ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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ジョニーは戦場へ行った……“戦場”はどこにある?

2018-04-10 17:44:07 | 音楽批評
先日、江戸川乱歩の「芋虫」についての記事を書いたところ、コメントをいただきました。

類似した話として、『ジョニーは戦場へ行った』はどうか、という内容でした。

当該コメントへの返信でも書いた通り、私は恥ずかしながらこの作品を読んでおりません。
そのため、なにもいうことができないのでした……

しかしここで……無理やりロック的な方向に引きつけてみましょう。なにしろこのブログはロック探偵を看板にしてますからね。

登場するのは、このブログではたびたび名前が出てくるクラッシュです。

彼らの歌に English Civil War というのがあります。
邦題は、英語タイトルをそのままカタカナ表記したあとに、カッコ書きで(英国内乱)となっています。セカンドアルバム GIVE 'EM ENOUGH ROPE(邦題は『動乱(獣を野に放て)』) に収録されている曲です。



なぜこれがつながってくるかというと……実はこの歌、アメリカ南北戦争期の軍歌「ジョニーは戦場へ行った」をもとにしているんです。

南北戦争期に歌われていた歌というのは、その後ずっと歌い継がれているものが結構あります。たとえば以前このブログで紹介した共和国賛歌もその一つですね。
「ジョニーは戦場へ行った」も、そうした曲の一つ。共和国賛歌と同様に、メロディは非常に有名で、映画『博士の異常な愛情』など、多くの映画で使われていることでも知られます。ダダダダッダ、ダッダダッダ、ダーッダダー……というあれです。クラッシュの English Civil War は、これをパンク風にアレンジしたものなのです。
ただし、パッと聴いただけでは非常にわかりにくい。私の場合、初めて聞いたときから十年ぐらいかかってようやく気付きました。(さすがに鈍すぎか?)

元の曲は、共和国賛歌に比べると、いかにも“軍歌”という感じがしますね。
そのメロディーにジョー・ストラマーがつけた歌詞は、こんなふうにはじまります。

  ジョニーがまた家に帰ってくる
  バスか地下鉄でやってくる

ジョー・ストラマーは、イギリスで極右団体が伸長している状況に警鐘を鳴らす意味でこの歌を作ったそうです。
本当の脅威は、外国のことよりもむしろ国内で極右団体が台頭してくることなんじゃないか……そういう問題意識が、内乱を題材にした歌をもとにした背景にあるのでしょう。
問題は、国内にある。ジョニーは、そう遠く(国外)へは行っていない。だから、バスか地下鉄で帰ってくる、ということです。
小耳にはさんだところでは、ジョー・ストラマーの兄も、右翼団体の一つであるナショナルフロントに参加していたそうですが、そういう事情であればこそ、危機感もひとしおだったのだと思われます。

先日の記事では“反戦”というメッセージについて書きましたが、いま日本国内を見てみた時に、やっぱり本当の問題はそこじゃないのかもしれません。

あからさまな自民族優先主義や、排他的思想を鼓吹するような団体が闊歩している。そういう主張が公共の場で堂々と語られる。自分の身近にも、そういう人がいる……この状況が本当に問題なんじゃないのか。
「ジョニーは戦場へ行った」というタイトルから、私はそんなことを考えました。



《追記》
ただし、件の歌と小説は、邦題が一緒というだけで原題は違います。
歌の「ジョニーは戦場へ行った」は、When Johnny Comes Marching Home で、小説のほうは Johnny Got His Gun。私も今回調べてはじめて知りましたが、日本でも邦訳が出た当初は『ジョニーは銃をとった』という原題に忠実な邦題になっていたものの、映画のほうで『ジョニーは戦場へ行った』の邦題がつけられ、そっちがメジャーになったということのようです。

江戸川乱歩「芋虫」

2018-04-08 17:06:55 | 小説
今回は、小説レビューです。
テーマは、おそれおおくも江戸川乱歩。
以前、横溝正史について書いたので、その流れで、横溝にとって友人でありライバルでもあった乱歩御大についても書こうというわけです。

