1)八百万神という多神の世界
「倭」の神は弥生以来の水稲耕作社会を基盤とした農耕神である。その自分たちが生きる土地に豊穣をもたらす穀霊神、土地と一族を守る産土神である。それはまた一木一草に神宿る自然崇拝であり、一族の祖先を祭る祖霊崇拝でもある。すなわち多神教世界である。八百万の神々がいた。稲作は北部九州に大陸から伝わった生産技術、生活様式であり,在来の縄文的な狩猟採集生活を営んでいた原住民との間に徐々に融合が進んで行ったと言われている。以前からの自然崇拝信仰(土偶に見られるような)もあったのだが、定住農耕生活の開始とともに新たな農耕神が古神道の中心になっていったのだろう。しかし、そうした自然崇拝、祖霊崇拝の古神道の姿はいつから皇祖神アマテラスを中心とした神社神道に替わって行ったのだろう?
弥生時代から「倭」の時代、稲作農耕社会にとって、生産手段たる土地の所有、水源の確保、天変地異、天候の予測、土木技術、農具とりわけ鉄器生産確保、労働力としての人民の確保と統率、生産管理、収穫物(富)の流通、保管、分配、蓄積。やがては奪い合い、戦いなどをマネージできる支配者が現れる。生産集団はムラになりクニになる。その集団を守る神が創造される。神の意思をを伝え、祭りを執り行う司祭や巫女がムラやクニの意思決定に重要な役割を果たす。こうしてムラ、クニの数だけ、氏族、豪族の数だけ神がいるという多神の世界が出現した。いわば「私地私民制」の時代の倭国はそうした多元的なムラやクニの集合体であった。
やがてそのなかから、クニグニの争いによる資源の消耗を避けるために、複数の氏族・豪族や王により共立された大王が生まれる。倭国連合の盟主邪馬台国の女王卑弥呼もそうした大王の一人だったのだろう。しかし。まだその大王は,全ての土地,人民という生産手段を支配し、富を囲い込む権力を手中に収めるには至っていなかった。認められていたのは、神と通じる事により地上の政(まつりごと)を決めるための宣託を行う祭祀者としての権威であった。
古神道の世界では、神は天にいて,時々地上に降り立つ。神は姿も無く言葉も発しない。教えも解かない。神の降り立つ岩、石、樹、森、山など、神籬、磐座、よりしろに、人々が祭礼を行うために集まったのが古神道の原型であった。それは稲作という生産活動を行い、生活を営むムラの近くにあった。後にそこに遥拝所として社が建てられ神社になってゆく。ご神体山やご神木、鎮守の森は神社の建物を守るものではなく、その山、木、杜そのものが神のよりしろであったのだ。今でも田舎の小さな村の鎮守の杜には、そうした弥生の,倭国の神のよりしろの佇まいを良く残している所がある。神社の建物に凝り出すのはずっと後のことなのだ。
2)唯一最高神アマテラスの出現
しかし、4世紀にはいってヤマトの大王(ヤマト王権)が徐々にその倭国の支配権を拡大する中で、他の豪族や氏族と異なる支配の正統性と権威を獲得しようとする。最初は、東アジア世界の中心であった中華王朝への朝貢、柵封による倭の支配権の認証を得る事であった。1世紀の漢倭奴国王や3世紀の親魏倭王卑弥呼の時代から続くこうした中華帝国皇帝による統治権威の認証は、華夷思想に基づく東アジア世界秩序のスタンダードな形態であった。なにも倭国に限った話ではない。5世紀の倭の五王の時代には柵封認証は朝鮮半島南部の支配権にまで及ぶ事となる。
しかし、倭国を実質的に支配する中央集権的な力を備えるには、さらに300年以上の時間が必要であった。頭角を現した有力豪族蘇我氏を倒し、朝鮮半島白村江の闘いに敗北し、倭国存亡の危機に直面し、さらには国内最大の内乱、壬申の乱を経て王位に就いた天武天皇の時代を待たねばならない。大王/天皇を中心とした国家体制の整備のためには、まず多くの氏族、豪族が支配する土地と人民、すなわち「私地私民」制を廃して、天皇の「公地公民」制へ。という経済政治体制の大変革が必要であった。そしてそのためには、私地私民体制のイデオロギーである八百万の多神の世界から、それらの神々の上に立つ神、すなわち他の氏族豪族の神々の上に位置する唯一最高神の創造が必要であった。しかもこの天から降臨して来た唯一最高神の子孫が大王/天皇であるという、新たなイデオロギーが不可欠であった。
