ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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チャップリン・デー

2023-04-16 20:24:54 | 日記



4月16日は、「チャップリン・デー」ということです。

1889年のこの日、喜劇王チャップリンがが生まれたということで……

チャップリンといえば……私としては、Smile を思い出します。
映画『モダン・タイムズ』のためにチャップリンが作った曲で、後に歌詞がつけられて歌になりました。
この曲に関しては、過去にいくつかのバージョンをこのブログで紹介しましたが、この歌のカバーはいくつも存在しています。今回は、それらの動画を集めてスマイル祭りといきましょう。


以前、ナット・キング・コールのバージョンを紹介しましたが、娘のナタリー・コールも歌っています。

Smile


前にこの歌を紹介した際に、カバーバージョンとして大物男性アーティスト3人の名を挙げました。その全員、動画があったので、以下に載せていきます。

まずは、エリック・クラプトンのライヴバージョン。

Smile


次に、マイケル・ジャクソン。
英国のダイアナ妃を追悼して歌ったというエピソードがあります。

Smile


スティーヴィー・ワンダー。
マイケル・ジャクソンは大御所の域になってからカバーしましたが、スティーヴィー・ワンダーはキャリアのかなり初期でこの曲をやっています。そのため、声も若々しい。マイケルも、若いころにやっていればこんな感じになっていたでしょう。

Smile



ここからは、女声で。

ジュディ・ガーランドによるエド・サリヴァン・ショーでのパフォーマンス。
モノクロということもあり、これが一番オリジナルのテイストに近いかもしれません。

Judy Garland "Smile" on The Ed Sullivan Show


こんな人もやっているという、スキーター・デイヴィスのバージョン。
チェット・アトキンスがプロデュースしてるんだそうで、何気に豪華な一曲となっています。
終盤せりふ風になっているパートがあるのが、「この世の果てまで」と同じ趣向でくすりとさせられます。

Smile (Theme from "Modern Times")


最後に日本代表として、小野リサさんによるボサノヴァ風カバー。
こういう雰囲気でもいける曲ですね。

Smile



映画『カイジ ファイナルゲーム』

2023-04-14 19:16:40 | 映画

映画『カイジ ファイナルゲーム』を観ました。

カイジ実写映画のシリーズ最終作です。
たまたまアマプラで見つけたので、視聴してみました。

映画『カイジ ファイナルゲーム』予告

舞台は、財政危機が深刻化してハイパーインフレ状態の日本。
このあたり、漫画を実写化する映画がよくやる「攻めすぎてる特殊設定」のように思えますが、しかし、日本の未来をいくらか大げさにして暗示したものともいえるでしょう。

そこに、カイジが登場します。

例によっていくつかのゲームが出てきますが、メインとなるのは「最後の審判」でしょう。対ディーラー型ではない種目ですが、感覚としては「沼」に近いものがあります。それだけ、対戦相手が強力だということです。そこを、沼でやったように、あれこれ策を弄していくわけです。

対戦相手は、政界にも影響力を持つ派遣会社社長。このあたりも、現実の日本社会を意識している部分があるでしょう。圧倒的な力を持つ相手に、底辺でもがく根無し草たちが立ち向っていく……まさに、「沼」の構図です。
その他にもいくつかゲームが出てきますが、いずれもロジックとトリックが冴えます。カイジ役に藤原竜也さんというのは賛否を呼んだところでしょうが、あの“爆発する演技”も、クライマックスのカイジ感に合っていたのではないでしょうか。


ここで、ゲーム以外の要素にも触れておきましょう。

この映画では、国民の資産で国の借金を帳消しにしようという政策が描かれます。
最初に書いたように、この作品に描かれる日本では、財政危機が深刻化しています。そこで、預金封鎖を行ない、国民の資産と国の借金を相殺しようという話が出てきて、これが話の出発点になっています。