紹介するのは、「芋虫」という短編です。

 

以下、この作品が発表されるまでの経緯を簡単に書いておきましょう。

江戸川乱歩は大正末から昭和にかけて、『一寸法師』という作品を書いていました。
この作品は、世間的にはなかなか評判がよかったようですが、乱歩自身にとっては非常に納得のいかないものでした。この作品のことで自己嫌悪に陥った乱歩は、執筆活動をいったん休止し、放浪の旅に出ます。
そうして一年半が経った頃のことです。
『改造』という雑誌から依頼を受けて、乱歩は新作を書き始めました。しかしながらこの作品が、書いているうちにページ数がふくれあがり、以来枚数の4倍にもなってしまいます。そこで、『新青年』というべつの雑誌にまわすことに。
こうして発表されたのが、「陰獣」です。
そのとき、『新青年』の編集長をやっていたのが、横溝正史でした。横溝はこの作品をたいへん高く評価し、彼がプッシュしたこともあって、「陰獣」は大ヒットしました。

ちなみに、休筆の時期に横溝はたびたび乱歩に復帰を働きかけていたそうで、根負けした乱歩も一度作品を書いています。その作品は失敗作としていったん破棄されましたが、その後、それをもとにした別作品として『新青年』に発表されました。これが、“幻想文学の傑作”と評される「押絵と旅する男」です。

さて……「陰獣」と同様、『改造』の依頼で書いたものの結局は『新青年』に掲載することになったもう一つの作品があります。

それが、「芋虫」です。

「芋虫」は、乱歩の代表作の一つといっていいでしょう。
読んだことがあるかどうかは別としても、中身について知っている人は結構多いんじゃないでしょうか。戦地での負傷によって手足を失って帰国した男と、その妻との生活を描いた作品です。いかにも乱歩らしい奇怪なモチーフで、好きと嫌いとにかかわらず、読者にいいしれぬ印象を残すことはまず請け合いでしょう。

昭和4年にこの作品が発表されると、その内容が“反戦的”とみられたことで、左派系の人たちから評価を得たようです。これからもこういう反戦的な作品を書けといったような手紙が、乱歩のもとに何通も届いたということです。

乱歩自身は、この作品のイデオロギー性を明確に否定しています。
いわく、「この作品は極端な苦痛と、快楽と、惨劇とを書こうとしたもので、人間にひそむ獣性のみにくさと、怖さと、物のあわれともいうべきものが主題で」あり、「反戦的な事件を取り入れたのは、偶然それが最もこの悲惨を語るのに好都合な材料だったからにすぎない」。

しかし、多くの読者は、いやおうなしにそこに“反・戦争”をかぎとらずにいられないでしょう。(イデオロギー臭を避けるために、あえて“反戦”という言葉を使わずに“反・戦争”といっておきます)

“芋虫”と表現される須永中尉は、その武勲によって勲章を授けられ、はじめは名誉、名誉と騒がれていました。しかし、一時の興奮が冷めると、世間は見向きもしなくなり、縁者たちも、その芋虫のような姿を気味悪がって近寄らなくなります。そうして、世間から隔絶された暮らしをしていた夫妻に、悲劇が訪れる……「芋虫」は、そういう話です。

これはやはり、たとえ本人のそんな意図がなかったとしても、戦争のもつ非人間性を告発しているように読めるわけです。
先ほどの乱歩自身の言ですが、「人間にひそむ獣性のみにくさと、怖さ」を描くために戦争を題材にしたというのなら、それはもう立派な“反戦”ストーリーでしょう。

私は、江戸川乱歩という人は本質的に戦争というものと相いれない人だと思うんですね。

彼は、“ストレート”ではありません。

窃視趣味や、自意識の過剰、倒錯的傾向……およそ、戦争というものが求める豪胆や勇壮といったこととは正反対にあるのです。そしてそれゆに、イデオロギーといったこととは無関係に、戦争への反対者とならざるをえないのです。

