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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ドラマとスマホ

2020-05-09 | 雑感
コロナ禍によって新作ドラマの撮影が延期となり、多くの現場ではその公開時期や、すでに公開されているドラマ放映の継続に苦慮しているようだ。
その穴埋めのため、昔の作品を再放送することが多くなったように思えるが、ドラマの中で使われる通信機器が時代の流れを如実に映し出していて面白い。
つい先日もテレビ朝日系列のドラマで「特捜9」の前身である「警視庁捜査一課9係」第1シーズンの第1話が放映されていた。また、従前から平日午後の時間帯では「相棒」が繰り返し再放送されている。
「相棒」は今年20年目を迎える人気ドラマだし、「9係」もスタートは2006年だからすでに14年前ということになる。
今ならGPS機能を使って逃亡犯や誘拐された子どもの位置を確認したり、撮影した現場の写真や様々なデータを瞬時に送受信したりといったことが当たり前のように行われるのだが、15年くらい前の刑事ドラマには当然ながらスマートフォンもSNSも登場しない。それがドラマの筋立てにも反映されているようだ。
当時最新の連絡手段は携帯電話(いわゆるガラケー)であり、その型式も年代によって変遷するから、それを見ながら、「ああ、あの頃あんなの使ってたねえ、懐かしい!」などと言い合うのも昔のドラマの楽しみ方の一つではあるのだ。
先日見た「9係」では、仕事のためデートに行けなくなった女性刑事が待ち合わせの恋人に断りの電話を入れるのだが、逆にやさしい言葉をかけられ、電話を切った後、携帯電話を両手に握りしめ、それを頬に当ててうっとりとした表情を浮かべるというシーンがあったが、そんな道具立ては昔の携帯電話ならではのことで、今スマホでそんなことはしないなあと思ったものだ。(あ、これはこのシーンを否定しているのではなく、失われた懐かしいもの、という意味合いです)
道具は人の「ふるまい」をも変えてしまうものなのかも知れない。

そういえば、2011年の東日本大震災の発生時、その後の電力不足や物資の不足によって日常生活や様々な活動に支障が生じ、不便を余儀なくされたのだったが、その際の日本人のふるまいが他人を思いやり、礼節を重んじたものであり、世界的にも奇跡的なことと称賛されていたことを思い出す。
思い返せば、当時はスマートフォンやSNSが一般に活用され始めてまだ数年という時期だった。チュニジアで起こったジャスミン革命(民主化運動)でFacebookやTwitterなどが大きな役割を果たしたと言われるのも3.11の直前のことだ。当時書かれた報道記事やいくつかの論文の中では、情報技術の駆使による新たな民主主義の登場や合意形成の方途が未来志向で語られ、SNSを活用した集合知の意義が信じられていた頃だ。

あれから9年が経過したのだが、その間、世界中を飛び交う情報通信量は私たちに想像すら出来ないほどの規模で爆発的な増大を続けている。

しかしながら、そこで飛び交う言葉の中身はどうだろう。
私自身の数少ない経験からの感想でしかないのだが、今、ネット上に飛び交う言葉の数々は目を覆いたくなるような惨状を呈してはいないだろうか。匿名性の鎧をまとい、特定の人や組織を貶めるような言説や皮肉、罵詈雑言は絶望でしかない。
コロナ禍というかつてない状況下、目に見えないウイルスへの不安やいつ収束するかも分からない日常生活への影響、政治への不信など、人々の心の中で増幅する感情が噴出した一形態という面もあるには違いないだろう。
しかし、そんな時だからこそ、より良く生きようと懸命に努力する人たちの働きを鼓舞し、勇気づけ、後押しするような、良き言葉こそを聞きたいと願うのだ。

蛇足ながら付け加えておくと、このことは私たちが政治的発言をすることや、時の政権を批判することを否定するものではない。
「批判」の本来的な意味が、「物事の真偽や善悪を批評し判定すること」であるように、政治や各種政策に目を向け、批判することは広く国民の権利であり、義務でもあるだろう。
なぜなら政治はあまねくすべての人々のものだからである。自分たちの政治がより良いものとなるために声を発するのは当然のことなのだ。その先にこそ、かつて信じられていた新たな民主主義や合意形成のための集合知が生まれるのではないか。そんな気がするのだ。


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