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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

体重と神経

2020-05-10 | 日記
4月からそれまで所属していた組織を離れ、肩書きも名刺も持たない生活に入ったのだけれど、劇場にも映画館にも美術館にも図書館にも行けないという生活はまったく予期していなかった。
正直途方に暮れる感があり、体重は増えるが神経はやせ細る思いである。こうした機会に積ん読だけだった本に手を伸ばし、読み耽るのも良いのでは、とも思うのだが、哀しいかな、これがなかなか時間はあるようで読書に集中できないのだ。人間は移動する動物なのである。巣ごもり状態では出来ることも出来ないではないかと駄々っ子のように愚痴ってばかりで、時間だけが過ぎていく。
だからという訳ではないのだが、日記を書くことにしようと思う。
心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ、である。
これは私自身のリハビリであり、心の安定剤なのだ。

何日か前に沼田真佑著「影裏」を文庫版(文春文庫)で読んだのだが、その感想をなかなか言葉に出来ないでいる。この作品は表題作が芥川賞を受賞してすぐに出た単行本で読んだのだが、文庫には、芥川賞受賞後に書かれた2篇も収録されていて、併せ読むと作家の描く世界がより深まって感じられる。素晴らしい文章を味わい、再読、三読に値する小説であると思う。

坪内稔典著「正岡子規 言葉と生きる」(岩波新書)を読み始める。
「はじめに」の中に書かれている「…当時の彼(正岡子規)は、明日をもしれない命を自覚しており、食べることが一種の存在証明になっていた。…」という一節に惹かれる。
正岡子規は病を得て自身の命の有限であることを自覚しながら、やるべき事をやり、己の生を生ききった。がんサバイバーである私は、その泣き言もわがままも含めて共感を覚えるのだ。
同書の中で、正岡子規と同年生まれの南方熊楠のエピソードが興味深い。二人はともに子どもの頃から写本または筆写にのめり込んだのだが、熊楠はそれが桁外れなのだ。以下引用。
「小学生の熊楠は友人の家に遊びにゆき、そこにある江戸時代の百科事典『和漢三才図会』を読んだ。暗記して家に戻り。半紙を綴じた帳に書きつけた。図も暗記して書いた。熊楠は三年かけて百五冊のその百科事典を写してしまった。それだけでなく、中国の植物学の事典『本草綱目』五十二巻(二十一冊)も写した。古本屋から借りた『太平記』五十冊も写したし、『諸国名所図会』『節用集』なども写した。熊楠自身の言葉で言えば、『書籍を求めて八、九歳のころより二十町、三十町も走りあるき借覧し、ことごとく記憶し帰り、反古紙に写し出し、くりかえし読みたり』(『履歴書』大正十四年)ということになる。」
その天才ぶりには言葉もないが、まさにこの恐るべき筆写が熊楠の知の基礎になったのだ。
一方、子規の筆写の最たるものは明治二十四年頃から始めた「俳句分類」だが、これは古今の俳句を四季、事物、表現の形式、句調などによって分類したもので、明治二十六年に友人の竹村鍛にあてた手紙によれば、この半紙を綴じて筆写した俳句分類が、積み上げると子規の身長(163センチ)の高さになったという。
現在では考えられないこうした努力を彼らは必要に応じて、しかし楽しみながら日々積み上げていたのだ。

9日(土)午後7時30分からのNHKスペシャル「ふり向かずに 前へ 池江璃花子 19歳」を見る。水泳・池江選手の白血病からの再出発の日々を記録した番組。入院中の過酷な闘病生活や、退院から復帰に向けたリハビリの様子、そして406日ぶりにプールで泳ぐ姿をインタビューを交えて伝えている。
正直、日本新記録を出し続けていた頃と比べてあまりに痩せた姿に痛々しいものを感じたのだが、あくまで前向きに復帰に向けたトレーニングを重ねるその姿勢に心からの感動を覚える。年若い彼女から勇気を与えられた。


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