乱歩作品の多くが戦時中にはそのまま発表できなくなっていたという事実が、そのことを物語っています。
乱歩の作品の多くは、戦時中は「一部削除」というかたちになっており、そして、「芋虫」にいたっては、全文発売禁止となっていました。
はじめのほうに、この作品は『改造』の依頼で書いたものの『新青年』に掲載された……と書きましたがそれも、この作品が“反・戦争”性を色濃く備えていたためです。
『改造』という雑誌は、当時“その筋の人たち”からにらまれていたそうで、その状況でこの作品を掲載することはとでもできないというので、乱歩に原稿を突っ返したのです。娯楽雑誌ならばそういう心配はあまりしなくてもいい……ということで『新青年』に発表されたわけですが、それでもタイトルを「悪夢」とあらため、中身のかなりの部分を伏字にするという“配慮”がなされました。それが、太平洋戦争というところにいたって、とうとう全文発売禁止となったのです。
これも、江戸川乱歩という作家が本質的に持つ“反・戦争”のゆえであろうと思います。
本人の意図がどうであろうと、乱歩作品は、軍事優先のマッチョ国家が国民に求める“道徳”を根本から否定する危険な書なのです。そして……だからこそ、私は乱歩が大好きなのです。

森友問題に、新たに口裏あわせ疑惑

2018-04-06 22:37:44 | 時事
森友問題で、新たな疑惑が浮上しています。
財務省側が、森友学園に口裏あわせを持ちかけていたというのです。

その内容は「トラックを何千台も使ったことにしてほしい」というもの。
当時国会では、8億円も値引きするだけのごみがあったのならトラック何千台ぶんにもなったはずということが指摘されていて、つじつまをあわせるために嘘を上塗りしようとしていたのではないかという疑いが出てきています。

この件は、まだ事実かどうかわかりませんが……もし事実とすれば「あとからつじつまをあわせる」という、リスク管理における最悪の失敗例といえるでしょう。

何か問題が起きたときに、その時点で表に出していれば軽いダメージですむものを、隠しとおそう、しらを切りとおそうとして、そのせいで、発覚したときのダメージを無駄に大きくする……というやつですね。

ふつう、乗っている船に欠陥がみつかったら、一度止めて点検修理するべきでしょう。
ところがこの国では、それをなんとか隠そうとするわけです。とにかく隠しておいて、航海が終わるまで無事でいてくれと祈る。結局、実際に事故が起きるまでなんの対策もとられない……社会のあらゆるところに、この構図がひそんでいるように思えます。

前にも書いたことですが、この日本的無責任をなんとかしないといけません。

そうしないと、日本という船がまたいつ転覆してしまってもおかしくないでしょう。

自衛隊イラク日報問題

2018-04-04 19:21:55 | 時事
イラクの自衛隊派遣で、政府が「ない」としていた日報が出てくるというニュースがありました。

公文書の扱いが問題になっているさなかです。

先日このブログでは、一つの隠蔽・改ざんの背後には、30件の似たようなケースが隠れているおそれがあると書きましたが……いよいよ、その“ゴキブリの法則”が現実味を帯びてきたというところでしょう。

これだけ大きなゴキブリが表に出てくるんですから、もう冷蔵庫の裏や流しの下なんかは、ゴキブリだらけと思っていいんじゃないでしょうか。

もはや“民主主義の危機”という言い方さえ、「いや、そんなレベルの話じゃないですから」と遠慮してしまいます。民主主義とかどうとかいう以前に、純粋に、一個の組織、集団として、その運営能力が問われる話です。


私は以前、名古屋かどこかで一泊2千円ぐらいの安宿に泊まったことがあります。

そこはもう、なにしろ2000円ですから、清潔さとはほど遠くて、廊下にふつうにゴキブリが歩いていました。
ゴキブリなんてのは、ふつうはもう少し遠慮がちに生きているものだと思うんですが、その旅館では「ゴキブリですけど何か?」とでもいわんばかりに我が物顔に歩いているんです。むしろ、人間のほうが遠慮して歩かないといけない状況でした。

