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高崎市上佐野町の烏川に架けられている佐野橋です。洪水のときに木製の橋桁部分が流されてしまっても良いように造られている「流れ橋」です。2019年の台風19号では橋桁だけでなく橋脚2基も流失しました。長さ113m、幅2.3m、歩行者と二輪車だけが通行できます。
佐野橋の上流側には上信鉄道の鉄道橋があります。川の向こうの丘陵は観音山丘陵です。昨日の記事のあっこちゃんさんとのコメントで話題にした佐野橋へやって来たんです。せっせとクロスバイクのペダルを踏んで。
朝食後に出汁取りをしました。昆布を煮出しながら、今日はどっちへ走ろうかなって考えてたんです。雨も大丈夫げだし、風も吹かないようなので自転車で運動することにしたのです。それで、あっこちゃんさんとのやり取り思い出して、ちょうど35㎞ほどだなって…
支度をしてクロスバイクを乗り出したのが9時50分、利根橋で利根川渡って新前橋へ、旧国道17号を高崎へ向かいました。井野川を渡って、環状線を越えて、貝沢町南の信号を斜めに入って南へ向かいました。
ほどなく高崎女子高校、クスノキがいっぱい植えられているので「何故ですか?」って学校関係者に尋ねたことがありました。そしたら、「虫がつかないためです」ってマジな顔。困惑して、「では、全部切っちまったほうがよろしいのでは…」って言ったら、怖い顔で睨まれました。その先、一貫堀川のところには高崎工業高校、この学校には給食があったんで羨ましかったです、今もあるのかな…。
休まずペダルを踏み続けると、こないだまで都家前橋さんが活躍していた県のコロナワクチン接種会場だったぐんまメッセの脇を抜けて、JRの機関区のところの踏切で高崎線を渡ると和田多中町、国道17号を渡って上佐野町のはずれまで走り続けました。
上佐野町の烏川の河岸段丘の端に、細い縦長の碑があります。高崎市指定文化財の「佐野船橋の歌碑」です。「万葉集ナビ」の訓読みに従うと…
上つ毛野佐野の舟橋取り離し親は放くれど我は離るがへ
かな書きすると、「かみつけのさののふなはしとりはなしおやはさくれどわはさかるがえ」となります。万葉集第14巻の3420番の歌、作者は不詳です。碑文はほとんど読めません。1827年(文政10年)に新町の延養寺の住職良翁により記されたもので、線刻の馬頭観音像の下に歌が彫られているとのことです。
歌碑の脇の坂道を烏川に向かって下って行くと佐野橋に出ます。佐野の舟橋はこのあたりにあったと伝えられています。舟橋は、川面に舟を並べて係留し、その上に板を渡した橋です。仮設である場合もあるのですが、佐野の舟橋は仮設ではなく常設の橋だったようです。葛飾北斎が描いた佐野の舟橋の姿が「諸国名橋奇覧」に遺されていますが、北斎の想像の風景のようです。この絵はは、すみだ北斎美術館のこちらで見ることができます。
橋の上から見た下流方向の風景です。そして、直下の流れをのぞくと、たくさんの野鯉の姿が見られました。そうそう、万葉集の歌の口語訳を書いときますね。
「頭の固い親たちはさ、佐野の舟橋の板を取り外すように二人の中を裂こうとするけれど、二人は絶対に別れないからね、死んだって別れないもんね」ってなことなんです。この歌の背景には佐野の舟橋の哀しい伝説があります。
となりの橋を上信電鉄の電車が音を立てて渡って行きました。伝説というのは、この烏川を挟んだ二つの村の長者の家の息子と娘が恋仲になり、夜ごと舟橋を渡って逢瀬を重ねていたのです。それを嫌った親が二人を会えなくするために橋の板を外したのですが、そのことを知らなかった二人は川に落ちて死んでしまったのです。この伝説が謡曲「船橋」の素材となっています。
