What’s ノーマリゼーション?

福祉について考えるUMEMOTOのブログ

人口減少社会の到来 ―社会保障の早急な整備を―

2005-02-27 18:54:19 | 福祉雑記録
2月23日付け朝日新聞(朝刊)に、人口増加率の落ち込みに関する記事が載っていた。人口増加率が0.05%まで落ち込んでおり、出生児数から死亡者数を引いた自然増も10万2千人と戦後最低になっている。つまり、まもなく人口が減り始める「人口減少社会」が到来するということだ。現在の人口は1億2768万7千人(04年10月1日)。

人口問題は、社会全体に大きな関わりを持っているが、特に社会保障に対する影響は大きいものがある。身近な問題としては年金がある。年金は、現役世代(20~70歳未満)が高齢者世代(65歳~)を支える世代間扶養の考え方で運営されている。そのため、人口問題とは切り離せない問題なのである。
このままでは年金制度が立ち行かなくなるとして、昨年より年金制度改革の論議が本格的に始まったのは記憶に新しいところである。その結果、年金給付金を現役世代の収入の50%以上を確保するとして、保険料を上げ、給付金を下げることにして年金改革法案が成立したのである。しかし、今年に入ってからは野党である民主党が審議を拒否しており、改正論議は始まっていない。
国立社会保障・人口問題研究所によると、少子高齢化は予想を上回るスピードで進んでいるという。これをうけ、総務省は「出生率が低調なうえに、平均寿命が延びているため」と分析している。このままいくと、年金制度を改正する前に制度自体が立ち行かなくなってしまうというのも大げさな話ではない。

日本人は、税金や社会保障に対する関心が薄いと言われている。特にサラリーマンにとっては、給料から天引きされており、数字のうえでしか確認しないため、実感を伴わないという現実がある。そのためこのような状況になっても、私たち国民はあまり騒ぎ立てることはない。そのためだろうか、国会議員があまり危機感を持たずにいるように思えてしまう。
生活大国であるスウェーデンでも02年に年金制度改革を行っている。しかし、こちらの場合は人口推計予想を基に、10年以上の歳月を掛け話し合われた結果によるものである。つまり、現在の日本のように逼迫した状況ではないが、100年先を見越しての制度改革なのである。日本で言っている「100年」とは重みが違う。

なぜこのような違いが出てくるのだろうか。
年金制度が生まれたのはヨーロッパからである。そもそも年金は起源は、兵隊が貰う糧からきていると言われている。除隊した後でも、その保障としてお金を貰えるように運動を起こした結果、現在の年金制度の原型ができたのである。民主主義が発達しているヨーロッパにおいては、自ら勝ち取り作り上げた制度として年金制度が成り立っている。そのため、ヨーロッパ諸国では社会保障に関するデモにおいても、とても大規模なものになってくる。
一方、日本においては国が整備し国民に強制加入させるという方式をとっている。そもそも、年金制度成立の背景がまったく違っているのである。そのため、税金や社会保障に対する関心に違いが出てくるのである。

今回の年金制度改革では、抜本的な改革を期待したい。今最も国民が関心のあることとして、年金の問題が挙げられている。それだけ注目されているにも関わらず、国会においては実のある論議はされていない。国会議員のつまらないプライドや私欲のために、私たちの将来を間違った方向に持っていってほしくはない。法案を成立させるのを急がず、じっくりと論議し本当に「100年」継続できる制度を作り上げなければ、私たちのみならずこれから生まれてくる子どもたちにも大きな負担を負わせることになってしまうだろう。本当に国民が納得できる制度であれば、保険料アップも年金給付のダウンも受け入れることができるはずである。そのような年金制度を望みたい。

シリーズ デンマークの教育⑦ 『大学・上級専門学校』

2005-02-20 23:13:10 | 教育について
ノーマリゼーションが根付く国デンマークを形作っているのは、教育であるという視点から始まったこのシリーズも7回目。今回は教育現場の最期の段階である、大学および上級専門学校に焦点を当てる。
すでに「教育の義務」の場で、民主主義が教えられていることはすでに述べたが、ノーマリゼーションの考え方も当たり前のように教えられている。だから、デンマークの若者の中には、ノーマリゼーションを提唱したバンク・ミケルセンを知らない人も多い。それだけノーマリゼーションが浸透しているということだし、言葉自体には意味がないのかもしれない。

