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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

正しいふるまい

2013-06-05 | 雑感
 5月28日付毎日新聞夕刊書評欄に文芸評論家:田中和生氏が書いている言葉が気になった。雑誌「新潮」に載っている作家:池澤夏樹と高橋源一郎の対談「死者たちと小説の運命」について書いている文章で、少し長くなるけれど引用する。

 ……3・11の震災後に書いた作品について語りながら、池澤は「東北の被災した人たちの側に立つ」と言い、震災後の原発事故を受けた長編「恋する原発」(講談社)を刊行している高橋は「時代が書かせた」と言う。それは震災後の現実であらかじめ正しいふるまいである。
 世評高いいとうせいこうの長編「想像ラジオ」(河出書房新社)もそうだが、つまりそれらは正しいふるまいの一部として存在している。だから原理的にその作品を批判することもできないし、否定することもできない。なぜならそれは「東北の被災した人たちの側に立つ」ことや、原発事故に対してなにかすること自体を否定する意味をもつからだ。だからその周囲には絶賛から口ごもったような肯定までが並ぶが、しかしそのあらかじめ批判する自由のない作品のあり方は文学としての自殺ではないか。
 戦後文学もまた戦前の日本を否定し「戦争の犠牲者の側に立つ」正しいふるまいのなかで書きはじめられたが、そうした政治的な正しさに包まれた作品はどこまで行っても国内的で、政治的状況が変わればその価値を失うことを忘れないようにしたい。……

 この文章は、表現する者の視座のあり様や当事者性の問題を読み手である私たちに提示するようだ。安易な当事者意識に寄りかかり、一方的に断罪する側の立場から表現することへの懸念といってもよい。だが、こうした視点を、モノゴトを考え、表現するうえでの規範として自らを律し続けることは極めて難しい。
 とりわけ、時の経過とともに歴史性を帯びた表現や人々の行動に対して、現代を生きる我々が自らは何らリスクを負わない安全地帯から正義を振りかざすことにおいて、知らず知らずのうちに生じる欺瞞や偽善というものを私たちはどうしても見逃しがちだ。そのことにもっともっと鋭敏かつ自覚的でなければならない。

 例えば、戦時中に描かれたいわゆる「戦争画」について、私は時おり考え込んでしまうことがあるのだが、戦争を賛美し、戦意を高揚する目的で描かれたとされる作品を、単に戦後的な価値観に基づき断罪することをどう考えればよいのだろう。

 先日、東京芸術劇場ギャラリー2で観た展覧会「池袋モンパルナス~歯ぎしりのユートピア」は小ぶりながら見応えのある展示だったが、その中の「Ⅳ 風刺の態度」コーナーでは、榑松正利が1944年に描いた「旭日旗のボート」と、桂川寛が1967年にベトナム戦争に思いをはせて描いたという「夜」が並べられていて、興味深かった。
 桂川の「夜」は「本当にこれが戦争の絵なのか、きれいすぎる」と言われたそうだが、当然ながらそこには作家の意図が批評として隠れているわけで、いかに批判されようと抗弁できるだけのゆとりを持った立ち位置に作家は立っている。
 それにひきかえ榑松の作品は戦争を描くことに無自覚で、あまりに無防備であるだけに無残だと言うしかない。その無残さを、今の時代において作品を観る私たちはどのように引き受ければよいのか。
 「戦争の犠牲者の側に立つ」正しいふるまいとして、戦争に加担したこれらの作品を批判し、その作者をただ糾弾すればよいのではないことだけは確かだろう。

 さて、こうしたことを考えて来て、最近大きな話題となったあの市長さんの慰安婦問題発言に触れないわけにいかないのだが、それが、わが国を取り巻く歴史認識に勇気を持って異議申し立てを試みるこの人なりの計算に基づいた戦略だったのか、単に無自覚なおバカ発言だったのかが今一つ分からないので何とも言いようがないのである、とまあ、これはお茶を濁すしかないなあ。


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