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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

エチュード

2009-07-21 | 言葉
 体育館に嬌声が響き渡る。小学生チームとママさんチームに分かれた選手たちがボールを追いかけ、床に身を投げ出しながらレシーブしようとする。元オリンピック選手の中田久美さんや吉原知子さんを招いたバレーボール教室の一コマだ。
 私はスポーツ観戦よりも薄暗い劇場で陰気な芝居を観ているのが好きな性質(たち)だからこれまであまり縁がなかったのだが、身近に見る二人のアスリートの体形は想像を超えた次元でシャープに鍛えられたものだった。
 すでに解説者やコーチに転進した人たちだから、現役ばりばりの全盛期の頃はいかばかりであったかと、その頃のナマの姿を見る機会のなかったことを今更のように悔やんでいた。

 ママさんバレーとバカにしてはいけない。自分がコートに立てば自ずと分かるけれど、相当なレベルにあるのは確かだ。そうした彼女たちを軽くあしらう元オリンピアンの技術と体力は想像の埒外にあると言っても過言ではない。
 芸術的プレーという表現があるけれど、それはまさにそうした高いレベルの技量を持った選手たちが真剣に競い合う一瞬に奇跡のように現れるアートのようなものなのだろう。

 小学生たちの一見単調な繰り返しの反復練習を見ながら、こうした長い時間の積み重なりの結果として常人を超えた身体的特徴が顕現するのかと考えていた。

 さて、辻井伸行氏にお会いしたことは先日も書いたが、その時、一日の練習時間はどれくらいですかと訊ねてみた。
 単純に一流のピアニストになるためにはどれくらい長時間の練習を重ねているのか聞きたかっただけなのだ。
 ところが、伸行氏もお母様のいつ子さんも少しばかりきまり悪そうにもじもじしていて、ようやく「最近は学校もあるのであまり練習をしていない。コンクールの前は8時間くらい。今は一日3時間くらいかなあ」と答えてくださった。
 素人の私にはなるほどさもありなん、さすがと思うほどの練習時間なのだったが、実はこの時間数はピアニストとしては決して長いほうではないのだそうである。
 あとで知ったのだが、伸行氏はあまり長時間練習するタイプではなく、むしろ短時間集中型なのであるらしい。もしかしたら、元来、長い時間練習するのはあまり好きではないのかも知れない。

 辻井いつ子さんの著書「のぶカンタービレ!」の中に私の好きなエピソードがある。
 伸行氏が14歳の頃、横山幸雄氏をはじめとする一流ピアニストによる集中レッスンを受けるためにイタリア・サルディニ島に行った時のことだ。
 地中海のリゾート地と思い込んでいた夢とは異なり、そこは海から遠い殺風景な工場地帯。部屋のシャワーは小さくお湯も出ないしベッドも小さい。おまけにセミナー会場はエアコンもなく、朝早く行かないと練習用ピアノも確保できないような有り様。
 すっかりいじけた伸行氏が横山先生に相談したところ、
 「・・・僕の部屋の隣にアップライトのピアノがあるからそこで練習すればって涼しい顔でいわれたんです。(中略)でも調律はひどいしエアコンはないし、こんなところで練習なんかできないなと思っていたら、また横山先生に「ヨーロッパではこんなの普通だよ」ってかるーくいわれちゃって。
 (中略)やる気が出ないななんて思っていたら、突然隣の部屋から横山先生のものすごい演奏が聴こえてきたんです。ショパンのエチュードを1番からずーっと何時間も弾いていました。最初は暑いのにこんなところでよく練習できるなと思っていたんですが、先生は4時間も弾きっぱなしなのです。それを聴いていたら、まずいな、僕もやらなくちゃと思って、そこからは僕も練習に打ち込めるようになりました」

 劣悪な環境だと嘆いているばかりでは何も解決しない。
 自分ではどうにもできない環境をあるがままに受け入れ、自分のやるべきことに集中すること。
 その大切さを教えてくれる素敵なエピソードである。


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