デンマークにおいて、高等学校を卒業する頃には年齢が最低でも19歳以上になっている(前項参照)。高等学校あるいは高等学校卒と同等の学力を有する者は、大学および上級専門学校に入学試験なしで入学することができる。
上級専門学校とは、国民学校の教師、施設職員、看護師、助産婦、OT、PT等になるための学校で、就業年限は4年となっている。
大学への進学者は比較的少なく、大学教育を必要とする職業に就きたい者が進学する。例えば、医者、獣医、薬剤師、弁護士、エンジニア、高等学校教師等であり、修業年限は6年となっている。

これらの学校への入学資格は必ずしも高等学校卒を要求されるわけではない。その代わりに、“ポイントシステム”という制度があり、例えば国民学校の教師になるためには、職場経験や外国旅行の経験、国民高等学校への在籍等が加算されて入学可能なポイントを満たす必要がある。そのため、入学時の平均年齢は25歳前後で、初任教師の平均年齢は29歳前後となる。そのため、日本のように大学卒業したばかりの先生が子どもを教えるということはなく、ある程度の社会経験を積んだ大人が子どもを教えるということになる。
それだけ、デンマークでは「教育の義務」の場での教育を重くみているということであろう。

日本ではつい先日、文部科学省が「ゆとり教育」を見直す方向で動いていることが報道され、新たな波紋を巻き起こしている。「ゆとり教育」自体の理念を批判する意見は少ないが、結果的に表出した学力低下に対してはどうにかしなければいけない、という意見が多いようだ。これまで10年かけて議論されてきた「ゆとり教育」がスタートし、いざ始まってみると不具合も多かったということだろう。つまりは細かい部分でのシュミレーションが足りなかったということか。
OECD(経済協力開発機構)が実施した調査による結果が悪かったということに対して過剰に反応し、振り回されているようにしかみえないのがとても残念だ。日本の政治家、役人には20年先どころが10年先も見えていないのではないかと危惧してしまう。
最も振り回されているのが、子どもであり、これからの日本の将来であることを忘れないでもらいたい。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」

こんな夜更けにバナナかよ

2005-02-18 12:56:03 | 読書感想文
1年半前ほどだったか、おもしろいタイトルの本に出会った。その時に読んだ感動と衝撃は今も薄れていない。この本を紹介してくれたのは、当時同じ職場で働いていた同僚で、彼も日々ケアのあり方に悩んでいた。それが『こんな夜更けにバナナかよ』であった。

この本の主人公はボランィアである。そして、そのボランティアを言葉だけで叱り、おだて、教え、自らの身体の一部にしているシカノという青年。彼は筋ジストロフィーを患っており、人工呼吸器をつけなければ生きることさえできない。24時間の介護が必要な彼は、ボランティアと共に一人暮らしをしていたのである。

実際に読んでもらいたい。特に、今介護の現場で行き詰っている人には。
この本から大きな力を得ることができるかもしれないし、介護の仕事をやめたくなるかもしれない。それだけ奇麗事だけでは済まされない世界に私たちはいることを教えてくれる。
当時、私は仲間と共にボランティアグループで活動していた。仕事もやりながら、自分の休みを使ってのボランティアにそれなりの価値を見出していたからであったが、自分の中に抱える矛盾も多かった。そんな私にとっては、この本はヒントを与えてくれた。きっと読む人によって、そのヒントは様々な色を見せるに違いない。

この本には、障害者の生き方についても考えさせられる。辛い思いをしながらなぜ一人暮らしを続けるのか。障害を持っている時点で「自立」はあるのか?

脳性マヒを持ちながら「いちご会」という障害者を支援する団体の会長をやっている小山内美穂さんが、ある著書の中でこう言っていた。「私たちが生活をし続けることが社会に対してのメッセージである」と。

『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史/著、北海道新聞社、2003年3月発行

「ありがとう」の先にあるもの

2005-02-17 23:26:30 | 福祉雑記録
私の勤めている特別養護老人ホームでは、面会後の家族に対して「ありがとうございました」と言っている。別にそう決まっているわけではないが、職員のほとんどがそうだ。
私はいつもそれを聞きながら違和感を感じている。なぜ「ありがとう・・・」なのか。

