What’s ノーマリゼーション?

福祉について考えるUMEMOTOのブログ

地域づくりとネットワーク

2006-12-09 20:51:30 | まちづくり
地域のつながり(コミュニティ)が希薄になってきていると言われている。『向こう三軒両隣』、『トントントンカラリっと隣組/障子を開ければ顔なじみ』という言葉にみられるような地域の繋がりは、大都市圏に行けば行くほど薄くなっていると感じる。
昔からの農村部などでは、今でも住民相互の互助の意識は強く、さまざまな活動が展開されているが、集合住宅や新興住宅街では隣近所の住民と挨拶をすればよいほうで、誰が住んでいるのか分からないということも多いだろう。

戦後、欧米から民主主義と個人主義という概念が入ってきたことで、個人の権利ばかりを主張する機会が多くなってしまったことも無関係ではないだろう。
自分の生活さえなんとかなれば、他人からとやかく言われる筋合いはないという意見もあるだろう。『自己責任』という言葉が持て囃されるのも、このような時代背景が関係している。

そのような中、新潟県見附市では、要援護者の避難訓練に力を入れている。2004年7月の「新潟豪雨」で出た死者15人のうち、12人が65歳以上の高齢者だったことを受け、自主防災会が立ち上がっている。住民一人ひとりが自分たちのこととして考え、取組んだ結果が「サポート員」という体制で、災害時にはそれぞれ事前に定められている担当の家に直行し、要援護者の避難誘導を援助することにしている。
災害により、要援護者や高齢者が被害にあうことは少なくない。その時に毎回のように話題になるのが、地域住民の関係の希薄さである。そもそも、どこにどのような高齢者がいるのかも分からなくなってしまっていることが多い。
災害対策は行政の仕事であると考える人もいるかもしれない。確かに、基本的なことは行政がしっかりと体制を整えなければならないが、全員を非難誘導できるわけではない。最終的には住民の自助努力であったり、相互扶助であったりするのである。それは福祉に関しても、まったく同じことが言える。

新潟県見附市のように、実際に被害にあったところでは取り組みが始まっている。その他にも、孤独死が問題になった地域では、孤独死をなくすためのネットワークが動き出しているし、認知症の人が徘徊の末、亡くなってしまった地域では捜索・発見するためのネットワークが作られている。最近では、登下校の子どもたちを見守る保護者や住民のネットワークも多いのではないだろうか。
それらは、既存のネットワークを活用しているところもあるだろうし、新たに形づくられたところもあるだろう。

コミュニティが無くなって久しいと言われているが、だからといって簡単に作り出せるものではない。コミュニティを作るということは、とても大きなエネルギーが必要である。
農村部や昔からの住宅地では、親の代からネットワークが形づくられ、そこで生まれた子どももネットワークが始めからネットワークの一員になる。しかし、新興住宅街では、その関係を一から作らなければならない。自然、共通項(同世代、子育て等)があるところでしかネットワークが作られないし、それ以上広げるエネルギーは費やすことができないのが現状である。

ネットワークは全員がつながらなければならないものではない。興味のある人、関係者が形づくればよいのである。目に見えないため、実感としては乏しいが、さまざまなネットワークが現存しているはずである。また、地域によってニーズはさまざまであるため、そのニーズに対して、既存のネットワークを強化することで対応できることがまだまだあるのではないだろうか。

地域のニーズと、ネットワークのリーダーにきちんと光を当てることが地域づくりの第一歩になる。

老人クラブとシニアSOHO

2005-12-18 17:07:46 | まちづくり
SOHOという言葉がある。SOHOとは、『Small Office Home Office』の略で「小さいオフィス、家庭事務所」といった意味がある。
シニアSOHOというのは、退職した高齢者になろうかという人たちが、自分の得意分野で仕事をするというもの。
東京都の三鷹市では、元気な高齢者(高齢者というには失礼なくらい)がシニアSOHO・三鷹という枠のなかで第二の職場として働いている。

以前から、地域の活動として高齢者が加入するものに“老人クラブ”がある。各地域に会長さんがいて、地域の活動を積極的にしており、時にはゲートボールなどもしている姿をよく見かけるかもしれない。市町村から活動費をもらっていはいるものの、その活動のほとんどはボランティアである。
しかし、現状は加入者が少なく老人クラブの数も減ってきている。他人との関わりが希薄になってきたことや、“老人”という言葉が与える印象など理由はさまざまであろうが、一言で言ってしまえば魅力がなくなってきているのかもしれない。
仕事を退職し、ようやく地域のために何かやろうとしたときに、60歳の人が老人クラブに入ろうとするだろうか。これから団塊の世代の人たちが一斉に退職する時代がすぐに来るが、老人クラブに加入するとは思えない。しかし、ボランティアをしたいという気持ちを持っている人は少なくないはずである。そのときに、どんな受け皿を用意できるのか、地域に大きく問われてくるのである。

先に述べた、シニアSOHOは行政や一般市民より仕事を請け負い、有料で活動をしている。ボランティアで行うことは無い、という。それは、実際に代価に見合うものを提供する責任にもなるからだという。とはいっても、行政などから請け負う仕事は制度の隙間を埋めるようなものが多く、多くの収入は望めない。それでも退職後、自由にやりがいを持って働くことができるとあって、会員は700人を超えるという。
連絡の手段はIT。メーリングリストを使い、瞬時に多くの人が情報を共有していく。活動の幅は広く、毎日7~8のミーティングがどこかで開催されている状況だという。
こうして、三鷹市では多くのシニアが地域の中で活躍しているのである。

三鷹市では、シニアSOHOを地域づくりの一環として応援している。都心のベッドタウンである三鷹は面積の9割が住宅で、今後急速に高齢化が進むことが予測される。そのときに、ただ自宅で過ごす高齢者が増えると税金収入が減り、老人医療費が急速に伸び、市の財政を圧迫してしまう。
シニアSOHOとして、元気な高齢者が地域で活発に活動し収入も得ることで、上記の不安も解消できるというわけだ。

すべてが有償でできるわけではなく、ボランティアの持つ意味はとても大きい。だからこそ、ボランティアをしたいと思ったときにすぐに出来る環境や、さまざまなメニューを用意することが大切である。そこにもう少し力を入れていく必要があるだろう。
しかし、継続性や専門性を求めるとき、ボランティアで対応していけるのか懸念は残ってしまう。そんなとき、退職男性の知的能力をくすぐるシニアSOHOという考え方は、これからの地域づくりに一役も二役も買う存在になるのではないだろうか。

隣組(となりぐみ)からみる「まちづくり」

2005-06-15 21:11:05 | まちづくり
私の住む地域には隣組(となりぐみ)という制度がある。地区ごとに公民館があり、その公民館の下にいくつもの隣組がある。一つの隣組が20戸くらいからなっている。
地域の行事(運動会、草取り、清掃、ゴミ当番など)は隣組単位でおこなうため、自然と隣近所と顔を合わせる機会が多くなる。
このような制度は古くからあるもので、名前こそ違うがどこの地域にも同じようなものはあるだろう。マンションなどの管理組合も、その一つとしてあげられるかもしれない。ただ、近年都市部では参加しない世帯も多いと聞く。核家族化が進んだためもあるだろうし、人付き合いの仕方そのものが変化してきているのかもしれない。

先日、近くを散歩していると、老夫婦が道端に座っていた。近づくにつれ、女性のほうが大きな声、大きな動作で道を歩く人に声をかけていることがわかった。かなり有名な人のようで、近所の人は皆その人のことを知っているようだったが、知らない人は関わらないように通り過ぎていた。もしかしたら認知症をかかえているのかもしれない。
近所の人は立ち話で、大きな声を出して迷惑だ、という話をコソコソとしていたので、実際に困っているのだろう。しかし、確実にその地域には受け入れられているようにも感じた。隣組がこんなところにも活きているのかもしれない。

「隣近所にどんな人が住んでいるか分からずに恐い」と言っているのを聞くが、それは「どんな人が住んでいるか分からないから恐い」と言い換えることができる。つまり知ってしまえば、恐さもなくなるかもしれない。
そのためのツールが隣組だといえる。そして隣組は、その地域を支えている最少単位の自治組織なのである。まちづくりとして取り組む時、既存の自治組織をいかに活かすかを考えることが重要である。逆に、そこに手をつけずにまちづくりは成り立たないだろう。

今年初めにニュースになった、民生・児童委員の担い手が不足しているのも、近所付き合いの希薄さが大きく影響している。自治組織に参加しない世帯が増えている一方で、もしかしたら入れ替わる住民に対応できるだけの自治組織の運営ができていないところもあるかもしれない。そうであるなら、ぜひ各市町村は既存の自治組織の運営に協力してもらいたい。
市町村と自治組織の関係は、相互関係であることが望ましいし、今後はそのような関係がより求められてくるだろう。個人よりも自治組織のほうが、行政に対しての発言力があるのも事実である。そして、今叫ばれている行政改革でも、自治組織の存在は、監視役としても大きな役割を担うはずである。

福岡県大牟田市では、既存の自治組織を活かした地域ネットワーク『はやめ南人情ネットワーク』というものがある。これは、地区の地域住民を中心に、老人会や小学校、福祉施設、商店などが「地域の中で安心して徘徊できるまちづくり」をめざすために協力しており、実際に徘徊模擬ネットなどの取り組みもある。子どもたちにも積極的にかかわってもらうなどして、高齢者だけではなく子どもたちの安全にも大きな役割を果たすネットワークになりつつある。
まだ2年目の新しい取り組みではあるが、その根底をささえているのは、これまであった既存の自治組織なのである。『はやめ南人情ネットワーク』については、別に詳しく記すことにする。

街(まち)の再生に向けて

2005-05-17 12:21:23 | まちづくり
昨日(5/16)の朝日新聞の朝刊に『中心街再生へ 国基金』という記事があった。空洞化が深刻な地方都市中心部へ人を呼び戻すため、国土交通省が『街なか居住再生ファンド(基金)』を6月に立ち上げることを決めたもので、市町村が定める地域に50戸程度の賃貸マンションを建てる場合、総事業費の3割を上限に出資することになる。

多くの地方都市では、その中心街にある商店街が日中からシャッターを降ろしている姿がみられる。その主な要因は、都市部に人が流れることによる人口減少と、1970年代からの車社会到来による都市郊外化である。
地方都市の人口減少に歯止めをかけるために、地方独自の産業の活性化を図る取り組みや、福祉を新たな産業とすることで雇用を生み出す取り組みなど、様々な取り組みが行われている。
都市郊外化においても、90年代後半から一気に広がった大型商業施設についても、建設を抑える方向に政策を転換しつつある。しかし、未だに都市中心部の地価は高く、建物も建っているため、新たな商業施設や住宅の建設には高いハードルがあるため、実際には成果はあまりみられていなかったようだ。
そこで今回の基金は、費用面からのサポートということになる。中心街に人が住めば、買い物などのニーズが生まれ、商店街も以前の姿を取り戻すことができるかもしれないということだろう。

英国やドイツでは、日本より30年も早く、郊外から撤退し中心地に住民を集める都市再生の取り組みが始まっている。郊外に延びた上下水道や道路などのインフラを維持するためには費用がかさむ。財政負担を抑えながら、住民の高齢化や環境保全といった課題にこたえる成熟した街づくりが行われている。
日本の地方都市の中にも、商店街の空き地や空き店舗などを利用して、市民がお年寄り向けの福祉活動などに使う拠点を整備する「歩いて暮らせるまちづくり」に取り組むところもある。
この「歩いて暮らせるまち」というのは、高齢者だけでなく、障害者や子どもなど様々な人にやさしく、望まれているのではないだろうか。
例えば、電動車椅子を利用している人が、車移動を前提とした郊外の大型ショッピングセンターに行くためには、大きな国道やバイパスを通る必要があり、移動に時間がかかるうえ危険を伴うことになる。これは、車を運転できない人や子どもたちにも当てはまる。

街(まち)を辞書で引くと、
 ― 住宅や商店が多く人口が密集している所。商店の並ぶにぎやかな場所。(大辞泉)
とある。
これから私たちは、街(まち)が再生し、そこに様々な人たちが安心して生活することの出来るように、経済だけにたよらない「まちづくり」を考えていく必要があるのではないだろうか。

まちづくりの視点の先に見えるもの

2005-01-07 19:43:08 | まちづくり
いよいよ介護保険の見直しの時期が迫っている。介護保険法が施行されてから初めての見直しとあって、各メディアもさまざまな角度からこの問題を取り上げている。
この5年間で見えてきた問題点をいかに修正し、よりよい法律にしていくのか。先行きはあまり明るくはなさそうだが、注目していきたい。

今回は直接介護保険に関わることではなく、それを取り巻くひとつの要因について考えてみたい。
介護保険を考えていくと、“地域”というのがキーワードとしてクローズアップされてくる。住み慣れた地域で最期まで生活していけるように、それぞれの自治体が工夫しサポート体制を作り上げようと努力している。しかし、“地域”と一言でいっても普段使い慣れていないため漠然としてしまい解りづらいように思う。そこで、「私たちが今すんでいる“まち”」と置き換えるといくらか解りやすくなるのではないだろうか。
“まち”という言葉には、自治体単位の意味から自分の家の周辺という意味までさまざまな意味があり、人それぞれで持つ意味合いが異なってくる。そもそも人によって“住み慣れた”と感じる範囲は異なってくるはずだし、法律により「ここがあなたの“地域”です」と押し付けられるよりも、「あなたの住み慣れた“まち”はどこですか?」というスタンスでいた方が間違いがないように思う。

介護保険上の施設生活にしろ在宅生活にしろ、そこだけの生活では孤立したものになってしまう。そこで大切になってくるのが、その両者を結ぶ“まち”の存在である。本当に住み慣れた地域での生活をサポートするとなると、施設か在宅かという単純な問題ではなくなり、それは“まちづくり”という視点にまで広げて考えざるを得なくなってくる。在宅で生活するということは、その人の家だけで生活するのではなく、買い物に出掛けるための商店や、通院する病院、散歩ができる環境、そこで会う人々やお隣さんの存在・・・などなど、これまでの普段の生活を継続できるようにするのが在宅生活をサポートするということである。
これから各自治体はサービスの充実を図るだけではなく、誰にとっても住みやすい“まちづくり”を進めていく必要がある。それは、単にバリアフリーにするということだけではなく、経済優先の区画整理や建物の乱立により景観を破壊することも止めていかなければならない。地方都市によくみられるのが、郊外に大型ショッピングモールを建設したため、昔から街の中心にある商店街が寂れてしまい閉店に追い込まれてしまう光景である。そして、街の中心に住んでいるのは昔から住んでいる住民で、その多くは高齢者なのである。住民にとってのコミュニティの場であった場所を、無計画な都市開発でつぶしてしまったため、行き場をなくした高齢者はデイサービスに通うしかなくなってしまう・・・。ひとつの例に過ぎないが実際にある光景であるし、取り返しのつかない大きな問題でもある。
私の住む街でも、寂れた商店街のいくつかの空き店舗を開放し、福祉のキーステーションにすることで商店街自体をデイサービスにしてしまおう、とNPO法人が取り組んでいる。同じような取り組みが全国各地にあるようだが、自治体の協力と企業の理解なくしては先には進んでいかないだろう。そして何より、私たちが“まちづくり”に対して意識をもち、少しずつでも声に出していく姿勢が必要になってくるだろう。

最期に本日の朝日新聞に、建築家の岡部明子氏へのインタビューで都市再生をテーマした記事が載ってたのでそこから・・・
「― 日本の都市の魅力は商店や町工場、住宅が適度に混在しているところだ。おかげで大都市でも比較的安全な空間が維持できた。それを壊し、勝ち組が集まる高層マンション群と、その他の空間とを分断するような都市づくりを進めれば、犯罪増加などの形でひずみが出かねない」

「― 衰退した中心部の空き地に高層マンションが次々を建っている。新しい街をどうつくるか住民の合意がないまま、マーケットまかせで街が変わっていく。これはもはや街ではなく、建物の寄せ集めでしかない」

「― 街のにぎわいは経済効果だけでなく居心地のよい空間をつくる。それを守るために住民、地元企業、商店街が協力することが大切だ」

“まちづくり”がうまくいかないと弊害が現れてくると建築の専門家も指摘している。ふと、私が前に勤めていた施設を設計した外山義先生が生きていたらどう思うのか聞いてみたくなった。