橋の対岸は佐野窪町、烏川の広い河川敷の中の一本道です。真っすぐな恋路です。悲恋の道です。恋とは全く無関係な爺さまは、自転車押しながらとぼとぼと歩いてきました。棺桶一直線…
佐野橋と別れて、烏川右岸の河川区域の中の道を山名町へ向かいました。河川区域の中に畑があります。田んぼまであって、水が引かれ、田植えの準備が進んでいました。
山名町の田んぼは小麦の収穫の真っ最中でした。黄色く実った小麦をコンバインが刈り取って行きます。その後ろをカラスが追いかけていました。
共栄橋で烏川を渡って倉賀野町に戻り、高崎線の線路端にある新堤で休憩してエネルギー補給をしました。このため池は天明の浅間焼けの火山灰降下で大被害を受けたこのあたり一帯の復興のためにつくられたため池なのだそうです。ここからは、高崎健康科学大学の脇を抜けて京目町へ出てきました。
そして、昭和大橋で利根川を渡って帰ってきました。家に着いたのは12時40分、往復約35㎞、2時間50分の運動でした。足の調子もよろしくて気持ちよく走れました。
着替えをし、買い物用自転車に乗り換えて、遅い昼食をしに呑竜仲店のヤギカフェまで出かけました。ブラックドライカレーとチャイで、のんびり、ゆっくり食事をさせてもらいました。
帰り道、駐車場の車止めを枕に昼寝をしているまち猫に出会いました。家に戻ると、COCOは居間の私の椅子の上で昼寝をしてました。声をかけたら、面倒くさそうに眼を開けました。それから、マタケを調理して夕食の支度をしました。
ユキ子さんの両親へ届けた夕食のおかずです。柔らかいマタケでしたんで、入れ歯でも不安なく食べられます。庭では、マサカキの花が咲き始めました。優しい花です。
牛肉とマタケの筍、それと野菜の甘辛焼きです。マタケのほかに、ネギ、新タマネギ、サヤインゲン、舞茸、新じゃが、ズッキーニを焼きました。マタケの筍と油揚げの煮物です。緑は山椒の若葉です。冷凍保存しているのを使いました。
野菜の盛り合わせとハニーマスタードソースです。トマト、ブロッコリー、新じゃが、オクラ、ラディッシュです。新じゃががおいしいですね。汁はマタケの姫皮とエゴマの葉の卵とじ、ご飯はいつもの十六穀米でした。夕食を食べているときには、外は雨になっていました。
今朝は小雨模様、梅雨冷というのですか肌寒さを感じます。今日は、予定もありませんので静かに暮らします。
三代目若柳吉駒でございます。1937年(昭和12年)に祖母の初代吉駒が始め、伯母の二代目吉駒が受け継いでまいりました直派若柳流美登利会を承継しております。毎年春に開催しております舞踊会は、戦時中の開催禁止と一昨年のコロナ禍による延期を除いて、今年で78回を重ねることができました。来年は4月9日に第79回舞踊会を開くことといたしまして、会員一同精進を重ねております。引き続きご贔屓くださいますようお願い申し上げます。
《最近の美登利会と吉駒リサイタルの舞台をご覧になりたい方は…》
第78回美登利会と第3回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧下さい。
第77回美登利会と第2回三代目吉駒リサイタルはこちらでご覧下さい。
第76回美登利会と三代目吉駒襲名リサイタルはこちらでご覧下さい。
お稽古場は前橋市城東町、詳しくはこちらをご覧下さい。
また行きたくなりました。鉄橋渡る電車も見えてホントステキなところです。13日二度目のコメント書いたの、みてくださった?
見ましたよ。古墳は倉賀野古墳群の浅間山古墳(群馬で二番目に大きな古墳)や大鶴巻古墳など、鉢の木伝説は常世神社、佐野は東山道が通っていたところなのでいろいろあるのですね。2020年9月23日の記事では古墳やなんかにも立ち寄っています。今回は佐野橋だけ…