このやり方に関しては、議論がわかれるところでしょう。いわゆるMMT論者なら、猛反対するところです。
私の個人的見解としては、国の借金を野放図に拡大させていけば、やはりどこかでツケを払わされることにはなるだろうと思ってます。それがこの映画で描かれるようなかたちであるかどうかはともかくとして……
真の問題は、この映画でも示されているような、派遣業に代表される縮小・切り詰め経済でしょう。経済全体が縮小のスパイラルを作っている状態では、借金の負担は重くなっていくばかりなのです。作中で語られる福祉負担の問題なんかは、福祉の縮小、弱者切り捨てというのは、広い意味で縮小・切り詰めの一環であり、倫理を抜きにして純粋に経済問題としてみても根本的な解決にはならないと私は考えています。そこは問題の本質ではないし、それをやったところで一時しのぎにすぎず、長期的にはむしろ財政問題もより深刻になるのではないかと。先日、日本の人口が大幅減というニュースがありましたが、縮小のスパイラルはもうそういうところにまで波及してきているわけです。
背後にある構造、真の敵を見抜け、というのは、カイジ作品の重要な主題でしょう。
まさに、この国の民に必要とされているのは、そういうクレバーさではないでしょうか。細い鉄板の上で互いを蹴落としあったりしている場合ではないのです。



ウルトラマンタロウ50周年

2023-04-12 21:04:21 | 日記


先日「帰ってきたウルトラマン」について書きました。

たまたまその直後、インターネットで、ウルトラマンタロウが今年で50周年だという記事を見つけました。
そういえば、そうだなあ……ということで、今回はウルトラマンタロウについて記事を書こうと思います。実は私、ちょっと機会があり、タロウは全話観ているのです。

(※以下、記事中で『ウルトラマンタロウ』最終話をふくむいくつかのエピソードの内容に言及しています。未試聴の方はご注意ください)

ウルトラマンタロウは、ウルトラマンシリーズ第二期の3作目として制作されました。
今年で50周年ということなので、放送開始は1973年。
ゴジラシリーズが1960年代末ぐらいから迷走しつつあったということをこのブログでは書いてきましたが、ウルトラシリーズのほうも、やはり時代の変化にアジャストしようとしてうまくいかないというふうになった部分はあると思います。そして、タロウがその分岐点にあたるということは、多くの人が認めるんじゃないでしょうか。

旧来のファンを困惑させたのは、コミカル要素の強さです。
もちろんユーモアの要素はそれまでにもありましたが、その枠を超えてくるのです。たとえていえば、ゴジラが「シェー」をやるといったような……
それが、ゴジラシリーズの迷走・低迷を暗示するものであったように、タロウでも、コミカル路線は賛否を呼びました。
それまで真面目路線でやっていた俳優が「お笑いが人気の時代だから」といって芸人になろうとするようなものです。普通に考えて、うまくいくはずがないのです。

ただ、タロウでは結構コミカル方向に振り切ったような回もあって……
たとえば、第48話「怪獣ひなまつり」。ここまで振り切れば面白い、と私としては思ってます。

そうかと思えば、タロウには、意外とシリアスな一面もあります。

先述したネットの記事では、キングトータスなどが登場する第4、5話をその例として挙げていましたが……実は、このエピソードには後日談があります。
第38話、「ウルトラのクリスマスツリー」です。
このエピソードでは、ウルトラマンタロウとトータス親子の戦いで家族を亡くした少女が登場します。
もとの話では、人間のエゴに怒り狂った大亀怪獣が襲来。そもそも人間が悪いということで、大亀怪獣は命を救われるという話。しかし、そんな戦いで人間側の死者が出ている……そういうところに目をむけるという着眼点が、歴代シリーズの中でもとりわけ深かったと思えます。

