ロック探偵のMY GENERATION

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『声は届くのか』

2022-11-27 23:24:24 | 日記

昨日のことになりますが、NHKBSのドキュメント『声は届くのか』を観ました。

1969年新宿のフォークゲリラを扱ったドキュメントです。
フォークゲリラというものについては、このブログでこれまで何度か言及してきました。
新宿西口地下“広場”において行なわれていたフォーク集会。しかしやがて、警察権力が介入し、消滅に追い込まれた……「声は届くのか」は、そこにいた人々を描くドキュメントです。



番組に登場していた当事者の一人である大木晴子さんは、“フォークゲリラの歌姫”と呼ばれた方です。

この方はツイッターをやっておられて、私は一度ツイッター上でやりとりをしたことがあります。
その際に、フォークゲリラを扱った映画『’69春~秋 地下広場』を紹介していただきました。今回のドキュメントでは、その「地下広場」の映像が多く使われていたようです。

そこで描かれているように、「反戦フォーク集会」では、集まった人たちが議論を交わすという光景がみられました。
歌も歌うんですが、それがひととおり終わると自然発生的にそういうふうになっていたようです。
映画では、これを古代ギリシャの広場「アゴラ」になぞらえ、草の根的な民主主義の萌芽というふうに描いています。

しかし、先述したように、その集会は長くは続きませんでした。

集会の規模がふくれあがっていくと、警察がここに介入してきます。しかし、その介入が反発を招き、むしろ集会の規模はさらに拡大し、警察と対立するようになってきます。そして最終的には機動隊との衝突となり、フォークゲリラは消滅するのでした。地下広場は地下“通路”とされ、大人数の警官が“警備”にあたるように。彼らが「立ち止まらないでください、歩いてください」と呼びかける姿は、どこかディストピア感も漂っています。


フォークゲリラは、戦後日本においてどういう意味があったのか。

そこで語られていることの中身には賛否あるでしょうが……その空間に形成されていた広場自体には、意味があったと私は思います。見ず知らずの人が、そこで社会問題について意見を交わすというそういう空間……
しかし、その広場を育んでいくことを許さないこの国の風土があった。

それは、取り締まる側の問題というだけのことではなく、発信していく側がその先の展望を示せなかったこと、そして、やはり“世間”……

フォークゲリラに対して批判的な意見をぶつける人たちも、「地下広場」には登場します。
「アジアの国々が共産主義の脅威にさらされている」としてベトナム戦争を肯定するサラリーマン風の男、「やるのは今のうちだけだよ、所帯でももってみなさい、子どもいればね、また考えも違ってくる」と冷笑を浴びせるおじさん。学生運動によって一般市民が迷惑をこうむると指摘する男性……
迷惑という点に関しては、この男性が例として挙げている火炎瓶、投石などの過激な行為はたしかに問題があったかもしれません。しかし、フォークゲリラはそうした行動とは一線を画していました。
 フォークゲリラは、源流の一つに小田実のべ平連があり、「花束デモ」という行動があり、そういうところからでてきた運動でした。
 「花束デモ」というのは、正式には「絶対にジグザクデモをせず、交通を妨害せず、商店に迷惑をかけず、2列になり、花束を持って、ベトナム戦争反対・米軍タンク車通過反対を訴えるデモ」といいい、その長い名前どおりの内容です。大木さんがはじめて新宿西口広場で歌ったのは、この集会においてだったといいます。これが1968年末のことで、そのおよそ2か月後に新宿西口で最初の反戦フォーク集会が行われるわけです。そういう経緯で生まれた集会だったからこそ、ゲバルトとは一線を画した広場性を持ちえたのではないでしょうか。
 しかし、そこへ、やがて全共闘くずれの過激派が入り込んでくる。警察が介入してくる。双方の対立が激化して衝突にいたる……ということになってしまいます。ひっそりと咲きかけた花が、土足で踏みにじられてしまったという印象です。
 素朴な問題提起が道行く人々の共感を呼んだのに、そこに入り込んできた賛否双方の過激派がなぐりあいをはじめて収拾がつかなくなる――これは、よく考えてみればツイッターなんかでしばしば目にする光景です。結局のところ、半世紀がたってもこの国では広場を育てることができていなかったのだな、と思わされます。その果てにあるのが、いまの惨憺たる政治状況ということなんじゃないでしょうか。