こうして皇祖神天照大神という八百万の神の上に存在する唯一最高神が創造され、その天上界から最高神の命を受けて降臨してきた神の子孫が地上の支配者たる天皇であるというストーリが組立てられた。従来からの在地の神々や氏族豪族の神々は、その最高神やその子孫の様々な営みから生まれ出てきたものとする、いわば八百万の神々の「再定義」「体系化」が進められる。それを明文化したのが日本書紀や古事記に表された神話の章である。しかし。前述のように、弥生以来の歴史的経緯からみると、まず八百万神々(多くのムラ、クニ、氏族、豪族)がいて、後に皇祖神天照大御神(大王、天皇)が生まれた。
このように皇祖神アマテラスの創造、天孫降臨神話は7世紀後半の天武/持統天皇時代に、天皇中心の新しい国家統治体制の確立を目指して「開発された」ストーリーである。このストーリーを描いたのは、天皇親政をとり、側近をあまり持たなかった天武天皇の唯一の忠臣(右大臣も左大臣もおかなかった)中臣大嶋であると言われている。巳支の変で功績のあった中臣鎌足の子,藤原不比人はまだ幼く、権勢を振るうまでにはまだ時間があった。大嶋は鎌足の直系ではなく、傍系であったが、中臣氏は天照大御神に仕える天児屋根命の子孫であるとする。これが後の藤原一族の天皇側近としての長きに渡る栄華を保証する「立ち位置」を示す重要な根拠であった。
皇祖神天照大神は、天皇の宮のある大和ではなくて、大和を遠くはなれた東国の伊勢に鎮座する。なぜ伊勢に鎮まったのか。天皇は自らの祖霊神を身近な宮廷の地に祀らなかった。一説に壬申の乱と関係があると言う。吉野を脱出した孤立無援の大海人皇子を救ったのは、大和の東にいた伊勢大神であった。代々伊勢神宮の神官を務める渡会氏の祖先である伊勢の豪族勢力が、大海人皇子を助け,近江京を攻め、大和凱旋、飛鳥に王位継承を可能としたと言われている。この伊勢大神が天照大神に同体化された。皇祖神アマテラスの登場は、大海人皇子、天武天皇の即位のプロセスに深い関係を持っているようだ。ちなみに神武天皇の東征伝説も、この時の大海人皇子の戦い、大和凱旋のルートをモデルにして創作されたともいわれている。
3)仏教の受容
一方、仏教は6世紀半ばに百済の聖王によって倭国にもたらされたが、当然ながら時の欽明大王は異国の神の受け入れには慎重であった。いかに時代がグローバル化し世界思想たる仏教が東アジア世界の潮流であったとしても、弥生的な鷹揚さを持った多神世界であった当時の倭国であっても、容易に新しい外来思想を受け入れる事は出来なかった。しかし渡来人コミュニティーを背景に持つ蘇我氏は積極的に導入を推進、飛鳥に法興寺を建立する。廃仏派の物部氏らと対立したは既知の通りだ。やがては用明大王の時代、蘇我氏が物部氏を打倒し、聖徳太子、推古大王の時代に至りようやく大王家が仏教を取り入れることになった。特に蘇我一族につながる聖徳太子は篤く仏教を信奉し、斑鳩宮に法隆寺を建立した。蘇我氏は倭国に革命的な思想を持ち込んだ。弥生的な多神教世界に一神教を持ち込んだのだから。やがて蘇我一族の内紛としての聖徳太子一族(山背大兄王子一族の抹殺による)の血脈の断絶、巳支の変による蘇我宗家の滅亡へと歴史は大きく転換するが、仏教の法灯は生き続ける。
本格的に仏教を受容した最初の大王は欽明大王であった。それ以降、仏教寺院は私寺(蘇我氏の法興寺、聖徳太子の法隆寺のような)としてではなく、官寺として造営されるようになる。天武/持統時代には大官大寺や薬師寺が建立される。すでに仏教伝来からおよそ一世紀以上の時間を要している。国家統治の理念として、鎮護国家思想が取り入れられるのはさらには聖武天皇時代の東大寺大仏建立を待たねばならなかった。
