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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

伝えること 伝わること

2009-06-23 | 雑感
 16日付の毎日新聞夕刊コラムに劇作家・演出家の佐藤信氏が次のように書いている。
 「通りがかりの人の足をとめる。足をとめた人に、一定時間、芸を見つづけさせる。最後に、拍手とともに、足元に置いた帽子の中に、なにがしかのお金を入れてもらう。
 大道芸と呼ばれる路上パフォーマンスは、この三つの構成要素から成り立っている。というか、演劇をはじめ、すべてのライブパフォーマンスもまた、煎じつめれば、この三要素に行きつくのは間違いない。」

 あらゆる商売もまたそうした三要素によって成り立っている。行き交う客の足を引きとめ、商品を手にとってもらい、いくばくかの金銭と交換に受け取ってもらうということ。
 極めて単純なことが、しかし、いかに難しいか。

 ある人にとってはとても大切なものが、ある人にとってはまったく関心の埒外にある。あげく、特定の人間の独りよがりなものでしかないなどと揶揄される。「表現」という行為は常にそうした評価にさらされる宿命を背負った、ある種の戦いなのだ。であればこそ勝たなければならないのだが、そのための戦略を描くのはなかなか容易ではない。

 先日、十二代目結城孫三郎さんの話を聞く機会があった。結城座は江戸時代の寛永2年(1635年)に初代結城孫三郎が旗揚げして以来、370年を超える歴史を持つ糸あやつり人形劇団である。
 江戸幕府公認の五座の中で、現在「座」として存続するのは結城座だけだという。
 存続もまた戦いである。糸あやつり人形芝居を人に観てもらい、そのことで生計を維持し、座を存続させるということには言葉に尽くせぬ労苦が積み重なっている。
 孫三郎氏は時には酔客の前で演じることもあったようだ。彼らは舞台上の人形になど興味はない。酒に酔い、女の子のお尻を撫でては嬌声を上げることにしか関心はない。
 そんな酔っ払いの目を舞台に向けさせ、ひと時ではあっても芸を見るようにするという工夫の積み重ねが今の結城孫三郎氏に至る結城座の歴史となって連なっているのだ。それはとてつもなく強いものに思える。

 これもまた先日のこと、ある高名な演出家が韓国の劇作家の作品を素材として高校演劇部の生徒たちを指導したドラマ・リーディングの舞台を観た。会場には、友人たちや保護者と思しき大人たちがいてそこそこ賑わっている。
 申し訳ないことに仕事疲れのあった私は半分ほどの時間を眠ってしまったらしい。小一時間のドラマはそれなりの余韻を残して終わった。急いでいた私はすぐに帰りのエレベーターに乗ったのだが、一緒に乗り込んできた数人の女子学生がいた。彼女らの友人が出演していたのだ。
 「あんなことしてて面白いのかなあ」「いいんじゃん。好きでやってんだし」
あとはお喋り・・・。
 がんばれ、と私は心のなかで舞台上の彼らにエールを送る。

 村上春樹の新作長編が発売2週間足らずでミリオンセラーとなったことが大きく報道された。
 表現されたものが伝わるという、そのことに意味としての違いはないはずだが、その質量において彼我の隔たりはあまりに大きい。言葉を失うほどだ。
 何が伝わり、何が受け止められたのだろう。


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