What’s ノーマリゼーション?

福祉について考えるUMEMOTOのブログ

ケアマネージャーの評価制度を

2005-01-28 12:58:28 | 介護保険
介護保険の見直しが迫っている中、改めて介護支援専門員(以下:ケアマネ)のあり方に焦点が当てられている。思えば、介護保険施行当初からさまざまな問題提起をしてきたのもケアマネであった。現在の大きな焦点は2つ。ひとつ目は、ケアマネの質の問題。ふたつ目は、低い報酬による待遇の問題である。

ケアマネの質の向上のためには、厚生労働省が一人のケアマネが担当する妥当な件数を50件としていたり、今後ケアマネの資格を5年毎の更新制にするという動きもみられている。
しかし、現実は利用者一人ひとりに訪問し、その人に合ったケアプランを立てるためには、50件という数でも多すぎる現状がある。また、9割以上のケアマネ事業所がその他のサービス事業所に併設されている現状がある。('03年三菱総研調査)併設による弊害は、ケアマネが売り上げを伸ばすことを求められ、自分の所属する事業所のサービスを勧める傾向があるなど、公平性や中立性が損なわれてしまう恐れがあることだ。また、上司から担当件数を増やすよう言われ断れず、100件もの利用者を抱える事例もある。
これらの問題の背景には、低い介護報酬がある。利用者一人の介護プランを作り、1ヶ月の管理をして貰える介護報酬が8,500円。ケアマネが独立して運営できる報酬を得ることができないため、多くのケアマネは併設という形をとらざるを得ない。また、サービス事業所にしてみれば、売り上げを伸ばすための営業部門という見方をしているところもあるのかもしれない。

とはいえ、単純にケアマネの報酬を上げればいいという簡単な話でもない。一律に報酬を上げてしまえば、これまで理念もなく仕事をしてきた事業所はより金儲けに走ってしまう恐れもある。第一、逼迫している介護保険財政である。まずは、ケアマネの評価をすることから始めてはどうだろうか。そこで、いい評価を得たケアマネまたは事業所には介護報酬を上乗せするなどしていけば、独立の道も開けるし、質の維持・向上にもつながるのではないだろうか。また、悪い評価の事業所に対しては、事業所取り消しの勧告を出し、改善に努めてもらうこともできるだろう。
さて、そのケアマネの評価基準に関してはさまざまな要素があるだろうが、最も適切なのは介護度の変化ではないだろうか。利用者がケアマネに求めることは、安心して生活を継続していけることと、自分の体が良くなることではないだろうか。しかし、現状では多くの要介護者の介護度が重度化していることが問題とされている。どれだけの利用者の介護度が向上したのか、あるいは維持できたのかは客観的な数字として評価の対象になるのではないだろうか。
評価をするということは、評価をする側の質やその基準など問題は多いかもしれない。しかし、現状ある問題を何もせずに放っておくことはできない。まずは初めてみることも大切ではないだろうか。介護予防の導入も大切かもしれないが、介護度の向上が評価される仕組みづくりも必要である。

介護職の専門性とは?

2005-01-18 22:08:53 | 福祉雑記録
私たちが取り組んでいる『若手の福祉会議』という団体で、研修活動がいよいよスタートします。
今回のテーマは、「介護の専門性とは?」「それを身につけるためには?」です。興味のある方は是非一度ホームページをご覧ください。

さて、今回は専門性に関連した話。
まだまだ、介護の仕事は誰でも出来るし、誰がやってもよいことになっている。しかし、徐々にではあるが介護福祉士に限定しようとする動きや、ホームヘルパーにおいてはヘルパー2級ではダメで、さらにある一定の研修期間を設け専門性を高めようとする動きがみられる。
専門性を高めるというのは必要なことで大切なことでもあるから賛成だが、何が専門性であるのかはあまり焦点が当てられていない。これから、利用者のニーズがさらに多様化してくることが予想されるなか、現状の介護福祉士のカリキュラムだけでは充分ではないだろう。その議論を同時にしていかなければ、近い将来すぐに計画が暗礁に乗り上げてしまうことも考えられる。

