★ベトナム・ハノイは「こんなとこ」★

コネなし、金なし、能力なし。50を過ぎて、単身ハノイで会社を作り10年目。毎日「こんなふうに」すごしています。

ベトナムハノイの「早出出勤12年目」

2023-11-30 09:48:14 | ベトナム・ハノイ

 今日もいつものように始業時間の90分ほど前の「誰もいないオフィスに出勤した」

朝自分で作った「ツナサンド(キャベツ、ツナマヨ、スライスチーズを軽く焼いた食パンにはさんだだけのサンドウイッチ)」

今日は少し余裕があったので「保温ポットにベトナム産コーヒーをフィルターで入れて持ってきた」

このセットで、オフィスで「優雅な朝食をとっている」 かれこれこんな生活を会社設立からずっと行っている。

自分たちの世代は「団塊の世代の少し後」「良い時も悪い時の会社も経験した世代」

中間管理職は「誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰る」事が当たり前だと教えられた世代だった。

特別「これを身につけたわけではないが、自分で起業した会社、毎日が焦燥感と、危機感、不安から

こうなってしまったような気がする」、会社が調子よかった時も「同じ生活だった」そして今、円安の為替差損

で会社が大変な時も「同じ生活をしている」 しかし確実に年は取っている。

最近は「相棒ミッ(ポメプー犬)」が来てから毎日欠かさず≒8000歩の散歩、そして週末の≒2000mの水泳。

そのため夕食が済んで「散歩が済み、シャワーを浴びると」心地よい疲れが押し寄せてくる。

ミッも1日3回の散歩、そして室内での「小さなぬいぐるみを回収する繰り返しの遊び(運動)」で疲れ果て

このころになるとソファーの背もたれの上(定位置)で爆睡している。

およそ10:00頃には眠くなってしまうのである。なんやかんや「寝る準備をすると、10;30にはミッを連れて

ベッドに入る」 ミッはすぐに爆睡、自分は(良くない事だが)少し、インスタやTIKTOKなどを見てしまう。

以前は「見続けて午前0時になってしまう」こともあったが、最近は数分で「スマホを顔の上に落とすほど」

睡魔に負けてしまうのだ。当然朝の目覚めは早い。大体一度5時ごろ、そしてまだ1時間寝れると思い2度寝

それでも6時前には「目を覚ましてしまう」 若い時は昼まで平気で寝ていられたが、今はこんな状態なのだ。

いつものルーティーン(トイレ、洗面、体重測定、着替え、血圧測定、片付け、YOUTUBEでニュースチェック、)

そしてバイクで「相棒ミッ」と共に出社する。混んでても5分あれば着いてしまうのだ。

従って「オフィスに早出するのもちっとも苦にならない」

ベトナム在住12年目の朝も同じように過ぎてゆく。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムハノイの「久しぶりの休日ドッグラン」

2023-11-22 10:13:06 | ベトナム・ハノイ

相棒ミッと暮らし始めてから、本当に「外出しなくなった」

行くのは「買い物,ATM,仕事・・・」程度だ。

家で「一人(一匹)」にしておくのは「なんとなく不憫で、こうなっている」

会社創立当初は「社員も若く、休日にはツーリングなどに良く出かけた」

飲み会も頻繁に行っていたが、 一番愛着のある社員の1期生はすでに30を超え、

70%を占めていた女性は「全員が結婚した」つい先月「男性で最後まで結婚していなかった社員」も

とうとう結婚し、これで1期生が全て片付いた、そしてすでに家庭をもって子供もいる家庭は

子育てに忙しく「ツーリングや飲み会どころではないのが現実だ」私のことなどは気にする余裕もなく

ほおっておかれている。(良い事だと思う)