このように仏教が天皇により国家統治の理念として受容されてゆく道のりは険しいものがあった。しかし、仏教は神道の神と違い、姿形、言葉を持って人々と接する神であり、現世利益という点では共通するものの、教えを説く神である。しかも、限られた地域や一族だけの神では無く、多神教でもない。その教えは無為無辺であり、私地私民制的な分立体制を打ち破る公地公民制、統一国家の思想としては最適でもあった。またビジュアルとしても異国風の堂々たる寺院建築と美しい威厳に満ちた仏像が人々を引きつけ、権力者の権威を可視化させる効果があった。こうした中央集権的な「公地公民制」移行を目指す勢力に取って、仏教ははまたとないシンボルでありイデオロギーとなっていった。
4)「倭国」から「日本」へ
このように氏族豪族が群有割拠する倭国の分断化された「私地私民」の体制を打破し、大王(やがては天皇)を中心とする律令制、公地公民制による中央集権的な国家体制の確立に必要な思想、理念が求められた。これが皇祖神天照大神を最高神とする八百万の神々の体系化(それを正史として明文化させた日本書紀)と、外来の神(思想)である仏教による鎮護国家思想である。国家統治ディシプリンとして、経済改革、政治改革の中心理念として確立されていった。分権から集権へ。これが「日本」という国家の始まりの姿であった。「倭国」から「日本」へのパラダイムシフトである。
やがては大王は自らを天皇と名乗り,倭国は日本と国号を変える。これは,中華帝国の皇帝が支配する宇宙以外に東アジア世界にもう一つの天帝が支配する宇宙がある事を宣言したものだ。自ら名乗った訳でもない「倭」という国号を捨て、太陽神の子孫が統治する日の出る国「日本」を名乗る。これは中華帝国の柵封体制からの離反を意味する。日本はこの時中国皇帝の柵封国家から独立国家となることを宣言した。
我が国に現存する唯一の正史である「日本書紀」や「古事記」は、7世紀後半から8世紀初頭の、こうした時代背景のもとに編纂された「文書」で在るコトを知っておくべきだろう。天武/持統帝の明確な新しい国家理念の発露であった。歴史書は必ずしも史実を客観的に記述したものではない。まして神話は素朴な民間伝承説話と異なり、極めて一定の意図を持って取捨選択されあるいは創作されるものである。国家の正史と称されるものの編纂には大きな権威と権力が必要である。そうした時の権力者が、自らの権威と支配の正統性を明文化するために表した文書が「正史」である。さらに中華大宇宙に対抗する日本小宇宙を宣言するには「正しい国史」を整え,対外的に示す事も必要であった。文献歴史学とは、そうした史料の背景を理解し、批判的に読み込んで行くものである事は、いまさら言うまでもないであろう。
参考文献:「飛鳥時代 倭から日本へ」田村圓澄著。明解な記述で一読をお勧めする。
(吉野ヶ里の祭礼殿では巫女が神のご宣託を伺い、隣室の王にそれを伝える。政(ヒコ)祭(ヒメ)制の原初的な姿だ)
(大宇陀阿騎野の里の神社。田圃の中に鎮守の森が残る典型的な倭国の神の姿だ)
(大和當麻の里の神社。大きなご神木が弥生の時代からここに神のよりしろとして存在し続けている)
(明治の近代化により、東海道線に境内を分断されてしまった近江長嶋神社。しかし鎮守の森の姿を今に良く残している)
(神聖なる磐座、神籠、神のよりしろとしてしめ縄により結界された場所。これが原始神道の祭祀の姿であった)
「倭」の神は弥生以来の水稲耕作社会を基盤とした農耕神である。その自分たちが生きる土地に豊穣をもたらす穀霊神、土地と一族を守る産土神である。それはまた一木一草に神宿る自然崇拝であり、一族の祖先を祭る祖霊崇拝でもある。すなわち多神教世界である。八百万の神々がいた。稲作は北部九州に大陸から伝わった生産技術、生活様式であり,在来の縄文的な狩猟採集生活を営んでいた原住民との間に徐々に融合が進んで行ったと言われている。以前からの自然崇拝信仰(土偶に見られるような)もあったのだが、定住農耕生活の開始とともに新たな農耕神が古神道の中心になっていったのだろう。しかし、そうした自然崇拝、祖霊崇拝の古神道の姿はいつから皇祖神アマテラスを中心とした神社神道に替わって行ったのだろう?
