What’s ノーマリゼーション?

福祉について考えるUMEMOTOのブログ

性善説か性悪説か?

2005-08-03 09:14:40 | 教育について
義務教育の場ば大きく変わろうとしている。7月30日文部科学省は、公立小中学校が自らの裁量で学級編成を行えるように制度を改正する方針を固めた。
これにより、個々の学校が、学年ごとに学級の人数を変えたり、不登校対応に専念する教員を置いたりするなど、さまざまな問題を抱える実情に合わせて対応できるようになる。
これまで、都道府県が県一律の学級定数を決め、市町村が学級編成をおこなっていたのに対し、今回の改正案では市町村が学級定数を決め、各学校で学級編成をおこなえるようになる。
つまり、権限委譲であり、分権の流れにのった対応といえる。今までの大きな枠組みでは対応しきれない問題が増えてきたことの表れでもあろう。

それに対し、義務教育費においては分権の方向性は未だみえてこない。昨年より全国知事会などの地方団体は、国と地方の税財源を見直す「三位一体改革」の一環として、義務教育費の国庫負担を廃止し、税源と一緒に痴呆に移してほしいと求めてきた。金銭面での分権も進めようということである。
しかし、これまで国庫負担があるからこそ大きな顔をしてこれた国にとっては、税源を委譲することは、自分たちの発言権を失うとして反対をしている。国の言い分としては、これまで国が教育に責任をもってきたことで、世界でもトップクラスの教育水準を確保できたということがある。これまでの国のかかわりをすべて否定するつもりもないし、確かに全国一律の教育を提供してきたことの意義はあっただろう。しかし、その体制に限界がみえてきてたことも明らかである。

そんな中、全国知事会の意見に反して、国庫負担の継続を求める声がある。その代表が東京都の石原慎太郎知事と長野県の田中康夫知事である。田中知事が言うには、税源を委譲したところで、その税金がきちんと目的通りに使われる保障はない、というのである。今までの自治体のずさんな財政運営を批判しており、知事の発言としてはいささか過激だが、これまで長野県において、真剣に県議や県職員と向き合い、ぶつかり合ってきた田中知事だからこその言葉でもある。
税源を委譲することは聞こえはいいが、それがすぐに分権につながるほど今の役所の体制はできていない、といういわば性悪説である。きちんと国が責任をもっていくべきだ、と。

しかし、そんなことを言っていては、分権は一向に進まないのも現実である。地方分権は構造そのものを変える「構造改革」であり、4年くらい前に小泉首相が「―痛みを伴う」としきりに言っていた通り、その過程では大きな意識変革が求められ、大きな痛みも伴うものである。
それぞれの思惑が絡み合っている現状を打破しなければ、構造改革は進むことはない。地方分権自体は多くの人が賛成するところであり、方向性も間違ってはいない。その方向に向かって、皆が一旦利害を捨て、痛みを受ける覚悟を持って改革に当たる必要がある。

私たち日本人にそれだけの意気込みと力がある、という性善説を信じたい。

スクールミーティング始まる

2005-03-14 19:17:18 | 教育について
スクールミーティングが各地の小中学校で行われている。スクールミーティングとは、文部科学省が掲げる義務教育改革を進めるために、文部科学省の職員が各地の小中学校に出向き、教員や保護者、生徒などと直接意見交換を行うための場である。
学力低下がOECDのランキングという形で指摘され、中山文部科学相が「ゆとり教育」を見直すと発言したことで、一気に義務教育論争に火がついた形となっている。

これまでの詰め込み教育を反省し、総合的に物事を考えられる人材、そして「生きる力」を持った人間を育成するために、「ゆとり教育」「総合学習」が始まったが、学力低下が浮き彫りになったため、またすぐに「ゆとり教育」を見直そうと今回の義務教育改革に至ったのであろう。なんともお粗末な結果としか言いようがない。そもそも、「ゆとり教育」を始める前に議論が足りなかった、ということもすでに指摘されている。理念が評価される一方で、現場からも反対意見が多く出ているのも、見切り発車のせいだといえる。つまり、何も知らない子どもたちの周りで、大人たちが右往左往しているのである。