少し乱暴かもしれないが、私は家族が面会に来るのは当たり前だと思っている。顔を見に来るだけではなく、ケアをしていってくれてもいいとさえ思っている。だから、なぜ面会に来た家族に対して「ありがとう・・・」と言うのかがわからないのだ。ホームヘルパーが訪問中に、そのお宅に遊びに来た家族に向かって「ありがとうございました」と言うだろうか。
そこで暮らしている入居者にとっては、施設であっても“住まい”である。そして、そこで働くスタッフは何らホームヘルパーと変わりがない。そういう共通理解がない施設は、生活の場にはなり得ない。

私が言いたいのは、介護は家族がやるべきだということではない。高齢者に限らず、障害者、子どもなどのサポートは社会全体で取り組む必要があると思っている。
「家族の介護」と「家族の支え合い」は別問題なのだ。
よく親を老人ホームに預けてしまってから、かかわりを持たなくなってしまう家族がいる。預けてしまえば、後は施設の仕事だからと手を出さない。ケアは身体的なものばかりではない。家族には最期まで精神的なつながりを持っていてほしいと思う。

「ありがとう」の先には何も見えない。そこでぷつりと終わってしまうような気がする。もっと家族に対して求めてもいいのではないか。求めるということは、私たちもそれだけのことはしなくてはならない。それが対等な関係であり、相互作用の中からよりよい関係が生まれるのではないだろうか。

介護予防の矛盾

2005-02-13 14:27:03 | 介護保険
今回の介護保険の見直しで、最も注目されているのが「介護予防サービス」の導入である。この介護予防の導入の背景には、毎年10%のペースで増え続けているサービス給付費の存在がある。
もともと要支援の人にサービスを提供する目的は予防にあったのだが、実際には軽度の人が多く利用しているのはヘルパーが掃除や調理などを行う家事代行サービスで予防にはつながっていない。それを裏付ける結果として、厚労省は介護度の重度化を挙げている。また、要支援と要介護1の数は4年半で2.5倍近くに増えており、要介護認定者全体の半数に及んでいる。この増え続ける対象をどうにかして減らすことが、増え続けるサービス給付に歯止めをかけるとして今回の見直しで導入されることになったのである。

改正案では介護予防の対象は、状態が軽い要支援と要介護1。市町村の介護認定審査会が主治医の意見参考にして、介護予防を必要か判断する。
判断基準はまだ確定していないが、認知症や末期がん、脳梗塞、心疾患、筋萎縮性側索硬化症などの神経難病、骨折の直後などは対象外になる見通し。
現在6つに分かれている要介護度の区分は、要支援が「要支援1」、要介護1が「要介護1」と「要支援2」に分かれ7つになる。その「要支援1」と「要支援2」が介護予防サービスの対象となる。

具体的な内容は―
 ・デイサービスセンターなどで機器を使ったトレーニングや体操による筋トレ【筋力向上】
 ・栄養士らが自宅を訪問して食事の栄養バランスをチェックし、栄養改善指導をする(医師から食事制限をされている人は除く)【栄養改善】
 ・高齢者を集めて歯科医や歯科衛生士らが歯や舌の汚れをチェックし、口腔ケアの仕方を指導する【口腔ケア】
 ・これまでヘルパーが全面的に行っていた家事を、できるところを一緒に行う【予防訪問介護】
 ・利用者の状態に合わせてデイサービスセンターなどでレクの変わりに、入浴、昼食、筋トレなどのメニューを個別に選べるようにする【予防通所介護】
などとなっている。まだ改正案なので変わる可能性もある。

介護予防のメニューを作るのは、事業所のケアマネではなく、新たにできる地域包括支援センター(仮称)の保健師となる。これまでケアプランを立てたことがない保健師にとっては、その責任は大きなものとなってくる。

また、難しいのが【予防訪問介護】において、家事を利用者とヘルパーが一緒に行うことだろう。利用者の状態にもよるが、要支援1・2といっても、体に障害が残り生活おいて何らかの支障がある状態である。これまではヘルパーが短い時間で掃除や料理などをてきぱきとこなしていただろうが、家事を一緒に行うとなるとこれまで以上に時間がかかることになる。例えば片麻痺の人が包丁を持ち、野菜を切るだけでも慣れないうちは大作業である。今まで1時間で済んでいたことが、2時間かかれば増えた1時間のサービスをどうみるのか。まさか、本人の自己負担ともいえまい。
いくら保健師が予防計画を立てるとはいえ、実際に現場でケアをするヘルパーにとっては大きな不安が残る。
それよりは、病気により体に障害が残った時点で、まずPTやOTなどの専門職がその障害に合わせたリハビリをすることが望ましい。リハビリもこれまでのようにただ歩けるようにするのではなく、その人の家でどうしたら家事やこれまでの暮らしができるのかを考えた上でのリハビリであってほしい。

