコモノ行政の産物であるが、こちらは人が誰もいない。「こんにちわ」の声もむなしく、応答が無いので中へ勝手に入ると、電気が消されていて真っ暗。目が慣れてくると、遺跡のジオラマや出土品の弥生土器や、比較的有名な弥生人の足形等が展示されている。最初から最後まで、途中でモップもって入ってきた掃除のおばさん以外、人に会う事は無かった。

 福岡市はこうした日本の国家や文化の起源ともいうべき遺跡や、出土品の宝庫であるが、あまりそのように認識されていない。もっと脚光を浴びていいような気がするが...  別に観光資源としてもっと活用すれば,というつもりは無いが、近畿地方の古代史ファン向けのサービス(展示施設、参考資料、ボランティアの説明員(時々熱が入りすぎる嫌いもあるが)、散策コースの整備等)がそれぞれの自治体ごとに充実しているのに比べるとかなり寂しい。

 板付遺跡のすぐ近くには1世紀の奴国の都跡であると言われる比恵/那珂遺跡や、南に行くと奴国王墓やハイテク工場跡が見つかった須玖/岡本遺跡がある。福岡市やその南の春日市は弥生時代、倭国の時代の遺跡が広く分布しており、いかにも日本の先進地域であった事を彷彿とさせる。いかんせん、都市化による遺跡破壊と発掘の難しさに直面しており、なかなか全貌を解明するまでには至っていない。それにしても,日本の国家/文化の発祥の地である事は明らかにされているのだし、いわばチクシ時代の遺跡に満ちあふれている事をもっとアピールしたらいいのに,と思ってしまう。また、歴史学においても考古学においても、日本の原点である「チクシ時代」をもっと研究する必要があると思う。

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(板付遺跡の空撮敢行!? 福岡空港(板付空港)離陸するとすぐ右手に見えるのです。)

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(撮影機材:NikonD800E, AF Nikkor 24-120mm)