弥生時代から「倭」の時代、稲作農耕社会にとって、生産手段たる土地の所有、水源の確保、天変地異、天候の予測、土木技術、農具とりわけ鉄器生産確保、労働力としての人民の確保と統率、生産管理、収穫物(富)の流通、保管、分配、蓄積。やがては奪い合い、戦いなどをマネージできる支配者が現れる。生産集団はムラになりクニになる。その集団を守る神が創造される。神の意思をを伝え、祭りを執り行う司祭や巫女がムラやクニの意思決定に重要な役割を果たす。こうしてムラ、クニの数だけ、氏族、豪族の数だけ神がいるという多神の世界が出現した。いわば「私地私民制」の時代の倭国はそうした多元的なムラやクニの集合体であった。
やがてそのなかから、クニグニの争いによる資源の消耗を避けるために、複数の氏族・豪族や王により共立された大王が生まれる。倭国連合の盟主邪馬台国の女王卑弥呼もそうした大王の一人だったのだろう。しかし。まだその大王は,全ての土地,人民という生産手段を支配し、富を囲い込む権力を手中に収めるには至っていなかった。認められていたのは、神と通じる事により地上の政(まつりごと)を決めるための宣託を行う祭祀者としての権威であった。
古神道の世界では、神は天にいて,時々地上に降り立つ。神は姿も無く言葉も発しない。教えも解かない。神の降り立つ岩、石、樹、森、山など、神籬、磐座、よりしろに、人々が祭礼を行うために集まったのが古神道の原型であった。それは稲作という生産活動を行い、生活を営むムラの近くにあった。後にそこに遥拝所として社が建てられ神社になってゆく。ご神体山やご神木、鎮守の森は神社の建物を守るものではなく、その山、木、杜そのものが神のよりしろであったのだ。今でも田舎の小さな村の鎮守の杜には、そうした弥生の,倭国の神のよりしろの佇まいを良く残している所がある。神社の建物に凝り出すのはずっと後のことなのだ。
2)唯一最高神アマテラスの出現
しかし、4世紀にはいってヤマトの大王(ヤマト王権)が徐々にその倭国の支配権を拡大する中で、他の豪族や氏族と異なる支配の正統性と権威を獲得しようとする。最初は、東アジア世界の中心であった中華王朝への朝貢、柵封による倭の支配権の認証を得る事であった。1世紀の漢倭奴国王や3世紀の親魏倭王卑弥呼の時代から続くこうした中華帝国皇帝による統治権威の認証は、華夷思想に基づく東アジア世界秩序のスタンダードな形態であった。なにも倭国に限った話ではない。5世紀の倭の五王の時代には柵封認証は朝鮮半島南部の支配権にまで及ぶ事となる。
しかし、倭国を実質的に支配する中央集権的な力を備えるには、さらに300年以上の時間が必要であった。頭角を現した有力豪族蘇我氏を倒し、朝鮮半島白村江の闘いに敗北し、倭国存亡の危機に直面し、さらには国内最大の内乱、壬申の乱を経て王位に就いた天武天皇の時代を待たねばならない。大王/天皇を中心とした国家体制の整備のためには、まず多くの氏族、豪族が支配する土地と人民、すなわち「私地私民」制を廃して、天皇の「公地公民」制へ。という経済政治体制の大変革が必要であった。そしてそのためには、私地私民体制のイデオロギーである八百万の多神の世界から、それらの神々の上に立つ神、すなわち他の氏族豪族の神々の上に位置する唯一最高神の創造が必要であった。しかもこの天から降臨して来た唯一最高神の子孫が大王/天皇であるという、新たなイデオロギーが不可欠であった。