筋トレは短期間でも効果があることは、すでに介護予防を取り入れている自治体の報告でも証明されている。意欲のある人が持続的に行えるようなシステムづくりが望まれる反面、意欲のない人にいかに意欲を引き出させるか、また重度の人でも意欲がある人にどう対応していけるのかなど課題は山積みである。

地域包括支援センターとは何か

2005-02-10 22:07:26 | 介護保険
2000年度にスタートした介護保険が今年、初の大幅な見直しの時期を迎えている。先日2月8日には、改正法案が国会に提出され4月から本格的な審議が始まることになる。「介護予防サービス」が目玉として注目され、各メディアも大きく取り上げているが、今回の改正法案の中に「地域包括支援センター」という新しい機関も盛り込まれている。今回はその「地域包括支援センター」に焦点を当てる。

「地域包括支援センター」とは、高齢者が地域で生活していくために介護だけではなく、医療や財産管理、虐待防止など様々な問題に対して、地域において総合的なマネジメントを担い、支援していく中核機関とされている。
基本機能として―
 ① 地域の高齢者の実態把握や、虐待への対応など権利擁護を含む「総合的な相談窓口機能」
 ②「新・予防給付」のマネジメントを含む「介護予防マネジメント」
 ③ 介護サービスのみならず、介護以外の様々な生活支援を含む「包括的・継続的なマネジメント」
とされており、原則的に市町村が実施主体となる。市町村は非営利法人などに運営を委託することもできる。中学校区ごとにつくり、全国で5,000ヶ所程度整備する予定。

と、ここまできて何かお気づきにはならないだろうか。「介護予防」を除けば、どこかでみたことのあるような役割・・・、そう「在宅介護支援センター」である。この「地域包括支援センター」と「在宅介護支援センター」は位置づけが非常に似ているのである。そのため、「介護予防」をマネジメントする「地域包括支援センター」と紹介するメディアが多くなっている。

しかし、明確な違いとして様々な専門職(社会福祉士・保健師・ケアマネージャー)をその機能ごとに配置するなど地味に目新しい部分もある。
具体的には―
 1.相談業務においては社会福祉士が窓口になり、高齢者や家族などからの相談を受け付け、病院や弁護士、ボランティア団体などを紹介したり、連携したりして解決を図る。サービスを見直す必要がある場合は、事業者や医師らに働きかけてチームを作ることもある。
 2.介護予防には保健師が中心になり、利用者の心身の状態を判断、希望を聞きながら個別に目標や利用計画をたてる。
 3.ケアマネの支援はスーパーバイザーとしてのケアマネが担う。経験を積んだケアマネに研修を受けてもらいセンターに配置。認知症高齢者のケアプランや金銭管理、家族との関係などに悩む民間ケアマネに指導や助言をする。ケアマネが孤立しないようにネットワークをつくったり、地域の医師会や介護保険施設、住民らが連携する核になったりする。

以上3点、どの役割も重要かつ広範囲にわたっている。社会福祉士にとっては、これまでの曖昧な位置づけではなく、ようやく本来の役割を担うことができる位置づけになっている。
これらすばらしい理念も、現状のままでは問題が山積みである。まず、最も重要な専門職の確保が難しい。このような人材をどこから集めるのか。また、今までケアプランを立てたことのない保健師が、個人に合わせた介護予防の計画を立てることができるのか・・・など数え上げたらきりがない。

また、現在ある「在宅介護支援センター」との関係はどうなるのか。現在、全国に約8,700ヶ所整備されている「在宅介護支援センター」は、現在もほぼ同じような業務を行っており、また市町村が実施主体であるため財源も介護保険給付で賄われている。
限られた介護保険財政の中で5,000箇所を整備するということは、おそらく現行の「在宅介護支援センター」のうち、その役割を担えるセンターが「地域包括センター」へと移行していくことになるだろう。しかし、市町村によっては「在宅介護支援センター」をまとめる存在として「地域包括支援センター」を設置するところもあるかもしれない。それでは本末転倒になりかねないため、国は適切な指導をしていく必要があるだろう。
また、現行の「在宅介護支援センター」の役割や存在意義も改めて見直される機会になる。もしかしたら、「地域包括支援センター」に移行できなかった「在宅介護支援センター」は不要として閉鎖に追い込まれることもあるかもしれない。

