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福祉について考えるUMEMOTOのブログ

レジデンシャルケアとは何か

2005-08-31 08:02:21 | 福祉雑記録
すでに1ヶ月以上も前になるが、レジデンシャルケア研究(長野)会議に参加してきた。レジデンシャルケアという聞きなれない言葉ではあるが、すでに第5回を迎える会議で、参加者は800名ほど集まっていた。
「レジデンシャル」の意味は、そもそも「住居」「住まい」となっているが、これまでの日本では、「住まい」と「ケア」が一緒になる環境は「施設」しか考えられないような貧弱な環境にあった。そのため、「レジデンシャルケア」=「施設ケア」と訳している著作もあり、わが国においては新しい言葉であり、かつ理解されにくい部分が多分にあったことが伺える。
介護保険改正において「第三のカテゴリー」と呼ばれる特定施設や有料老人ホームなどの「新しい住まい」が位置づけられ、「地域密着サービス」のもとさらにその可能性が広がっており、ようやく「レジデンシャルケア」という言葉も現実味を帯びてきたような状況である。

「レジデンシャルケア研究会議」でいえば、介護保険が施行した2000年から福祉・保健・医療などケアのパラダイム動向を探るため、情報収集や多方面と議論をふまえて事業経営や運営、ケアのあり方など「レジデンシャルケア」の追求と制度政策への提案などを目的に年1回の会議を開催してきている(レジデンシャルケア研究会議レジュメより)としている。
今回は、介護保険改正を中心に、新しい住まいのあり方の紹介やケアマネジメントまで最新の情報満載で、言ってしまえば「何でもあり」の会議であり、それだけにまとまりのないものになってしまっていた。そもそも、まとまり自体を求めてはいないのかもしれないが…。

それでも随所に参考になる情報が散りばめられていた。新潟県長岡市にある高齢者総合ケアセンターこぶし園が小規模多機能施設を市内各地に配置して、住民の生活をサポートすることを目指したサポートセンター構想はこれからの地域福祉の新たな突破口になる可能性を十分に感じられた。実際に、震災で仮設住宅での暮らしを余儀なくされている住民をサポートする「仮設サポートセンター」も運営されており、本当に必要な人のための取り組みであることがわかる。阪神大震災でも住民互助の立場に立ったグループハウスがつくられるなど、本当に必要に迫られたときはそれ相応のサービスが提供されるのかもしれない。
また、興味深い数字として、日本における介護保険施設と第三のカテゴリーである特定施設や有料老人ホームなどの割合を他の国と比較したものがある。要介護者の人口に対する介護保険施設の定員の割合は3.2%で、外国(英国、スウェーデンは3%、デンマーク米国は5%)と比べても遜色ない数字となっている。それに比べ、シルバーハウジング、高齢者向け有料賃貸住宅、有料老人ホーム、経費老人ホーム、グループホームなどを含めた数は0.8%とごく僅かで、各国の5%台と比べると大きく水をあけられている。ちなみに、英国のリタイアメント・ハウジングが5.0%、スウェーデンのサービス・ハウスが5.6%、デンマークのサービス付高齢者住宅・高齢者住宅が3.7%、米国のリタイアメント・ハウジングが5.0%となっている。日本には高齢期になってから、家を住み替えるという発想があまりなかったためこのような数字になっているが、これからは当然ニーズは増えてくるだろうし、住み替えという発想も特別なものではなくなってくるだろう。
当然これからの流れとしては、これ以上施設を作るのではなく「新しい住まい」が主流となり増加することが考えられる。現在でもこれまで福祉とは関係のなかった業種の参入が目立っている中で、ケアの質をいかに保っていくのかが課題となるだろう。また、家賃の補助をどのようにしていくかも課題となる。ただ単に各国と数字を一緒に合わせても、お金持ちしか入ることができないようではしょうがない。スウェーデンやデンマークでは、低所得者の家賃補助がしっかりしており、部屋代がほとんどかからないうえに、2LDKくらいの部屋に住むことが可能になっている。わが国の8畳一間ユニット型個室の6万円(最大)の居住費と比べてみると、質・量ともに悲しいほどの差がある。
今後、新型特養のハードがスタンダードになり、お金がよりある人は「新しい住まい」に引っ越すことができるような体制(低所得者への補助など)を構築することが望まれる。

