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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

レミーのおいしい批評

2008-12-07 | 言葉
 偶然にせよ、よい言葉に出会うと嬉しくなる。
 たまたまディズニーアニメのブラッド・バード監督作品「レミーのおいしいレストラン」のワンシーンをテレビで観たのだ。紹介するまでもないけれど、これはグルメの都パリにある高級レストラン「グストー」を舞台に繰り広げられる、驚くべき料理の才能を持ち、「シェフになりたい」という叶わぬ夢を抱えたネズミのレミーの物語・・・である。
 物語の最後、登場人物の一人で、シェフがもっとも恐れる料理評論家イゴーが語る言葉が素晴らしい、と思わず書き留めたくなる。脚本が素晴らしいのだ。ちなみにこのイゴーの声はあの名優ピーター・オトゥールとのこと。(以下、記憶による引用)
 「評論家の仕事は総じて楽だ。リスクは少なく、立場は常に有利だ。作家と作品を批評するのだから。そして、辛口の批評は我々にも、読者にも愉快だ。
 だが、評論家は知るべきだ。世の中を広く見渡せば、平凡な作品のほうが、その作品を平凡だと書く評論よりも意味深いのだと。
 だが、我々がリスクを冒す時がある。新しいものを発見し、擁護する時だ。世間は新しい才能に冷淡であるため―――。新人には支持者が必要だ。
 昨夜、私は新しい体験をした。あまりにも意外な者が調理した見事なひと皿。
 それは、よい料理に対する私の先入観への挑戦だった。いや、もっと言おう。心底、私を揺さぶったと。
 誰でもが偉大なシェフになれるわけではない。だが、どこからでも偉大なシェフは誕生する・・・」
 シェフという言葉を役者に置き換えてみたい。あるいは演出家でも、劇作家でもなんでもよいのだが。演劇界にも大先生と呼ばれる権威ある評論家は多い。けれど、これほど率直に語り、真摯に新しい才能を発見し、認めようとする批評家がいるだろうか。
 来たれ、新しい才能。出でよ、真の批評家―――。

 さて、もうひとつ。こちらは6日付けの毎日新聞朝刊のコラムで紹介されていた音楽評論家吉田秀和の言葉。95歳で現役の吉田氏の50代の頃の言葉である。
 「自分が一向に傷つかないような批評は、貧しい精神の批評だといわなければならないのではあるまいか」
 こちらのほうはガツンとくる。こんなふうにネット上に匿名でゆるい言葉を書き続ける自分は一体何なのだろうと・・・。
 せめて、自分なりに精一杯の真面目な言葉を紡ぎたいと願ってはいるのだけれど。

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