さらに、女性(特に主婦)が多く働いているホームヘルパーにおいて、ハードルを高くすることは新たな人材の確保に影響を及ぼすおそれがある。今現在働いている人たちには、仕事を続けながら研修を受けれるなどの配慮が必要なのは言うまでもないが、新たに介護の仕事につく人たちにとっては、高いハードルを越えるほどの賃金の魅力がないのが現状である。ヘルパーはパート扱いされることが多いうえに、神経を使うことが多い仕事である。国は、私たちに専門性を要求すると同時に、労働者の生活の保障も見直してもらいたい。

しかし、要求ばかりしていても何の解決にもならない。介護職の専門性が低いことは、実際に現場で働いている私たちがよく分かっている。その私たちができることは、専門性とは何かを考え、そして高めていくこと。そして、それを体系化し実際のケアに生かしていくことではないだろうか。
では、介護職の専門性とは何か。それを研修を通して考えていけたらと思う。

最期にスウェーデンでの例をひとつ。
スウェーデンでは、市(コミューン)によって福祉行政が異なった取り組みをしている。それぞれの市(コミューン)で決定し、財政を動かしてニーズに合わせている。それだけでも日本とは大きく異なるが、ある市(コミューン)では、高齢者にひとりずつ専門のヘルパーをつけている。ただの担当とは異なり、利用者とヘルパーがお互いに契約を交わし(契約書にサインして)、より良い生活のためにお互いの意見を交換してケアを決める制度がある。例えは、週に4時間の契約であれば、その4時間に何をしてもらいたいかを利用者が希望し、それに合わせてヘルパーがスケジュールを組み立て、お互いに納得したうえでケアをするのである。そこには日本のように、「草むしりはダメなの。そういう決まりだから」という言葉はない。利用者が望むことに対してヘルパーが援助することがケアなのである。当然だが、ヘルパーにはそれなりの権限と責任が与えられており、そのための研修も行われている。その市(コミューン)では、賃金も上げたそうだ。当然、皺寄せがいった分野もあるが。

このような状況は理想であり、目標でもある。しかし、私たちに権限があるということは、責任も発生することになる。その責任を負うためには、それ相応の知識や技術が求められることになる。
しかし、近い将来必ず日本でも近い形のケアが出来るようになると信じている。その時に、私たち介護職に求められるのは、幅広い視野と知識、そしてその中でもひとつ秀でる専門性なのではないだろうか。

槍玉にあげられた高齢者施設

2005-01-11 14:00:09 | 福祉雑記録
高齢者施設での集団感染のニュースが連日メディアをにぎわせている。発端は広島県福山市の特別養護老人ホーム『福山福寿園』での集団感染で、その結果7名の高齢者が亡くなることになった。その後も神奈川の老人保健施設、千葉県の特別養護老人ホームと相次いで死亡者が出ている。

今回の原因はノロウイルスであることが判明したが、全国的に蔓延しているという。
ノロウイルスとは、SRSV(小型球体ウイルス)の一種で、人の小腸でしか増えない特殊なウイルス。ウイルスに感染された生ガキなどの二枚貝や、これらを使った食品などから感染し、食中毒の原因となりやすい。感染力は強いが、通常は2、3日で回復するという。ただ、抵抗力が弱い乳幼児や高齢者だと悪化し、死亡する場合もある。主症状は吐き気、嘔吐、下痢、腹痛であり、発熱は軽度。感染者の嘔吐物や便を処理する際にウイルスが付着し集団感染する例があり、手洗いやうがいを念入りにすることが予防策となる。

このノロウイルス、今年だけが特別に蔓延しているわけではなく、毎年一定数の人が発症しているもので特別なウイルスではないという。ではなぜ今年は連日メディアに取り上げられているのか。
それは、福山市の『福山福寿園』の対応のまずさが大きな原因であろう。同じ症状で6日間で6名の死者を出しておきながら、「病気か自然死かわからなかった」と市町村に届出ることを怠っていた。対応をしっかりとしなかったために被害が拡大したのでは、と言われるのも無理はない状況を自分たちで作り出してしまったのである。また発覚したのが、おかしいと思った関係者からの匿名の通報だったことも不信感をあおる要因となっている。
この一連の不祥事ともいえる対応のまずさが、今回の高齢者施設での感染症にスポットを当てることになったといえる。普段ではニュースにならないと思われる死亡の事実を、施設名を出され毎日のように報道される結果になってしまった。まるで、高齢者施設が槍玉にあげられているかのようにみえてしまう。