認知症か痴呆か

2005-08-21 10:54:45 | 認知症
昨年12月に“「痴呆」に替わる用語に関する検討会”が痴呆に変わる言葉として、「認知症」という新たな言葉を提示した。これは、痴呆という言葉自体に侮蔑的な意味があったからで、その経緯はこれまでもさまざまなところで紹介されているので、ご存知の方も多いだろう。そして、今年4月からは行政用語としても「認知症」で統一されることになった。これからは、法律からはじまりすべての書類が認知症と記載されることになったのである。

しかし、その裏で今だ「痴呆」という言葉が横行している世界があることをご存知だろうか。それは学術会である。
もともと認知症ということばが行政用語になる時に、但し書きとして学術用語としては別であることが明記されている。つまり、学術用語としては「痴呆」という言葉を使い続けてもよい、ということである。
なぜ、そうなっているのかはいくつかの理由がある。そのひとつが「症」という使い方にあるという。これまで「症」と使う時は、「高血圧」⇔「高血圧症」、「脳血栓」⇔「脳血栓症」などと「症」付けても付けなくても同義語として理解されるというルールのうえで使われていた。しかし、「認知」という感覚機能と「認知症」という言葉はまったくの別ものになってしまい、これまでの医学会のルールを完全に無視しているのだという。そのため、「認知(機能不全)症」として読み替えることができるならば、その短縮形として「認知症」でもよいのではないかという意見もあるようだ。
また、もうひとつの理由として、検討委員会の中に老年精神医学会や日本痴呆学会などの学術会からの参加がなく、事前にどのような言葉がよいかの聞き取りもなかったことがあるらしい。簡単に言ってしまえば、ないがしろにされプライドを傷つけられたということだろう。

ケアの現場に働く私たちにしてみれば、大したことではないように思えてしまうが、“先生”方にとってみれば重要なことなのかもしれない。しかし、学術会でも痴呆という言葉自体は相応しくないという意見は一致しているようで、それでも新しい言葉を考えてこなかったことに怠慢を感じてしまうのは私だけだろうか。
しかし、学術会の中でも変化はあるようで、老年精神医学会では今年度中に「認知症」で言葉を統一することになるという。その他の学会でも随時検討していく動きにあるようだ。

認知症の患者を真っ先に診断する医師が、学術用語として「痴呆」という言葉を使い続けていると、患者と接したときにも痴呆という言葉を話してしまうのではないか。そして、言葉自体に侮蔑の意味があることを理解しているのであれば、その時に患者に少しでも不快感を与える可能性はないのだろうか。人間と向き合う職業としての判断を期待したい。

デンマークの抑制論

2005-08-14 22:53:33 | ノーマリゼーション
先日、デンマークの『認知症コーディネーター』の人の話を聞く機会があった。認知症コーディネーターとは、認知症の人やその家族をサポートし、利用するサービスのコーディネートから必要によっては入所施設(主にグループホーム)の選定などをおこなう専門職で、ドクターや行政などの橋渡しにもなる役割をもっている。日本でいう認知症専門のケアマネージャー兼ソーシャルワーカーのようなもので、専門的な養成課程を経てなることができるデンマークの資格である。

その話の中で、デンマークにおける近年の不安要素は、2000年頃に策定されたある法律だという。これまで、デンマークを含め欧州では、個人の人権というのが非常に重視されてきた。欧州各国で、人々が自らの手で人権を獲得してきた歴史的経緯をみれば納得できるだろうが、本当の意味での民主主義が根付いている国が多い。
そのため、ケアの現場においても、これまでは抑制・拘束に対しては非常に厳しい状況であった。具体的には刑法において、どんな場合においても抑制・拘束をおこなってはならず、おこなった場合は刑法による罰則まで決まっている。そのため、認知症の人をケアするグループホームなどでは、どんな状況でも外に出ようとする人を止めることができず、また他の入居者に対して危害を加えようとしたときにも対応に苦慮することが多かったという。
そのため数年前に、一部の状況においては抑制・拘束を認めるように刑法が改正されたのだという。つまり、現状に即した形に法律が改正されたということになる。

日本のまったく逆の展開である。
日本においは、これまで抑制・拘束をしてきた歴史があり、数年前の平成10年頃に抑制廃止『福岡宣言』が出されたことにより、本格的に抑制はなくす方向に動き始めている。介護保険導入も大きな契機になったことは言うまでもない。
デンマークにおける小さな不安は、刑法の改正により抑制・拘束をする状況が進んでしまうのではないかということだろう。
私からみれば、民主主義の合理的な部分があらわれただけで、これまでの人権尊重の歴史が崩されることはないと思うのだが、当のデンマーク人はそうは感じていないのだろう。
心配はいらないと思うが、これからの動向にも注目したい。