 自分もハノイ周辺はバイクでは行きつくし、ミッが来たことで「現在は徒歩でミッとバイクでは触れることのできなかった

裏路地などのハノイを巡っている」 しかしさすがに散歩では「ミッも放し飼いのわけにはいかず、リードをつけている」

そして自分の住む近郊には「放し飼いにできるような場所は無い」従ってミッもそれなりにストレスが

溜まっているのではないかと思っていた。

 そんなわけで「遠いがゆえに、なかなか行けなかったハノイ唯一のドッグラン」に再び行ってきた。

距離は15km前回はバイクで行ったが、今回は「GRAB」で行った。結果「犬連れの客はあまり歓迎されない」事も分かった。

(しかし、ここでミッの名誉のために言っておくが、社内ではミッはすこぶるよいこで、迷惑はかけなかった)

1台は犬を乗せるなら+100,000VNDを請求されたので「もちろんキャンセルした」今後は車は感情的に使いたくないと思った。

「GRAB カー」で往復320,000VND、今のレートだと2000円近い。自分にしては「贅沢な娯楽である」

しかし、大自然に解き放たれた時のミッをみると「来てよかった」と素直に思える。

本当はこういう環境が近くにあってくれたら、と切に思う。

自分が「田舎に引っ越したいのはミッが来る前からの想いだが、ミッが来てからは一層この思いは強くなっている」

 相変わらず行ったときには「他の犬はおらず、さみしかったが」その後韓国人と思われるカップルが「雑種の中型犬」

を連れてきた、そしてその友人と思われる「中国語を話す男性も、巨大な(15kg以上はありそうな)コーギー」

を連れてきた。 社交的だが一番年下のなミッは積極的にちょっかいを出し、それなりに「楽しんでいた」

天気も良く、十分楽しめた。このドッグランのあるYEN SO公園はハノイで一番大きく、一帯には湖(人造湖)があり

遊園地などもありその日は日曜日ということも有り「家族連れやグループ」がテントを張り、バーベキューをして

思い思いに楽しんでいた。私たちも2時間近く楽しみ、帰りもやはり「GRAB」で帰ってきた。

雑草の中を走りまわっていたので、「ミッはとげのような草がたくさん毛にまとわりつき、取るのに苦労した」

午後はミッも私も疲れ果て、昼寝を決め込んだ。久しぶりの「ドッグラン」私もRUNして楽しい一日だった。

日曜日の夕方は「なんとナムさみしいものだが」、充実した休日を過ごすと「むしろ満足感がある」

もう終わってしまう「休日を惜しみつつも、この日は良い気分だった」

ミッちゃんの初めてのGRAB乗車、すこぶる行儀よく立派だった

うれしくてうれしくて仕方ない様子のミッちゃん。しかし自分を差し置いて

遠くに走り回ることはせず、私もそれなりに「走らないとミッも走らない」

おかげで良い運動になった。

やっぱり、動物(人間も含め)は自然の中にあってこそ、リラックスできると感じた。

ミッの表情も「真に楽しそうな目をしていた」

DOG RUNのある公園施設は巨大で「このようなモニュメントもあり」ベトナムにしては

それなりに整備された施設だ。不動産業者が開発した住宅地向けの公園として造成したらしい。

日本と違うのは「カラオケ機械を持ち込み大音量で歌っていたり」「地面に直火で火を焚き

バーべキューしたり」「自転車やローラースケートは歩道でも平気で走ったり」している。

日本の「3丁目の夕日」ごろの感覚のようである。自分も以前はこのことに違和感や不満を

感じていたが、最近は「この状況」は日本も同じ道をたどったことのある「発展途上」のたまものだと思えるようになってきた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムハノイの「冬の運動事情」