しかし、今回の義務教育改革までの経緯がどうであれ、文部科学省が行っているスクールミーティングという手法は評価したい。実際に現場の教員や、不安を抱えている父母らと直接対話することで見えてくるものが多くあるに違いない。
だが一方で生徒との対話がほとんどみられていないのが気にかかる。名目上は、生徒と共に給食を食べ話を聞くということになっているが、その給食を食べることもあまり行われていない。
本来、義務教育改革の主役は生徒であるはずである。生徒が意見を言えないというのであれば、それは適切な情報を事前に伝えておけばいいだけのはずだ。また、生徒を小中学生だけに限定するのではなく、これまで「ゆとり教育」を体験してきた現役の高校生などからも意見を聞くことも、経過をしるためには重要だろう。
これまでの失敗をまたここで繰り返してはいけない。子どもたちあっての教育である。まずは、子どもたちの声に耳を傾けることから始めてほしい。

シリーズ デンマークの教育⑦ 『大学・上級専門学校』

2005-02-20 23:13:10 | 教育について
ノーマリゼーションが根付く国デンマークを形作っているのは、教育であるという視点から始まったこのシリーズも7回目。今回は教育現場の最期の段階である、大学および上級専門学校に焦点を当てる。
すでに「教育の義務」の場で、民主主義が教えられていることはすでに述べたが、ノーマリゼーションの考え方も当たり前のように教えられている。だから、デンマークの若者の中には、ノーマリゼーションを提唱したバンク・ミケルセンを知らない人も多い。それだけノーマリゼーションが浸透しているということだし、言葉自体には意味がないのかもしれない。

デンマークにおいて、高等学校を卒業する頃には年齢が最低でも19歳以上になっている(前項参照)。高等学校あるいは高等学校卒と同等の学力を有する者は、大学および上級専門学校に入学試験なしで入学することができる。
上級専門学校とは、国民学校の教師、施設職員、看護師、助産婦、OT、PT等になるための学校で、就業年限は4年となっている。
大学への進学者は比較的少なく、大学教育を必要とする職業に就きたい者が進学する。例えば、医者、獣医、薬剤師、弁護士、エンジニア、高等学校教師等であり、修業年限は6年となっている。

これらの学校への入学資格は必ずしも高等学校卒を要求されるわけではない。その代わりに、“ポイントシステム”という制度があり、例えば国民学校の教師になるためには、職場経験や外国旅行の経験、国民高等学校への在籍等が加算されて入学可能なポイントを満たす必要がある。そのため、入学時の平均年齢は25歳前後で、初任教師の平均年齢は29歳前後となる。そのため、日本のように大学卒業したばかりの先生が子どもを教えるということはなく、ある程度の社会経験を積んだ大人が子どもを教えるということになる。
それだけ、デンマークでは「教育の義務」の場での教育を重くみているということであろう。

日本ではつい先日、文部科学省が「ゆとり教育」を見直す方向で動いていることが報道され、新たな波紋を巻き起こしている。「ゆとり教育」自体の理念を批判する意見は少ないが、結果的に表出した学力低下に対してはどうにかしなければいけない、という意見が多いようだ。これまで10年かけて議論されてきた「ゆとり教育」がスタートし、いざ始まってみると不具合も多かったということだろう。つまりは細かい部分でのシュミレーションが足りなかったということか。
OECD(経済協力開発機構)が実施した調査による結果が悪かったということに対して過剰に反応し、振り回されているようにしかみえないのがとても残念だ。日本の政治家、役人には20年先どころが10年先も見えていないのではないかと危惧してしまう。
最も振り回されているのが、子どもであり、これからの日本の将来であることを忘れないでもらいたい。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」

