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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ファミリー・ヒストリー

2020-07-31 | 雑感
 先月下旬から近所の図書館が閲覧も可となってようやく図書館の書棚の間を本の背表紙を眺めながら徘徊するという至福の時間を味わえるようになった。とは言え、滞在は1時間以内という制限付きなのだが…。
 しばらくの間、特に平日の昼時間帯は閲覧席も空席が目立って、図書資料を閲覧するにはもってこいだったのだが、昨日、何日かぶりで足を運んだところ、学校が夏休みに入ったためなのか、学生たちがひしめくように席を埋めて密状態であった。
 こうしてまた居場所がなくなったなあと独りごちたものだが、そうした些末な事とは別に、改めて図書館というものの役割と機能を考えると、素晴らしい公共サービスだとつくづく思う。
 
 以前、公共劇場の整備計画に関わったことがあるのだが、劇場を建てるなどというと、議会でも住民の間にも反対する声というものが少なからずあったものだが、図書館の建設にはほとんどの人が賛成する。
 同じ税金を投入する運営に関しても、劇場に対する視線は冷ややかで、やれ赤字体質だの、やれ経費を削減せよなどと喧しい声が内からも外からも寄せられるのだが、図書館の運営に関しては、蔵書が少ないとか、もっとサービスを充実して欲しいという声はあるけれど、赤字経営などといった批判はあまり聞かないようだ。
 もっとも行政の立場はなかなか厄介なもので、あちらこちらの公共図書館で指定管理者制度に基づく民間事業者への業務委託が進んでいる状況をみると、そう安穏としていられない事情もあるのだろう。
 一方、博物館や郷土歴史資料館といった施設はどういった状況なのだろう。
 都道府県が設置した施設はともあれ、区市町村立の比較的小規模な博物館や資料館はなかなか厳しい経営環境にあるのではないだろうか。
 どうしても見るからに地味な存在であるからか、打ち上げ花火を好むような派手好みの為政者からは片隅に追いやられがちであるようだ。

 さて、私はNHKの「ファミリー・ヒストリー」という番組をたまに見るのだが、その調査力のすごさにはいつも感心してしまう。その日のゲストの父母双方の何代も前の祖先からの足取りを辿り、その苦難の道のりや現在に至る偶然とも奇跡ともいうべき出会いの数々が感動を呼ぶのだが、そこで大活躍するのが各地域の公文書館や歴史資料館なのである。
 よくこんな文書を保管してあったと感嘆しきりである。歴史を跡付け、証言するものとして公文書の重要性は言うまでもないのだが、それを残すのは私たちこの時代に生きる者の義務であるということを心の底から感じる。
 もちろん古文書のすべてが信用できるわけではなく、改ざんされた偽文書やまがい物も数多く出回っていたりするのだろうが、時の篩いにかけられながら受け継がれてきたそれらの記録は、私たちすべての人間共有の記憶として、極めて貴重な財産なのである。

 今から数十年後の未来に現在の時代を振り返った時、あの頃はまともな文書が保存されていない時代であり、改ざんや隠ぺいが横行した時代だとして後世の人々から冷笑とともに一括りにされることがないよう願うばかりである。


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