こうして皇祖神天照大神という八百万の神の上に存在する唯一最高神が創造され、その天上界から最高神の命を受けて降臨してきた神の子孫が地上の支配者たる天皇であるというストーリが組立てられた。従来からの在地の神々や氏族豪族の神々は、その最高神やその子孫の様々な営みから生まれ出てきたものとする、いわば八百万の神々の「再定義」「体系化」が進められる。それを明文化したのが日本書紀や古事記に表された神話の章である。しかし。前述のように、弥生以来の歴史的経緯からみると、まず八百万神々(多くのムラ、クニ、氏族、豪族)がいて、後に皇祖神天照大御神(大王、天皇)が生まれた。
このように皇祖神アマテラスの創造、天孫降臨神話は7世紀後半の天武/持統天皇時代に、天皇中心の新しい国家統治体制の確立を目指して「開発された」ストーリーである。このストーリーを描いたのは、天皇親政をとり、側近をあまり持たなかった天武天皇の唯一の忠臣(右大臣も左大臣もおかなかった)中臣大嶋であると言われている。巳支の変で功績のあった中臣鎌足の子,藤原不比人はまだ幼く、権勢を振るうまでにはまだ時間があった。大嶋は鎌足の直系ではなく、傍系であったが、中臣氏は天照大御神に仕える天児屋根命の子孫であるとする。これが後の藤原一族の天皇側近としての長きに渡る栄華を保証する「立ち位置」を示す重要な根拠であった。
皇祖神天照大神は、天皇の宮のある大和ではなくて、大和を遠くはなれた東国の伊勢に鎮座する。なぜ伊勢に鎮まったのか。天皇は自らの祖霊神を身近な宮廷の地に祀らなかった。一説に壬申の乱と関係があると言う。吉野を脱出した孤立無援の大海人皇子を救ったのは、大和の東にいた伊勢大神であった。代々伊勢神宮の神官を務める渡会氏の祖先である伊勢の豪族勢力が、大海人皇子を助け,近江京を攻め、大和凱旋、飛鳥に王位継承を可能としたと言われている。この伊勢大神が天照大神に同体化された。皇祖神アマテラスの登場は、大海人皇子、天武天皇の即位のプロセスに深い関係を持っているようだ。ちなみに神武天皇の東征伝説も、この時の大海人皇子の戦い、大和凱旋のルートをモデルにして創作されたともいわれている。
3)仏教の受容
一方、仏教は6世紀半ばに百済の聖王によって倭国にもたらされたが、当然ながら時の欽明大王は異国の神の受け入れには慎重であった。いかに時代がグローバル化し世界思想たる仏教が東アジア世界の潮流であったとしても、弥生的な鷹揚さを持った多神世界であった当時の倭国であっても、容易に新しい外来思想を受け入れる事は出来なかった。しかし渡来人コミュニティーを背景に持つ蘇我氏は積極的に導入を推進、飛鳥に法興寺を建立する。廃仏派の物部氏らと対立したは既知の通りだ。やがては用明大王の時代、蘇我氏が物部氏を打倒し、聖徳太子、推古大王の時代に至りようやく大王家が仏教を取り入れることになった。特に蘇我一族につながる聖徳太子は篤く仏教を信奉し、斑鳩宮に法隆寺を建立した。蘇我氏は倭国に革命的な思想を持ち込んだ。弥生的な多神教世界に一神教を持ち込んだのだから。やがて蘇我一族の内紛としての聖徳太子一族(山背大兄王子一族の抹殺による)の血脈の断絶、巳支の変による蘇我宗家の滅亡へと歴史は大きく転換するが、仏教の法灯は生き続ける。
本格的に仏教を受容した最初の大王は欽明大王であった。それ以降、仏教寺院は私寺(蘇我氏の法興寺、聖徳太子の法隆寺のような)としてではなく、官寺として造営されるようになる。天武/持統時代には大官大寺や薬師寺が建立される。すでに仏教伝来からおよそ一世紀以上の時間を要している。国家統治の理念として、鎮護国家思想が取り入れられるのはさらには聖武天皇時代の東大寺大仏建立を待たねばならなかった。