しかし、原因はどこの施設にも多かれ少なかれある閉塞感にある。地域に開かれていなかったり、情報が開かれていないことが今回の不祥事に繋がっていることを考えれば、私たちも今一度身を引き締めなければならないだろう。
また、一度感染症が発生した時に、今の大部屋、大規模施設では感染が広がりやすい事実もある。衛生管理が行き届きやすいという面からも、これからの施設の小規模化が望まれることも頭に入れておく必要がある。

シリーズ デンマークの教育【番外編】 『世界一の義務教育 フィンランド』

2005-01-09 20:46:10 | 教育について
昨年末に教育関係者のみならず、日本中で話題となったのがPISAのランキングであった。
PISAとは「Programme for International Student Assessment」のことで、OECD(経済協力開発機構)が実施した調査で、日本では「学習到達度調査」と訳されている。2000年の調査で日本は読解が8位、数学が1位、科学が2位であった。
今回(2003年)はそこに問題解決能力が加わり、その結果日本は読解が14位、数学が6位、科学が2位、問題解決が4位となった。そのため、新聞紙面では「日本の読解力低下」と大きく報道されたのが記憶に新しいところだろう。

その中で注目されたのがフィンランドである。2000年では読解1位、数学4位、科学3位であったのが、今回の調査では読解1位、数学2位、科学1位、問題解決3位と義務教育で「世界一」の評価を受けた。そのフィンランドの教育現場ではどのような工夫がされているのだろうか。
フィンランドでは94年に教育の目標や内容の決定権が国から地方に移され、国は大まかなカリキュラムを示すだけになった。学習が遅れた子どもへの特別授業は慣習だったが、06年度から施行される新カリキュラムでは制度化されることになる。新カリキュラムでは、義務教育の小中一貫も明確にされる。生徒をテストでランク付けする仕組みがなく、現行制度では高校進学に影響する中学3年の成績を除き、成績をつけるための明確な基準もない。デンマークと共通する部分も多い。
学習内容は教科書の選択を含め、現場の教師が決めることになっている。「できるだけ子どもたちの生活と学習を関連させる。国語なら読み書きの正確さより、読んだ文章について考え、感想や意見をどう表現するかに重点を置く」とある先生は言っている。時間割も学習の進み方によって柔軟に変えられるような工夫がされているのである。

ある中学校では授業中、先生が説明中にもかかわらず生徒同士がお互いに席を離れ教えあう光景がみられるという。先生も了解のもと、クラスのルールとしてわからないことはまず生徒同士が教え合うことになっている。「一人ひとりが何ができて何ができないのかを自覚することが大事。出来ない子を教えれば、より理解を深められる」と先生。これがフィンランドでは標準的な考え方とのこと。
また、理解度に合わせた指導も一般的に行われている。例えば数学のクラスについていけない子どもは、自らの選択により別室へ移り学習進度に合わせた特別授業を受けることができる。そこで理解できるようになれば、またもとのクラスに戻っていくのである。デンマークでも同じことが行われている。デンマークでは、1クラスの中に3段階くらいのレベルがあり、どのレベルに入るかは教師だけの見解ではなく、生徒の希望も入る。移動も可能であるため、低いレベルに入ったことによる劣等感やいじめはないという。

今回の結果を受け、中山成彬大臣は以下のようなコメントを残している。
「― 歯止めをかけるために全国学力テストをやって、競い合う教育をしないといけない」
過当競争の弊害が叫ばれ偏差値をなくし、ゆとり教育として週休2日にし学習内容を削減してきた文部科学相の言う言葉だろうか。いかに日本の政治・制度が先を見ていないかが顕著に現れている。結局5年先も見越しすことができていないのである。
制度を見直すことが悪いと言っているのではない。自分の利害だけの政治はやめてほしい。

最期に、フィンランドの教育相の言葉から。
「― (フィンランドの教育は)平等が原則だが、子どもがみな一様に扱われることはない。能力が劣ったり、社会環境が恵まれない子には支援がある。教師は修士課程修了が原則。さらに国の予算で継続教育をし、教師の質の向上に努めている」