そして、その果てに最終回があります。

タロウは、新マンと同様に、一人の少年との交流が描かれますが、最終回では、この少年の父親が怪獣によって殺されてしまいます。

ここで、自暴自棄に陥る少年に対して、東光太郎は自分がウルトラマンタロウだと明かします。
そして、ウルトラマンに変身せず、人間の肉体のままで最後の敵と戦い、勝利するのです。
そんな無茶な、という話ではありますが、これがやはりウルトラシリーズ最終回のメッセージなのです。ウルトラマンは、もういなくなる。これからは、自分の力で戦い、強く生きていかなければならない……そのことを、自らの姿で示したのです。

こういうメッセージがあるので、子どもたちがウルトラマンを見るときは、きちんと最終回まで見てほしいのです。そうでないと、「困ったときはウルトラマンがきて何とかしてくれる」というだけの話で終わってしまうので……
新マンの記事でも書きましたが、ウルトラマンはいつかはいなくなる、これから自分の力で戦っていかなければならない、というところまで込みでのウルトラマンだと思います。そしてタロウは、少年の自立というテーマをもっとも力強く描いた作品の一つといえるのではないでしょうか。



フォークの日2023

2023-04-09 16:13:38 | 日記


今日4月9日は、“フォークの日”です。

去年は、ウクライナ戦争勃発直後ということで、反戦フォーク的な歌を多く紹介しました。
それから一年経っても、まだ戦争の終結は見えず……ということで、今年も同趣向の記事を投稿します。


森山良子さんの「坊や大きくならないで」。
ベトナム戦争を題材にしたもので、ベトナムの詩人が書いた詩がもとになっています。マイケルズというグループのバージョンが有名ですが、森山良子さんも歌っています。

坊や大きくならないで

この歌のメッセージは、以前紹介した「愛する人に歌わせないで」という歌の反語的表現に通ずるものがあるでしょう。
大きくなれば、兵士として戦争に行かなければならない、だから大きくならないで、という……
森山良子さんは必ずしも反戦フォークというような方向性の人ではありませんが、「さとうきび畑」なかもあるわけで、やはりそういう歌を歌う、歌わなければならない、という部分がどこかにあるのだと思われます。


以前紹介した岡林信康「私たちの望むものは」。
松山千春さんによるカバーで。

私たちの望むものは

 私たちの望むものは あなたを殺すことではなく
 私たちの望むものは あなたと生きることなのだ

まさに、いま必要とされているメッセージでしょう。
この歌には、次のような歌詞もあります。

 私たちの望むものは 社会のための私ではなく
 私たちの望むものは 私たちのための社会なのだ
 私たちの望むものは 与えられることではなく
 私たちの望むものは 奪い取ることなのだ

この歌詞に共感できるかというところが、一つ大きなことなんではないかと思います。ここに共感できないという人が多数だと、ロシアみたいになってしまうのではないかと……
また、松山さんのバージョンではカットされていますが、オリジナルには次のような歌詞もあります。

 私たちの望むものは 決して私たちではなく
 私たちの望むものは 私であり続けることなのだ

この感覚は、ロシアにも、日本にも欠如していることだと思われるのです。


マルビナ・レイノルズのBitter Rain。
これを日本語カバーにした高石ともやさんの「冷たい雨」という歌を以前紹介しましたが、その本人バージョンを。

Bitter Rain

私は豊かな世界に住み、自分の身を守ることができる。
だけど、どこかで、子どもたちが冷たい雨に打たれている……


武田鉄矢「雲がゆくのは」。
以前は、ドラえもん大長編といえば武田鉄矢さんでした。この歌は、『ドラえもん のび太と雲の王国』のテーマ曲。歌の内容は、先ほどの「冷たい雨」に通ずるものがあるんじゃないでしょうか。最後のほうには、ダイレクトに「冷たい雨」という言葉が出てきます。

Kumoga Yukunowa


武田鉄矢さんといえば、最近は頑固おやじ的発言が顰蹙を買うことも多いようですが……まあ、よくも悪くも昔かたぎということなんでしょう。


さだまさし「防人の詩」。
去年は、ウクライナ出身のナターシャ・グジーさんによるカバーを紹介しましたが、ここでは本人バージョンを。
この歌は、奇しくも日露戦争を題材にした映画『二百三高地』の主題歌でした。