2023-11-21 10:56:44 | ベトナム・ハノイ

 土曜日、いつものように「相棒ミッ」の少し長めの「散歩の後」ルーティーンになっている

週末の「水泳」に行ってきた。以前は週2-3回で行っていたが、ミッと散歩に行くようになってから

そのための時間も体力もきつくなってきたので、週1回に落ち着いている。

それでも何もしなかった以前の毎日と比べ、格段に運動量は増えた。

*平日は「ミッの散歩でおよそ8000歩 距離で5000m」・・・午前10時と午後3時の会社の休憩に15~20分の散歩+夜の散歩30分

*休日は「ミッの少し長めの散歩で12000歩」距離で8500m」・・・休日は会社での散歩は無いのでその分長く「午前と夜」に歩く

*週末(土曜か日曜に昼に)「水泳:およそ25メートルのプールを30~40往復」 距離で「1200m~2000m」・・・これは自分の

為(水泳が好きと言う理由)

ミッのおかげと言うべきだろう? この歳になって「定期的かつこれだけの量の有酸素運動をすることになるとは?」

不思議なものである。

 しかし、ベトナム、ハノイ現在は最低15℃再考25℃湿度は低めの「最高のコンディション」であるのだが?

今回も「土曜日の昼に泳ぎに行ったが、おばさんが1人プカプカ浮いているだけだった、30往復する間、誰も来なかった?

ベトナムでは「もうこんなに寒くなったら泳ぎたくない」と言う考えが一般的なのである。

来年の3月ごろまでは、この「泳ぎたくない期間がハノイでは続くのである」

そして、泳ぎに来ているのは「どういうわけかおばさんが圧倒的に多い」

そんなハノイで「今日もさわやかな気候の中」 相棒ミッと散歩にいそしんでいる。

土曜日の昼。住んでいるジムのプールである、「冬で利用者が激減する」

ことも有ろうに「泳ぐ人がいないせいかどうか?」

監視員も泳いでいる間「不在であった」、何かあったらどうするんだろうと「元日本赤十字救助員の

自分は考えた」 困ったものである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムハノイの「都会の生活」

2023-11-21 09:43:02 | ベトナム・ハノイ

 自分、生まれは群馬県の最北の市(沼田)である。

高校までここで暮らし、1年、東京都の市谷で暮らした後、大学は東京都(町田市)ここはそこそこ田舎だった。

その後群馬の太田市のメーカに就職し、現在も自宅は太田市にある。

どういうわけか12年前からベトナムの「ハノイ」に暮らしている。

沼田:17年、市谷:1ねん、町田:4年、太田市:30年、ハノイ:12年である。

多くは地方都市とはいえ「田舎」に住んできた。今感じるのは「自分は田舎が好きだ」ということである。

歳を重ねると一層そう思う。先日、退社時に信号待ちした際(ハノイの信号は90秒と結構長い)

ふと現在の自分の住む環境を考えた、その写真が「これである」

ハノイ、人口は2022年でベトナムでは2番目の844万人である。大都市だ、すでに国の人口は1億人を超え、日本を

超えるのは時間の問題である。

 そんなところに12年も住んでしまった。気がつけば大都会である。

25年前ベトナムに初めて来た時とは「大きく変わった」あの頃はノイバイ空港からホテルまで

信号が2しかなく、道路は未舗装で埃だらけ、町は「とにかく暗かった」事は覚えている。

住み始めてからも「都会だとは感じなかった、人は多かったが、近代的なビルや建物は少なく、インフラすべてが

古かった」・・・・それがどうだろう、昨日信号待ちで止まった風景を見ると、まるであの頃の面影はない。

別の街に来てしまったかのようだ? 最初に来た時にはタクシー以外「珍しかった自家用車」は以上に増えた。

それもそのはず、個人GDPが今年、日本円で500,000円(年間)を超えた。(円安の影響もあるが)

個人が車を所有できる指標の$5000に近づいてきているのだ。町では普通に「ポルシェ,BMW,ベンツ」

挙句の果てにはロースロイスやランボルギーニ、フェラーリまで走っている。(関税率が200%なのに?)