どこへゆく?障害者自立支援法案

2005-08-09 21:35:52 | 福祉雑記録
遂に、というかとうとう衆議院が解散してしまった。小泉総理が「郵政解散」が言っているように、郵政改革関連六法案が目玉だった今延長国会。しかし、その影で障害者自立支援法案も着々と審議されていたのである。
法案の中身は是非はともかく、ゆくゆくは介護保険との一体化という規定路線に乗った法案は、さまざまな反対運動をも飲み込んで成立目前まで漕ぎつけていた。しかし、たった一人の政治家の一言で今国会での成立はもうない。

衆議院を通過してはいたものの、まだ参議院を通過していなかった法案は、次の国会でまた最初からのやり直しになるとのこと。障害当事者からはあまり望まれていなかった法案ではあったが、これまで必死になって成立のために努力してきた厚労省の官僚にとっては、相当のショックらしい。障害者のことを自分のこととして捉えられない議員先生のために、必死に根回しをしてきた官僚の努力は水の泡になってしまった…。そんな泣き言まで聞こえてくるほどである。来期の国会で再度法案を提出しても、根回しは最初からなのだから。

9月11日の投票日、私たちにできることは、障害者のことを自分の問題として捉えることのできる人へ投票することぐらいかもしれない。

性善説か性悪説か?

2005-08-03 09:14:40 | 教育について
義務教育の場ば大きく変わろうとしている。7月30日文部科学省は、公立小中学校が自らの裁量で学級編成を行えるように制度を改正する方針を固めた。
これにより、個々の学校が、学年ごとに学級の人数を変えたり、不登校対応に専念する教員を置いたりするなど、さまざまな問題を抱える実情に合わせて対応できるようになる。
これまで、都道府県が県一律の学級定数を決め、市町村が学級編成をおこなっていたのに対し、今回の改正案では市町村が学級定数を決め、各学校で学級編成をおこなえるようになる。
つまり、権限委譲であり、分権の流れにのった対応といえる。今までの大きな枠組みでは対応しきれない問題が増えてきたことの表れでもあろう。

それに対し、義務教育費においては分権の方向性は未だみえてこない。昨年より全国知事会などの地方団体は、国と地方の税財源を見直す「三位一体改革」の一環として、義務教育費の国庫負担を廃止し、税源と一緒に痴呆に移してほしいと求めてきた。金銭面での分権も進めようということである。
しかし、これまで国庫負担があるからこそ大きな顔をしてこれた国にとっては、税源を委譲することは、自分たちの発言権を失うとして反対をしている。国の言い分としては、これまで国が教育に責任をもってきたことで、世界でもトップクラスの教育水準を確保できたということがある。これまでの国のかかわりをすべて否定するつもりもないし、確かに全国一律の教育を提供してきたことの意義はあっただろう。しかし、その体制に限界がみえてきてたことも明らかである。

そんな中、全国知事会の意見に反して、国庫負担の継続を求める声がある。その代表が東京都の石原慎太郎知事と長野県の田中康夫知事である。田中知事が言うには、税源を委譲したところで、その税金がきちんと目的通りに使われる保障はない、というのである。今までの自治体のずさんな財政運営を批判しており、知事の発言としてはいささか過激だが、これまで長野県において、真剣に県議や県職員と向き合い、ぶつかり合ってきた田中知事だからこその言葉でもある。
税源を委譲することは聞こえはいいが、それがすぐに分権につながるほど今の役所の体制はできていない、といういわば性悪説である。きちんと国が責任をもっていくべきだ、と。

しかし、そんなことを言っていては、分権は一向に進まないのも現実である。地方分権は構造そのものを変える「構造改革」であり、4年くらい前に小泉首相が「―痛みを伴う」としきりに言っていた通り、その過程では大きな意識変革が求められ、大きな痛みも伴うものである。
それぞれの思惑が絡み合っている現状を打破しなければ、構造改革は進むことはない。地方分権自体は多くの人が賛成するところであり、方向性も間違ってはいない。その方向に向かって、皆が一旦利害を捨て、痛みを受ける覚悟を持って改革に当たる必要がある。

私たち日本人にそれだけの意気込みと力がある、という性善説を信じたい。