シリーズ デンマークの教育⑥ 『教育の義務の後・・・高等教育』

2005-02-01 14:28:57 | 教育について
最近、教育に関する関心が改めて高まっている。メディアで取り上げる機会も多くなっているし、それぞれの独自の取り組みもみられている。行政特区における中高一貫教育であったり、1年を2学期制にする取り組みなどさまざまである。それぞれに対しては賛成、批判の意見が渦巻いているようで、それが議論を熱くしているのである。
このような動きの背景には、生徒・保護者の多様化、ニーズの多様化によりこれまでのシステムでは対応しきれなくなってきていることがあるのだという。さらに、これまでの上(教育委員会)から押さえつけられてきたことへの現場側の不満が爆発した結果なのだそうだ。
しかし、その取り組みもすぐに功を奏すわけはなく、時間がかかるものだろう。そもそも取り組み事態に批判の声が大きく、課題は山積みである。社会問題として、ニート 【NEET】 (Not in Employment, Education or Training)という若者の存在も取り上げられている今、教育の役割の見直しは急務である。

これまでシリーズで取り上げてきたデンマークの教育方法は、それらの問題を根本から変えうるだけのヒントが多く含まれているといえる。今回は、『教育の義務』を卒業した後の進路について紹介したい。
デンマークでの『教育の義務(日本で言う義務教育)』が9年間であることは前項までで説明したが、その後10年生クラスというものがある。10年生への継続は義務ではないが、その存在の意義は高等学校あるいは専門学校進学にあたって、まだ学力的にあるいは情緒的に不足していると自分で思う者が10年生へ継続し、その不足を補う。10年生へは全体の約50%が継続している。
つまり、目標も定まらないまま高校や職業専門学校(デンマークでは国民学校卒業後すぐに専門学校に進むことができる)に進むことが少なくなり、その時点で自分の目標をしっかりと決めることができるのである。また、それまでの間にそのような教育がされていることは言うまでもない。
高等学校進学率は、9年生・10年生を終えた者のうち40%ぐらいである。高等学校への入学試験というものはなく、そのかわり高等学校進学を希望する者は、国民学校卒業試験を通り高校が受け入れれば入学することができる。学力不足気味の者は、10年生に進んだ後、進路を決めればよいのである。
デンマークにおける高等学校への進学の意義は、高等学校教育を基礎にして、さらに上級学校へ進学しようとすることにある。

高等学校へ行かない者は、自分に合った能力と希望を受け入れられる専門学校が多く用意されていて、個々の個性を活かした高等教育が受けられる。この職業別専門学校はすべての職種に亘っており、その就業年限は約3年となっている。社会保健介護士養成学校等はこの専門学校と同列のところに位置している。
小さい時から自分の個性に合った教育を受けてきているので、自分は高等学校へ入れないなどという劣等感も持たないし、親も「高等学校ぐらいは出ておきなさい」などと高等学校教育を侮辱するようなことを言うこともない。

このようなシステムだと、日本のように勉強が嫌いだけど「皆が行くから」と高校に進学することもなく、何の目的もなく大学に進学することもない。また、基本的に入学試験がないため、受験勉強を必死でがんばる必要もなく、受験後燃え尽きてしまうこともないのである。
受験による弊害などは以前から叫ばれているものの、根本的な解決方法はいまだに示されていない。それは、根強い賛成論者がいるためだろうが、その賛成論者はうまく社会参加が出来ており、自身も高学歴のエリートであることが往々にしてある。うまく社会参加できない人たちを問題にするのであれば、その人たちの意見を直接反映させることが必要であるし、そもそもエリートが社会を動かしている現状では限界があるのではないだろうか。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」