MAZDAやプジョーはOEMでベトナム内で作っているため、少し安いのでたくさん走っている。

もうハノイ市内は「インフラも整備していないのに車やバイクが増え」違法駐車だらけ、両側駐車で

すれ違いもできない道路事情になっている。・・・都会化が進んでいるのだ。

空気汚染もひどく世界でワースト3の年だともいわれている。

つまり、すでにハノイは自分の好きな「田舎では全然ないのである」

数年前から「ベトナム中部の田舎に移住しようと思いだした」しかし「コロナ、円安」「日本の自動車業界不況」

の3重苦で計画はストップしている。あと2-3年、この都会のハノイで頑張り、その後は「中部のダナン、と

ホイアンの中間ぐらいの海辺の田舎町の平屋で相棒のミッと暮らしたいと思っている」

数日前の大都会ハノイの退社時「信号待ちのわずかの間に、こんなことを考えた」

中央の高架は「中国支援で10年以上たっても開通しない都市交通(電車)である」

左に見えるのは50階建ての商業施設。自分はこの11階に部屋を借りている。

右の丸いビルは「最近社長が汚職で逮捕されたFLCグループ傘下のバンブー航空の本社が入っているビル」

その手前はやはりFLCグループのマンション。

全てが40階以上の高層ビルである。

相変わらず「退社時の渋滞はひどい」

こんな都会で暮らすのは・・・早く田舎に行きたいと思う。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベトナムハノイの「いつもの朝、思い出すこと」

2023-11-16 10:03:25 | ベトナム・ハノイ

ベトナム在住12年目、初めてベトナムに来始めてすでに25年以上がすぎた。

本日ふと「いつもの朝、ベトナムとのかかわりを思い出した」

最初は25年前、最初の就職先である「金型メーカとして」ベトナムに来た。

韓国の外注先がベトナムに事務所を作り、その開所式に呼ばれたのが最初である。

そのころから「韓国企業はベトナム進出に関してアグレッシブな姿勢だった」

その後、時々この企業訪問するためベトナムに行った。

 その後は、自分もIT系企業「海外拠点開設ののためにも呼ばれ」転職した。

ここでは2年近く「いろんな場所に行き」最終的にその拠点を「ベトナムに決めた」

その時自分をヘッドハンティングしてくれた「社長が親会社に栄転になり」まるで方向性の違う社長が来た。

それでも途中までは「ベトナム拠点になりつつあったが?」結局見捨てられた。

そのIT企業をやめ「52歳でベトナムに単身乗り込み起業した」

安定していた「上場企業」そして52歳と言う年齢からも親族一同から「大反対された」当たり前である。

何のリレーションもないベトナムに定年を前のおじさんが「急に会社を作ると出て行ったのだから」

そこからの道を語るには「とても書面が足らない」

ベトナムに最初に来てから25年、起業してから12年、よくここまで来たのかもしれない?

ここまでの道のりについては「おいおい記していこうと思う」

 ベトナム進出する日本企業のうち(飲食も含め)5年で残る確率は5%であるという。

一応この会社は12年目、良く残ったものだと考える。それまでの仕事上のキャリアと

仕事仲間の皆さん、そして、ベトナム側で「いろいろ支えてくれた友人たち」

そして、ここまで頑張ってくれた「社員たち」が居たからこその事である。

 それでも現在、創業以来の難しい状況になっている。「何のことは無い、全てが為替差損」の問題である。

この問題は語り尽くした。どうなるにしろ「何とかする以外ない」、コロナと為替この2つで

一気に会社は規模が半分になり、10年かけて蓄えた「内部留保」も吹っ飛んだ。

それでも「社員、その家族」が居る限り、何とかしなくてはならない。

順調だった3年前とは「全然違う生活(急に貧乏な社長になった)」をしなければならなくなった。

それでも「12年前と同じ、バインミーを食べ、同じインスタントコーヒーを飲みながら」

円安故に12年前、起業時と同じような小さなオフィスに移り、そこの誰もいないオフィスの机で、

これからの事を考えている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする