What’s ノーマリゼーション?

福祉について考えるUMEMOTOのブログ

ハンドル型車いす利用拒否について考える。

2004-12-17 21:12:49 | ノーマリゼーション
今日のニュースで、JR東海が列車や駅でのハンドル型車椅子(スクーターのようなもの)の利用を一律で拒否していることが重大な人権侵害にあたるとして、大阪法務局より改善勧告が出されていることがわかりました。
事の発端は、昨年2月にハンドル型車椅子を使用している男性(62歳)が新大阪駅内にあるJR東海の駅長室を訪ねようとしたところ、構内に入れてもらえなかったということです。

ハンドル型車椅子は現在約6千人の利用者がおり、街中でも高齢者が乗っているのを見かける機会もあります。それだけ浸透している移動手段として、国土交通省でも駅での利用が可能になるように、順次バリアフリー化を行っている矢先の出来事だといえます。
ハンドル型車椅子の何が問題とされているかというと、その回転半径がスティックで操作するタイプの電動車椅子より大きくなってしまうということです。JR東海側としては、狭い車内や駅構内で移動するのは困難などの理由で利用を認めていませんでした。

今回何が問題だったのか。それは、JR東海の職員の意識、ひいては私たちの障害者を人事としか思っていない感覚のせいではないでしょうか。障害をもっている方の生活、移動の手段にあまりにも無関心すぎた結果が今回のことにつながっているように思えます。
なぜ駅の構内に入れることさえさせなかったのか。確かに、移動が困難な駅や車両はあるでしょう。しかし、全部の駅・車両がそうではないはずです(現にJR各社では対応を行っているのですから)。今回のような申し出があった時に、駅員がひとり付き添って安全を確保するということもできたはずです。できなければ、人員不足などの理由を伝えるべきでしょう。しかし、それすらもしなかったというのは、会社が決めているからという理由に過ぎないからでしょう。今回の男性も言っているように、「移動の自由は基本的な人権だ」という当たり前のことを、“障害”“車椅子”という価値観のフィルターを通して見てしまったために、見過ごしてしまったのではないでしょうか。
何も全部の施設で利用を認めないとする必要もないし、少しでも利用してもらえるように可能な部分から少しずつでも開放する努力をしなかったのは、配慮がなさすぎると言われても仕方のないことです。

私の知り合いで、車椅子を使用している人がいるのですが、その人の話。
現在、車椅子の方が電車を利用する時、その駅がバリアフリー化されていないと、駅員が車椅子を載せたまま階段を上り下りできるキャタピラーの付いたリフトで移動を手伝ってくれることになっています。降りる駅の駅員もその情報を受け、ホームで待っています。
ある日、その人がちょうど朝の混雑している時間に電車を利用しようと駅に行くと、駅員が露骨に嫌な顔をしてこう言ったそうです。「何もこんな忙しい時間にこなくてもいいのに。」皆さんはどう思いましたか。車椅子に乗っている障害者は、健常者に気を使って朝のラッシュアワーを避けるべきでしょうか。障害者は電車を使わずに、車で移動するべきでしょうか。障害者の時間の都合はまったく関係ないのでしょうか。
駅員の無理解、それに輪をかける私たち健常者の無理解が今回のニュースにつながっているように思えて仕方がありません。

最後にもう一人の障害をもっている方の話。
ある日、左半身に軽い麻痺がある方が駅のエスカレーターに乗っていた時、後ろから「何で右側に立ってるんだよ!」とボソッと言われたそうです。エスカレーターに乗るとなぜか左側に立つということが当たり前になっていて、それがマナーのようになっています(関西では逆)。しかし、世の中には右側にしか立つことのできない人がいます。私たちはそれを忘れていないでしょうか。そういう人がいることを知っているでしょうか。
もう一度、考えてみてはいかがでしょう。

シリーズ デンマークの教育⑤ 『国民学校:教育の義務の場で・・・Ⅱ』

2004-12-15 17:53:38 | 教育について
前項の①では、デンマークにおける「教育の義務」の場である「国民学校」の概要をおおまかに記しましたが、今回は実際にどのような教育や工夫が行われているかについて紹介したいと思います。

デンマークでは、1年生から9年生まで同じ先生が担任となります。一人ひとりの顔がみえる少人数(1クラス最高28人)の単位でみることによって、子どもたちは学校での居場所、安心感を感じることができ、そのためいじめや不登校などがほとんどみられないそうです。
さらに、余裕のある学校では、親から事前に入学する生徒の個性を確認することをしています。入学後も、親との面談は5回/年にも及ぶとのこと。単純に比較しても、日本とは親とのかかわり方が違うのがわかります。

同じ先生が9年間もひとつのクラスを担任するということは、それだけ先生にかかる負担が大きくなると同時に、その資質も問われてくることになります。これは後の項でも詳しく触れますが、デンマークでは、先生になるためには、高等学校を卒業後さらに「上級専門学校」(日本における大学のようなもの。大学も別にある。)に進む必要があります。そこに入学するためには、入学試験ではなく、職場経験や海外旅行の経験などさまざまな人生経験が求められます。そのため、入学時の平均年齢は25歳前後で、初任教師の平均年齢は29歳前後ということになります。日本のように大学新卒の22歳の若者が担任になるということはなく、ある程度の人生経験を積んだ者が先生になるのです。
また、日本との大きな違いは、教師になる人も民主主義の教育をきちんと受けているということです。そして、生徒の親も民主主義の教育を受けているので、日本のように先生に対して一任してしまう(文句だけは言いますが・・・)ことはなく、主体的に学校にかかわるようになります。

デンマークでは地方分権が確立されています。そのため、「国民学校」は各地方自治体が運営しています。日本のように、都道府県教育委員会があり、その下に市町村教育委員会があり、学校に目を光らせているということはありません。各学校にある理事会が運営していくことになります。
理事会の構成メンバーは、【親の代表6名、生徒代表2名、先生代表2名】という構成です。この構成をみても、教師の意見より実際に利用する生徒やその親の意見が反映されやすいのがわかります。理事会の下には生徒会があり、これは各クラスの代表2名から成り立ちます。生徒会の下には各学級委員会があるのです。
例えば、学級委員会で「休み時間は皆外に出て遊ばなくてはダメですか?」という意見が出たとします。学級委員会では、「外に出なくてもいい」というように決まれば、その意見を生徒会に持っていきます。しかし、生徒会では「休み時間は外に出て体を動かすことが大切」というようになれば、全校生徒がそれを守ることになります。意見を出すことは自由ですが、それに伴う責任として、決まったことに対しては皆で守っていくことが求められるのです。その他にも、「砂場の砂を新しく変えて欲しい」や、「校庭に遊具を増やして欲しい」などの意見が出て実際に承認されたりしています。

カリキュラムづくりにも工夫がみられます。先生がカリキュラムをつくる時には、まず生徒の知識がどのくらいあるのかを把握します。そして、生徒との合意によって授業を進めていくのです。デンマークの授業は、対話によって進められていくのが当たり前なので、授業風景は常に生徒の声が響いています。先生が一方的に話して聞かせることはないのです。そのため、理解していない生徒がいればわかりますし、その生徒のために教室にいるもう一人の補助の先生が個別に対応をします。
年に4回(1週間/回)は、「テーマデー」というカリキュラムがあり、そこでは学年・クラスの枠を超えて集まったチームが1つのテーマに対して調べ、発表することに取り組みます。このような授業をすることで、自主性を育てるのはもちろん、上級生が下級生の面倒をみる構造が生まれ、それがいじめが少ないことにつながるそうです。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」

シリーズ デンマークの教育④ 『国民学校:教育の義務の場で・・・Ⅰ』

2004-12-02 21:36:11 | 教育について
今回は、デンマークにおける「教育の義務」(デンマークでは「義務教育」とは言わずに「教育の義務という。前項参照)の期間における教育の場、「国民学校」について触れたいと思います。

デンマークでは、小中学校の区別がなく1年生から9年生までが国民学校の生徒ということになります。9年生は、日本の中学3年生にあたります。
1学級の定員は最高28人とされています。これは、あまり多い人数だと生徒一人ひとりに目が届かないということなのでしょう。例えば、ある年に30人の入学者がいたからといって、1学級でで間に合わせることはできません。その場合は15人ずつ2クラスにしなければならないのです。
先生は、入学前準備にあたる0年生(幼稚園と小学校の間の1年間)の後半1/3を含め、1年生から9年生までの9年間を同じ先生が担任します。これは、なるべくかかわる先生を少なくするという学校の方針によるものでもあります。少人数・顔なじみの環境をつくることで、生徒は学校における安心感を得ることができ、いじめや不登校にもつながらないといいます。
また、前項の『障害者教育』でも触れましたが、国民学校では障害をもった子どもの受け入れも行っています。障害をもった子どもを受け入れることは、他の子どもにとって障害の理解につながると考えられています。例えば、聴覚障害をもった子どもの場合、子どもには補聴器を与え、先生は専用のワイヤレスマイクで直接声を生徒に届けるという工夫をしています。受け入れるからには、しっかりとした環境を整備しているのです。もちろん、国民学校ではなく、障害に適した学校でもいいのは言うまでもありません。

授業は生徒の個性に合わせて進められるので、全員に同様な試験を課すようなことはしていません。試験がないので当然点数もつかないので、人間の差を点数で教えるということにもなりません。まして通知表なども存在しないので、ご丁寧にも「あなたは何人中何番ですよ」と人間としての価値を順位で教えることもありません。
日本で調査をすると、約半数の人が偏差値はあったほうがいいと答えるそうです。子どもの頃から競争原理における教育を受けてきて、落ちこぼれずにきた人たちにとってはそれでもいいでしょうが、そこから外れてしまった人たちにとっては偏差値は何の救いにもなりません。そして、そんな教育を受けてきた人たちが親になると、自分の子どもにも同様の教育を望むようになってしまうのも無理はないかもしれません。
国民学校の9年間の教育期間を通じて試験を課せられるのは、最終学年の9年生のみです。この試験は国が行う統一試験ですが、決して席次を決めるためのものではなく、進路への参考とするものです。そのため生徒が希望しなければ、この試験も受けなくてもよいことになっています。
試験はないと何度も言いましたが、テストは存在します。しかし、試験と違いその結果により進級ができなかったり、人間の価値を試験の結果の順位で決めるというものではなく、ただ生徒の能力を先生が把握するためのものとしてあるのです。

デンマーくの教育基本法は、民主主義を教えるということを第一に考えています。国民に、民主主義の中で大事な人間として平等という概念を身に付けさせるためには、国民全員が受ける「教育の義務」の場において、「人よりも人よりも」という競争原理の教育をするのではなく、人に差をつけないような教育をするべきではないでしょうか。

参照:千葉忠夫「デンマークの教育調査 福祉国家デンマークの教育 ~日本の福祉教育への提言~」