防人の詩/さだまさし(3333 in 武道館)

昔かたぎで顰蹙を買うという点では、さだまさしさんも結構そういうふうになってきているかもしれません。「関白宣言」なんかは、現代の価値観だともうアウトということになってくるでしょう。まあ、時代の流れというところですが……それでも不易のメッセージというものもあるのではないかと。


加川良「教訓Ⅰ」。
21世紀におけるフォークの継承者とも目されるハンバート ハンバートによるカバーで。

教訓1

この歌の歌詞も、露宇戦争で深く考えさせられるところです。
青くなって尻込みなさい、逃げなさい、隠れなさい……というメッセージは、はたして侵略戦争という状況において妥当なのか、と。
難しい問題ですが、少なくともロシア兵に対してはストレートなメッセージになると思います。お国のためときれいごとを並べられても、命のスペアはありませんよ……



鉄腕アトム、二十歳を迎える

2023-04-07 21:28:22 | 日記


鉄腕アトムが二十歳を迎えました。

どういうことかというと、手塚治虫先生の漫画・アニメ『鉄腕アトム』において、設定上アトムは2003年4月7日に生まれたということになっています。つまり、生まれていれば本日で20歳となるわけなのです。

だからといって何がどうということでもないんですが……このブログでは、手塚先生や鉄腕アトムについて何度か書いてきたので、アトムの成人を祝っておこうかと。


アトムを代表作といわれることを手塚先生は好まなかったともいわれます。
「アトム」とか「ウラン」といった主要人物の名が放射性物質からとられていて、原発に象徴される科学技術への楽観的姿勢に対する自省……みたいなことがあるんじゃないかとも指摘されます。
しかし、私はもっと複雑なものがあったんではないかとも思ってます。
鉄腕アトムというものの存在があまりにも大きくなりすぎて、自身の作品世界に制約をもたらすようになっていたということがあるんではないかと。
アトムの後継作品として『ジェッターマルス』というのがあるんですが、この作品はそのあたりのことをよく表しているように思えます。
ジェッターマルスはアトムに続くシリーズ第二作のような位置づけなんですが、第二作といわれても、シリーズ第一作の存在感があまりにも大きすぎるわけです。一作目が大ヒットしたシリーズは二作目以降やりづらくなるというのが一般即としてあると思いますが、そのきわめて極端な例ともいえるでしょう。その二作目を制作するにあたって、主人公のキャラデザを手塚先生自ら手掛けておられ、いくつもデザイン案が残されているんですが……結局、できあがったジェッターマルスは、アトムとまったく同じ顔でした。
参考までに、その動画を載せておきましょう。Youtubeに飛ばないと視聴できないようですが……

【公式】ジェッターマルス 第1話「2015年マルス誕生」 <1970年代アニメ>

しかも、声まで同じ(清水マリ)。このあたりに、アトムというものがある種の呪縛のようになっていたことがうかがえるのです。呪縛というとちょっと言葉が悪いですが、鉄腕アトムというものが手塚治虫の漫画世界の中に巨大な存在としてあって、常にその影を意識しなければならない、手塚先生は、そこにある種の窮屈さを感じていたのではないかと思えるのです。それが、アトムに対する複雑な気持ちにつながっていたのではないでしょうか。

しかしながら、手塚先生の思いがどうであったにせよ、鉄腕アトムが日本の漫画・アニメ史上に燦然と輝く名作であることはたしかでしょう。
2003年にアトムは生まれませんでしたが、昨今のAI技術の発達などを見ていると、あと半世紀内ぐらいにひょっとしたら誕生できるかもしれません。そんな未来を夢見ながら、アトムの二十歳を祝いたいと思います。