日本とフィンランドの違いはトップの一言にも現れている。そのトップを選んでいるのは私たちであることを忘れてはいけない。

参照:朝日新聞 (2004.12.19 朝刊)
    PISA(OECD生徒の学習到達度調査)2003年調査

まちづくりの視点の先に見えるもの

2005-01-07 19:43:08 | まちづくり
いよいよ介護保険の見直しの時期が迫っている。介護保険法が施行されてから初めての見直しとあって、各メディアもさまざまな角度からこの問題を取り上げている。
この5年間で見えてきた問題点をいかに修正し、よりよい法律にしていくのか。先行きはあまり明るくはなさそうだが、注目していきたい。

今回は直接介護保険に関わることではなく、それを取り巻くひとつの要因について考えてみたい。
介護保険を考えていくと、“地域”というのがキーワードとしてクローズアップされてくる。住み慣れた地域で最期まで生活していけるように、それぞれの自治体が工夫しサポート体制を作り上げようと努力している。しかし、“地域”と一言でいっても普段使い慣れていないため漠然としてしまい解りづらいように思う。そこで、「私たちが今すんでいる“まち”」と置き換えるといくらか解りやすくなるのではないだろうか。
“まち”という言葉には、自治体単位の意味から自分の家の周辺という意味までさまざまな意味があり、人それぞれで持つ意味合いが異なってくる。そもそも人によって“住み慣れた”と感じる範囲は異なってくるはずだし、法律により「ここがあなたの“地域”です」と押し付けられるよりも、「あなたの住み慣れた“まち”はどこですか?」というスタンスでいた方が間違いがないように思う。

介護保険上の施設生活にしろ在宅生活にしろ、そこだけの生活では孤立したものになってしまう。そこで大切になってくるのが、その両者を結ぶ“まち”の存在である。本当に住み慣れた地域での生活をサポートするとなると、施設か在宅かという単純な問題ではなくなり、それは“まちづくり”という視点にまで広げて考えざるを得なくなってくる。在宅で生活するということは、その人の家だけで生活するのではなく、買い物に出掛けるための商店や、通院する病院、散歩ができる環境、そこで会う人々やお隣さんの存在・・・などなど、これまでの普段の生活を継続できるようにするのが在宅生活をサポートするということである。
これから各自治体はサービスの充実を図るだけではなく、誰にとっても住みやすい“まちづくり”を進めていく必要がある。それは、単にバリアフリーにするということだけではなく、経済優先の区画整理や建物の乱立により景観を破壊することも止めていかなければならない。地方都市によくみられるのが、郊外に大型ショッピングモールを建設したため、昔から街の中心にある商店街が寂れてしまい閉店に追い込まれてしまう光景である。そして、街の中心に住んでいるのは昔から住んでいる住民で、その多くは高齢者なのである。住民にとってのコミュニティの場であった場所を、無計画な都市開発でつぶしてしまったため、行き場をなくした高齢者はデイサービスに通うしかなくなってしまう・・・。ひとつの例に過ぎないが実際にある光景であるし、取り返しのつかない大きな問題でもある。
私の住む街でも、寂れた商店街のいくつかの空き店舗を開放し、福祉のキーステーションにすることで商店街自体をデイサービスにしてしまおう、とNPO法人が取り組んでいる。同じような取り組みが全国各地にあるようだが、自治体の協力と企業の理解なくしては先には進んでいかないだろう。そして何より、私たちが“まちづくり”に対して意識をもち、少しずつでも声に出していく姿勢が必要になってくるだろう。

最期に本日の朝日新聞に、建築家の岡部明子氏へのインタビューで都市再生をテーマした記事が載ってたのでそこから・・・
「― 日本の都市の魅力は商店や町工場、住宅が適度に混在しているところだ。おかげで大都市でも比較的安全な空間が維持できた。それを壊し、勝ち組が集まる高層マンション群と、その他の空間とを分断するような都市づくりを進めれば、犯罪増加などの形でひずみが出かねない」

「― 衰退した中心部の空き地に高層マンションが次々を建っている。新しい街をどうつくるか住民の合意がないまま、マーケットまかせで街が変わっていく。これはもはや街ではなく、建物の寄せ集めでしかない」

「― 街のにぎわいは経済効果だけでなく居心地のよい空間をつくる。それを守るために住民、地元企業、商店街が協力することが大切だ」

“まちづくり”がうまくいかないと弊害が現れてくると建築の専門家も指摘している。ふと、私が前に勤めていた施設を設計した外山義先生が生きていたらどう思うのか聞いてみたくなった。