シリーズ デンマークの教育【番外編】 『世界一の義務教育 フィンランド』

2005-01-09 20:46:10 | 教育について
昨年末に教育関係者のみならず、日本中で話題となったのがPISAのランキングであった。
PISAとは「Programme for International Student Assessment」のことで、OECD(経済協力開発機構)が実施した調査で、日本では「学習到達度調査」と訳されている。2000年の調査で日本は読解が8位、数学が1位、科学が2位であった。
今回(2003年)はそこに問題解決能力が加わり、その結果日本は読解が14位、数学が6位、科学が2位、問題解決が4位となった。そのため、新聞紙面では「日本の読解力低下」と大きく報道されたのが記憶に新しいところだろう。

その中で注目されたのがフィンランドである。2000年では読解1位、数学4位、科学3位であったのが、今回の調査では読解1位、数学2位、科学1位、問題解決3位と義務教育で「世界一」の評価を受けた。そのフィンランドの教育現場ではどのような工夫がされているのだろうか。
フィンランドでは94年に教育の目標や内容の決定権が国から地方に移され、国は大まかなカリキュラムを示すだけになった。学習が遅れた子どもへの特別授業は慣習だったが、06年度から施行される新カリキュラムでは制度化されることになる。新カリキュラムでは、義務教育の小中一貫も明確にされる。生徒をテストでランク付けする仕組みがなく、現行制度では高校進学に影響する中学3年の成績を除き、成績をつけるための明確な基準もない。デンマークと共通する部分も多い。
学習内容は教科書の選択を含め、現場の教師が決めることになっている。「できるだけ子どもたちの生活と学習を関連させる。国語なら読み書きの正確さより、読んだ文章について考え、感想や意見をどう表現するかに重点を置く」とある先生は言っている。時間割も学習の進み方によって柔軟に変えられるような工夫がされているのである。

ある中学校では授業中、先生が説明中にもかかわらず生徒同士がお互いに席を離れ教えあう光景がみられるという。先生も了解のもと、クラスのルールとしてわからないことはまず生徒同士が教え合うことになっている。「一人ひとりが何ができて何ができないのかを自覚することが大事。出来ない子を教えれば、より理解を深められる」と先生。これがフィンランドでは標準的な考え方とのこと。
また、理解度に合わせた指導も一般的に行われている。例えば数学のクラスについていけない子どもは、自らの選択により別室へ移り学習進度に合わせた特別授業を受けることができる。そこで理解できるようになれば、またもとのクラスに戻っていくのである。デンマークでも同じことが行われている。デンマークでは、1クラスの中に3段階くらいのレベルがあり、どのレベルに入るかは教師だけの見解ではなく、生徒の希望も入る。移動も可能であるため、低いレベルに入ったことによる劣等感やいじめはないという。

今回の結果を受け、中山成彬大臣は以下のようなコメントを残している。
「― 歯止めをかけるために全国学力テストをやって、競い合う教育をしないといけない」
過当競争の弊害が叫ばれ偏差値をなくし、ゆとり教育として週休2日にし学習内容を削減してきた文部科学相の言う言葉だろうか。いかに日本の政治・制度が先を見ていないかが顕著に現れている。結局5年先も見越しすことができていないのである。
制度を見直すことが悪いと言っているのではない。自分の利害だけの政治はやめてほしい。

最期に、フィンランドの教育相の言葉から。
「― (フィンランドの教育は)平等が原則だが、子どもがみな一様に扱われることはない。能力が劣ったり、社会環境が恵まれない子には支援がある。教師は修士課程修了が原則。さらに国の予算で継続教育をし、教師の質の向上に努めている」

日本とフィンランドの違いはトップの一言にも現れている。そのトップを選んでいるのは私たちであることを忘れてはいけない。

参照:朝日新聞 (2004.12.19 朝刊)
    PISA(OECD生徒の学習到達度調査)2003年調査

シリーズ デンマークの教育⑤ 『国民学校:教育の義務の場で・・・Ⅱ』

2004-12-15 17:53:38 | 教育について
前項の①では、デンマークにおける「教育の義務」の場である「国民学校」の概要をおおまかに記しましたが、今回は実際にどのような教育や工夫が行われているかについて紹介したいと思います。