このように仏教が天皇により国家統治の理念として受容されてゆく道のりは険しいものがあった。しかし、仏教は神道の神と違い、姿形、言葉を持って人々と接する神であり、現世利益という点では共通するものの、教えを説く神である。しかも、限られた地域や一族だけの神では無く、多神教でもない。その教えは無為無辺であり、私地私民制的な分立体制を打ち破る公地公民制、統一国家の思想としては最適でもあった。またビジュアルとしても異国風の堂々たる寺院建築と美しい威厳に満ちた仏像が人々を引きつけ、権力者の権威を可視化させる効果があった。こうした中央集権的な「公地公民制」移行を目指す勢力に取って、仏教ははまたとないシンボルでありイデオロギーとなっていった。
4)「倭国」から「日本」へ
このように氏族豪族が群有割拠する倭国の分断化された「私地私民」の体制を打破し、大王(やがては天皇)を中心とする律令制、公地公民制による中央集権的な国家体制の確立に必要な思想、理念が求められた。これが皇祖神天照大神を最高神とする八百万の神々の体系化(それを正史として明文化させた日本書紀)と、外来の神(思想)である仏教による鎮護国家思想である。国家統治ディシプリンとして、経済改革、政治改革の中心理念として確立されていった。分権から集権へ。これが「日本」という国家の始まりの姿であった。「倭国」から「日本」へのパラダイムシフトである。
やがては大王は自らを天皇と名乗り,倭国は日本と国号を変える。これは,中華帝国の皇帝が支配する宇宙以外に東アジア世界にもう一つの天帝が支配する宇宙がある事を宣言したものだ。自ら名乗った訳でもない「倭」という国号を捨て、太陽神の子孫が統治する日の出る国「日本」を名乗る。これは中華帝国の柵封体制からの離反を意味する。日本はこの時中国皇帝の柵封国家から独立国家となることを宣言した。
我が国に現存する唯一の正史である「日本書紀」や「古事記」は、7世紀後半から8世紀初頭の、こうした時代背景のもとに編纂された「文書」で在るコトを知っておくべきだろう。天武/持統帝の明確な新しい国家理念の発露であった。歴史書は必ずしも史実を客観的に記述したものではない。まして神話は素朴な民間伝承説話と異なり、極めて一定の意図を持って取捨選択されあるいは創作されるものである。国家の正史と称されるものの編纂には大きな権威と権力が必要である。そうした時の権力者が、自らの権威と支配の正統性を明文化するために表した文書が「正史」である。さらに中華大宇宙に対抗する日本小宇宙を宣言するには「正しい国史」を整え,対外的に示す事も必要であった。文献歴史学とは、そうした史料の背景を理解し、批判的に読み込んで行くものである事は、いまさら言うまでもないであろう。
参考文献:「飛鳥時代 倭から日本へ」田村圓澄著。明解な記述で一読をお勧めする。
(吉野ヶ里の祭礼殿では巫女が神のご宣託を伺い、隣室の王にそれを伝える。政(ヒコ)祭(ヒメ)制の原初的な姿だ)
(大宇陀阿騎野の里の神社。田圃の中に鎮守の森が残る典型的な倭国の神の姿だ)
(大和當麻の里の神社。大きなご神木が弥生の時代からここに神のよりしろとして存在し続けている)
(明治の近代化により、東海道線に境内を分断されてしまった近江長嶋神社。しかし鎮守の森の姿を今に良く残している)
(神聖なる磐座、神籠、神のよりしろとしてしめ縄により結界された場所。これが原始神道の祭祀の姿であった)