ゴキブリを放置していると、そうなります。

まだなんとかなるうちに、エースコンバットでも、ゴキジェットでも、とにかくあらゆる手段を使ってなんとかしてかないとまずいでしょう。これはもう、右も左もありません。ゴキブリは駆除しないといけないんです。手遅れになってしまう前に……

クラッシュ「白い暴動」(The Clash, White Riot)

2018-04-02 18:33:44 | 音楽批評

今回は、音楽記事です。

 

最近の流れを引き継いで、またパンク系で……

クラッシュの「白い暴動」という歌を紹介します。

 


 

 

 

クラッシュは、セックス・ピストルズと並ぶ伝説的なパンクバンドです。

 

はっきりいってピストルズには政治的な“反権力”というような意味でのメッセージ性はあまりないと思うんですが、クラッシュはそれがかなり前面に出ていますね。このブログでも、歌詞の一部を何度か引用してきました。

 

そんなクラッシュの初期の代表作が、“白い暴動”です。

 

原題は、White Riot

クラッシュのデビューシングルでもあり、彼らのファーストアルバムに収録されています。

 

 

このアルバムは邦題では『白い暴動』となっています(原題は、バンド名をそのままアルバムタイトルにしています)が、それぐらいこの曲がインパクトがあったということなんでしょう。

今回は、彼らのYouTube公式チャンネルから、動画を貼り付けておきましょう。

 

 

「白い暴動」という邦題は完全なる直訳ですが、もう少し意訳すると、「白人の暴動」ということですね。

 

黒人たちは、暴動をいとわない。それに対して、白人たちは学校でものいわぬうすっぺらな人間になることを教えこまれる。お前らだって搾取される側なんだから暴動の一つも起こせよ……ということで、白い暴動なわけです。クラッシュのボーカルであるジョー・ストラマーとベースのポール・シムノンが、ノッティング・ヒルでの暴動に参加し、その経験に触発された作った歌といわれています。

 

暴動とは穏やかではありませんが……まあ、それぐらい怒りを示せということでしょう。

問題の暴動は1976年に起きたもので、そのきっかけになったのは、警察の、黒人による人種差別的な扱い。それに対して、激しい抗議が起こっていました。

 

クラッシュのメンバーは黒人ではありません。

しかし、たとえ当事者でなくとも官憲による不正義には声をあげるべきで、自分にむけられたものでないからといって傍観者でいちゃいけない……そんなメッセージも、「白い暴動」というタイトルには込められているんじゃないかと思います。

 


 

いま日本では、官邸前などでデモが行われています。

 

文書改ざん「民主主義の土台崩れる」 官邸前で抗議デモ(朝日新聞デジタル) 

 

世間の反応を見ていると、どうやら日本では、デモなどの行動に反感を持つ人も少なくないようです。

それは、自己主張がはしたないこととされがちなお国柄のゆえなんでしょう。あるいは、そんなことしたって何にもならないというある種の諦念のようなものなのかもしれません。

しかし……ときには、怒りを示すことも必要だと思うんです。

ものいわぬうすっぺらな人間でいたら、いつまでも搾取され続けるだけですからね。

クラッシュは、こう歌っています。

 

  権力はすべて金持ちの手の中

  臆病で 挑むことさえできずに俺たちが通りを歩いてるあいだに

  それを買う金を持ってる奴だけが権力を握る

  

この歌詞を読んで、遠い異国の話と思えるでしょうか。

なにもアジるわけではありませんが……以前も書いたとおり、怒るべき時には怒っておかないと、際限ない隷従を強いられることになります。

デモぐらいはふつうにやって、参加しないまでも共感を示せる世の中にならないと、いよいよこの国は本当におかしくなっていくばかりだな、と思う今日このごろです。