デンマークでは、1年生から9年生まで同じ先生が担任となります。一人ひとりの顔がみえる少人数(1クラス最高28人)の単位でみることによって、子どもたちは学校での居場所、安心感を感じることができ、そのためいじめや不登校などがほとんどみられないそうです。
さらに、余裕のある学校では、親から事前に入学する生徒の個性を確認することをしています。入学後も、親との面談は5回/年にも及ぶとのこと。単純に比較しても、日本とは親とのかかわり方が違うのがわかります。

同じ先生が9年間もひとつのクラスを担任するということは、それだけ先生にかかる負担が大きくなると同時に、その資質も問われてくることになります。これは後の項でも詳しく触れますが、デンマークでは、先生になるためには、高等学校を卒業後さらに「上級専門学校」(日本における大学のようなもの。大学も別にある。)に進む必要があります。そこに入学するためには、入学試験ではなく、職場経験や海外旅行の経験などさまざまな人生経験が求められます。そのため、入学時の平均年齢は25歳前後で、初任教師の平均年齢は29歳前後ということになります。日本のように大学新卒の22歳の若者が担任になるということはなく、ある程度の人生経験を積んだ者が先生になるのです。
また、日本との大きな違いは、教師になる人も民主主義の教育をきちんと受けているということです。そして、生徒の親も民主主義の教育を受けているので、日本のように先生に対して一任してしまう(文句だけは言いますが・・・)ことはなく、主体的に学校にかかわるようになります。

デンマークでは地方分権が確立されています。そのため、「国民学校」は各地方自治体が運営しています。日本のように、都道府県教育委員会があり、その下に市町村教育委員会があり、学校に目を光らせているということはありません。各学校にある理事会が運営していくことになります。
理事会の構成メンバーは、【親の代表6名、生徒代表2名、先生代表2名】という構成です。この構成をみても、教師の意見より実際に利用する生徒やその親の意見が反映されやすいのがわかります。理事会の下には生徒会があり、これは各クラスの代表2名から成り立ちます。生徒会の下には各学級委員会があるのです。
例えば、学級委員会で「休み時間は皆外に出て遊ばなくてはダメですか?」という意見が出たとします。学級委員会では、「外に出なくてもいい」というように決まれば、その意見を生徒会に持っていきます。しかし、生徒会では「休み時間は外に出て体を動かすことが大切」というようになれば、全校生徒がそれを守ることになります。意見を出すことは自由ですが、それに伴う責任として、決まったことに対しては皆で守っていくことが求められるのです。その他にも、「砂場の砂を新しく変えて欲しい」や、「校庭に遊具を増やして欲しい」などの意見が出て実際に承認されたりしています。

カリキュラムづくりにも工夫がみられます。先生がカリキュラムをつくる時には、まず生徒の知識がどのくらいあるのかを把握します。そして、生徒との合意によって授業を進めていくのです。デンマークの授業は、対話によって進められていくのが当たり前なので、授業風景は常に生徒の声が響いています。先生が一方的に話して聞かせることはないのです。そのため、理解していない生徒がいればわかりますし、その生徒のために教室にいるもう一人の補助の先生が個別に対応をします。
年に4回(1週間/回)は、「テーマデー」というカリキュラムがあり、そこでは学年・クラスの枠を超えて集まったチームが1つのテーマに対して調べ、発表することに取り組みます。このような授業をすることで、自主性を育てるのはもちろん、上級生が下級生の面倒をみる構造が生まれ、それがいじめが少ないことにつながるそうです。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」

シリーズ デンマークの教育④ 『国民学校:教育の義務の場で・・・Ⅰ』

2004-12-02 21:36:11 | 教育について
今回は、デンマークにおける「教育の義務」(デンマークでは「義務教育」とは言わずに「教育の義務という。前項参照)の期間における教育の場、「国民学校」について触れたいと思います。

デンマークでは、小中学校の区別がなく1年生から9年生までが国民学校の生徒ということになります。9年生は、日本の中学3年生にあたります。
1学級の定員は最高28人とされています。これは、あまり多い人数だと生徒一人ひとりに目が届かないということなのでしょう。例えば、ある年に30人の入学者がいたからといって、1学級でで間に合わせることはできません。その場合は15人ずつ2クラスにしなければならないのです。
先生は、入学前準備にあたる0年生(幼稚園と小学校の間の1年間)の後半1/3を含め、1年生から9年生までの9年間を同じ先生が担任します。これは、なるべくかかわる先生を少なくするという学校の方針によるものでもあります。少人数・顔なじみの環境をつくることで、生徒は学校における安心感を得ることができ、いじめや不登校にもつながらないといいます。
また、前項の『障害者教育』でも触れましたが、国民学校では障害をもった子どもの受け入れも行っています。障害をもった子どもを受け入れることは、他の子どもにとって障害の理解につながると考えられています。例えば、聴覚障害をもった子どもの場合、子どもには補聴器を与え、先生は専用のワイヤレスマイクで直接声を生徒に届けるという工夫をしています。受け入れるからには、しっかりとした環境を整備しているのです。もちろん、国民学校ではなく、障害に適した学校でもいいのは言うまでもありません。

授業は生徒の個性に合わせて進められるので、全員に同様な試験を課すようなことはしていません。試験がないので当然点数もつかないので、人間の差を点数で教えるということにもなりません。まして通知表なども存在しないので、ご丁寧にも「あなたは何人中何番ですよ」と人間としての価値を順位で教えることもありません。
日本で調査をすると、約半数の人が偏差値はあったほうがいいと答えるそうです。子どもの頃から競争原理における教育を受けてきて、落ちこぼれずにきた人たちにとってはそれでもいいでしょうが、そこから外れてしまった人たちにとっては偏差値は何の救いにもなりません。そして、そんな教育を受けてきた人たちが親になると、自分の子どもにも同様の教育を望むようになってしまうのも無理はないかもしれません。
国民学校の9年間の教育期間を通じて試験を課せられるのは、最終学年の9年生のみです。この試験は国が行う統一試験ですが、決して席次を決めるためのものではなく、進路への参考とするものです。そのため生徒が希望しなければ、この試験も受けなくてもよいことになっています。
試験はないと何度も言いましたが、テストは存在します。しかし、試験と違いその結果により進級ができなかったり、人間の価値を試験の結果の順位で決めるというものではなく、ただ生徒の能力を先生が把握するためのものとしてあるのです。

デンマーくの教育基本法は、民主主義を教えるということを第一に考えています。国民に、民主主義の中で大事な人間として平等という概念を身に付けさせるためには、国民全員が受ける「教育の義務」の場において、「人よりも人よりも」という競争原理の教育をするのではなく、人に差をつけないような教育をするべきではないでしょうか。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」

シリーズ デンマークの教育③ 『障害者教育』

2004-11-24 22:49:10 | 教育について
前回の項(シリーズ デンマークの教育『幼年期の教育』)でも少し触れましたが、デンマークでは教育の場において障害を持った子どもへの取り組みが早くからされていました。しかし、デンマークでも様々な紆余曲折があって、現在の形にたどり着いたことを最初に言っておく必要があります。
前項では、一般の児童と障害を持った児童が早くから同じ環境にいることで、障害者への偏見をなくす、ということを書きましたが、現在では必ずしもそのような考えではなくなっているようです。

まず、デンマークの障害者教育が日本やその他の国と大きく異なるところは、デンマークには障害児のための教育に関する特別な法律はない、ということです。すべての子どもが平等に国民学校で教育を受ける権利があるのです。ノーマリゼーションの考え方が浸透しているデンマークでは障害者教育は特別なことではなく、ひとつの教育のあり方という考え方なのでしょう。
平等といいましたが、ここでいう平等とは障害の度合いに関わらず全く同じ教育を受けなければならない、ということではありません。障害者に障害者教育に熟知した学級や学校があってもいいのです。障害者教育を含めて、教育には各々の個性(障害も個性ととらえている)に適した教育の場が存在して然るべきなのです。
日本においても、障害をもつ子どもを一般の学校に入れることが平等だと思い入学させる家族もありますが、それが本当にその子のためになっているのかはもう一度よく考えてみる必要があると思います。没個性の教育をしてきた日本の学校で、障害を持った子どもを教育できる先生が何人いるのか?その環境が整っているのか?答えは「ノー」と言わざるを得ません。そのような環境が整った学校はほんのわずかにすぎないでしょう。

ノーマリゼーションはデンマークから始まっていますが、その当時知的障害を持つ子どもの親たちは、自分の子どもを普通の学校に入れることがノーマリゼーションだと思っていました。しかし、今では知的障害者は知的障害者のための特殊学級、あるいは養護学校で教育を受けさせるのが最適だという理解に達しています。また、身体障害者の場合は、普通の学校での授業を理解できる者は補助者を付けて通学できるようになっています。
障害を持った子どもを教えるには、相応の専門知識が求められます。知的な障害に限らず、身体的な障害にも心理面のケアが重要になってきます。日本の学校に身体的な障害を持った子どもが行こうとしても、補助者がいたってどうにもならない建物ばかりなのも問題です。学校の建物の基準も国がきっちりと指導して、融通がまったくきかない建物ができてきた流れがこの結果です。今、三位一体の改革とかなんとかで、教育の権限を地方自治体に移すかどうか(表立っているのは金の話ですが・・・)の話し合いをしているようですが、自由に児童に合わせてバリアフリーの建物を作れるような制度になってほしいものです。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」

シリーズ デンマークの教育② 『幼年期の教育』

2004-11-01 10:27:23 | 教育について
デンマークでは、教育の場において民主主義を教えることが中心であることは前項でも述べました。それは、0~7歳までの子どもに対する教育からもみることができます。

デンマークにおいては、ほとんどの子どもが0~3歳まで保育園(保育ママ)、3~6歳までは幼稚園に通っています。これは、デンマークが女性の社会進出が世界一であることも無関係ではないでしょう。
この就学前期間中には原則として読み書きを教えないことになっています。なぜなら、子どもが家庭から出て初めて接する社会が保育園・幼稚園であるので、皆と仲良くなることが大切とされているからです。早く皆と仲良くなれるには、読み書きよりも遊びを優先することと考えられているのです。
ですから、デンマークの保育園・幼稚園では、子どもたちは一見放任されたように遊び呆けていますが、実は遊びを通して自由を学んでいるのです。そして勝手気ままに遊んだ後は、おもちゃの後片付けをさせたり、大きい子は小さい子の面倒をみるというように、自由には責任が伴うということを理解させ身に付けるのです。そのため、年令を統合した保育園・幼稚園も数多くあるのです。
ここで日本の場合を考えてみると、反対に教育の低年齢化が進んでいることに目がいきます。幼年期から塾に行き私立小学校の受験に備えたり、英語を教えたり・・・など早くから読み書きを教えることが子どものためによく、それが教育と考えられているように感じます。しかし、本当に子どものことを考えるなら、読み書きを教えるよりもまず人とのコミュニケーションがとれるようにしたほうがいいのではないでしょうか。子どもの頃から読み書きを詰め込まれた子どもが大人になった時のことを考えると、不安を感じずにはいられません。

さらにデンマークでは、障害者への差別や偏見を持たせないようにするため、なるべく早い時期から障害を持った子どもと可能な限り同じ施設に通園させるのが良いとされています。小さい時から障害者と接することにより、子どもたちはこの世の中には男や女や老人や子ども、体の不自由な人など、いろいろな個性を持った人がいることを理解するのです。
この『ノーマリゼーション』の考え方に象徴されるように、デンマークには障害児のための教育に関する特別な法律はありません。なにも特別なことではないからです。

国民学校の1年生の前に、幼稚園学級というものがあります。これは6~7歳までの子どもが通う0年生学級のことで、この学級でも読み書きは原則として教えないことになっています。しかし、生徒が希望する場合にほ教えてもかまわないことになっています。この学級の目的は、子どもたちが国民学校1年生に抵抗なく入れるための準備期間とされています。
つまり、就学前教育(0~7歳)は、子どもたちを早く社会の一員とするためのものであって、その名の通り勉強以前に必要ないろいろなことを教えるための期間なのです。
こうして、生活大国であるデンマークの基礎はつくられているのです。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」

シリーズ デンマークの教育① 『デンマークの教育のおこり』

2004-10-30 01:01:30 | 教育について
これまで何度かデンマークの生活や福祉について触れてきましたが、その根本となる教育について、そして日本におけるこれからの課題について何回かに分けて考えていきたいと思います。

以前にも書きましたが、デンマークでは民主主義が徹底されています。その徹底振りは、子どもの頃からその教育現場で民主主義とは何であるかを教えていることからも伺えます。彼らにとって民主主義とは、我々日本人のように与えられたものではなく、みずから闘い勝ち取ったものであることが大きく影響しているのです。
自ら民主主義を勝ち取ったデンマークでは、その民主主義を守ろうという強い気持ちが教育現場に表れています。民主主義を表現する言葉に、自由、平等、連帯、共生などがありますが、私たちはその言葉の意味は理解していても、実際の生活においては自分たちのものになっていません。それは、敗戦後日本は民主主義という言葉は与えられたものの、経済大国の道を歩み始め、競争原理に基づいた教育をしてきたため、私たちに根付くことなくここまで来てしまったからです。

では、デンマークではどうなのでしょうか。そのデンマークの教育の歴史を少し紐解いていきたいと思います。

デンマークは1814年に世界で一番最初に教育を義務化した国です。デンマークでは「義務教育」とは呼ばず、「教育の義務」と呼んでいます。それは、すべての国民が教育を受ける義務はあるものの、必ずしも学校に行く必要はないということを表しています。もし学校の教育に不満がある場合は、学校に行かずに家庭教師による教育でもよいのです。そこには、どんな教育を受けるのか、選択の自由が保持されています。
以前は、このような家庭も結構あったようですが、今はほとんどの子どもが学校にいっているようです。
1900年代の初め頃には、日本の中学校のような制度もできたが、1972年には統一されて9年生までになっています。
1960年代んは幼稚園クラス、1970年代には10年生クラスが始まりました。
「教育の義務」の場は『国民学校』と呼ばれ、現在1~9年生(日本の小学校・中学校を合わせたもの)となっています。その前後に1年ずつ義務ではありませんが、幼稚園クラスと10年生クラスが設けられています。幼稚園クラスは学校準備のための期間で現在約98%の生徒が、10年生クラスは、その上の高等学校や職業専門学校に進むのが不安な生徒約50%が在籍しています。

デンマークの教育で特徴的なのは、文部省の規定により試験を課してはいけないことになっていることです。つまり、「教育の義務」の場では、試験がなく順位をつけられることがないのです。なぜなら、学問は試験や資格を取るためにするものではなく、自分の人間形成のためにするものだという考え方が当たり前になっているからです。デンマークの教育の場では、「対話による相互作用」を重んじており、教師と学生の間には授業中絶えず会話が持たれているのです。こうした共同社会である学園生活を通して、個人が社会の中で責任を果たし共生していくという民主主義の考え方を身に付けていくのですが、詳しくはまた次回に・・・。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」