なにはともあれ、明確な目的と位置づけに支えられた「地域包括支援センター」が軌道に乗れば、より地域における支援が充実することになるだろうし、そう期待したい。また、そこを拠点に高齢者施策だけではなく、障害者や児童にも向けた支援ができるようになれば望ましい。

シリーズ デンマークの教育⑥ 『教育の義務の後・・・高等教育』

2005-02-01 14:28:57 | 教育について
最近、教育に関する関心が改めて高まっている。メディアで取り上げる機会も多くなっているし、それぞれの独自の取り組みもみられている。行政特区における中高一貫教育であったり、1年を2学期制にする取り組みなどさまざまである。それぞれに対しては賛成、批判の意見が渦巻いているようで、それが議論を熱くしているのである。
このような動きの背景には、生徒・保護者の多様化、ニーズの多様化によりこれまでのシステムでは対応しきれなくなってきていることがあるのだという。さらに、これまでの上(教育委員会)から押さえつけられてきたことへの現場側の不満が爆発した結果なのだそうだ。
しかし、その取り組みもすぐに功を奏すわけはなく、時間がかかるものだろう。そもそも取り組み事態に批判の声が大きく、課題は山積みである。社会問題として、ニート 【NEET】 (Not in Employment, Education or Training)という若者の存在も取り上げられている今、教育の役割の見直しは急務である。

これまでシリーズで取り上げてきたデンマークの教育方法は、それらの問題を根本から変えうるだけのヒントが多く含まれているといえる。今回は、『教育の義務』を卒業した後の進路について紹介したい。
デンマークでの『教育の義務(日本で言う義務教育)』が9年間であることは前項までで説明したが、その後10年生クラスというものがある。10年生への継続は義務ではないが、その存在の意義は高等学校あるいは専門学校進学にあたって、まだ学力的にあるいは情緒的に不足していると自分で思う者が10年生へ継続し、その不足を補う。10年生へは全体の約50%が継続している。
つまり、目標も定まらないまま高校や職業専門学校(デンマークでは国民学校卒業後すぐに専門学校に進むことができる)に進むことが少なくなり、その時点で自分の目標をしっかりと決めることができるのである。また、それまでの間にそのような教育がされていることは言うまでもない。
高等学校進学率は、9年生・10年生を終えた者のうち40%ぐらいである。高等学校への入学試験というものはなく、そのかわり高等学校進学を希望する者は、国民学校卒業試験を通り高校が受け入れれば入学することができる。学力不足気味の者は、10年生に進んだ後、進路を決めればよいのである。
デンマークにおける高等学校への進学の意義は、高等学校教育を基礎にして、さらに上級学校へ進学しようとすることにある。

高等学校へ行かない者は、自分に合った能力と希望を受け入れられる専門学校が多く用意されていて、個々の個性を活かした高等教育が受けられる。この職業別専門学校はすべての職種に亘っており、その就業年限は約3年となっている。社会保健介護士養成学校等はこの専門学校と同列のところに位置している。
小さい時から自分の個性に合った教育を受けてきているので、自分は高等学校へ入れないなどという劣等感も持たないし、親も「高等学校ぐらいは出ておきなさい」などと高等学校教育を侮辱するようなことを言うこともない。

このようなシステムだと、日本のように勉強が嫌いだけど「皆が行くから」と高校に進学することもなく、何の目的もなく大学に進学することもない。また、基本的に入学試験がないため、受験勉強を必死でがんばる必要もなく、受験後燃え尽きてしまうこともないのである。
受験による弊害などは以前から叫ばれているものの、根本的な解決方法はいまだに示されていない。それは、根強い賛成論者がいるためだろうが、その賛成論者はうまく社会参加が出来ており、自身も高学歴のエリートであることが往々にしてある。うまく社会参加できない人たちを問題にするのであれば、その人たちの意見を直接反映させることが必要であるし、そもそもエリートが社会を動かしている現状では限界があるのではないだろうか。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」