数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

「人権」と数理論理教

2013-07-21 19:12:11 | 数理論理教(科学教)の歴史
 人権とは何か?公的な定義もあると思うが、私は人間個人が数理論理的思考(合理的思考)をするための最も基本的な条件、前提であると思う。

 要するに数理論理的思考(=数理論理教)のためには、それまでの社会慣習や世俗宗教などにまったく拘束されない、合理的思考の白紙の状況から始めなければならない。そのために「人権」という概念が必要だった。全ての人間が数理論理的思考をするため、つまり数理論理教に帰依するために新たな根源的権利が必要だった。

 フランス革命により公教育制度が始まったが、要するに白紙の子供を世俗慣習や宗教に染まっている親から取り上げて、徹底的に数理論理的思考をするための教育を行うためのものだった。つまり公教育は数理論理教の刷り込み機関のようなものだと思う。

 フランス革命により、エコール・ポリテクニークとエコール・ノルマルという数理論理教の牙城ができ、天才を大量生産し始める。科学(数理論理)とそれを応用した技術が加速度的に進化して行くことになる。フランスではその後王政に戻るなどしたが、この数理論理革命はヨーロッパを激震させた。特にナポレオンの取った数理論理を基礎とした軍事戦略は、それまでの封建的な軍事制度とは異質で、強力な破壊力を持っていた。もはや戦争もまったくの数理論理戦争になったのである。

 その後フランス革命の精神はアメリカに特に引き継がれていったように思う。南北戦争とは、いろいろな原因があると思うが、要するに数理論理教=人権思想を貫くかどうかのイデオロギー(宗教)戦争の面もあったのではないかと思う。北軍の勝利により、工業化(数理論理化)が急速に進み、学校もプロテスタントの教えから数理論理教に一斉に代わり始める。その後「人権思想」は燎原の火のごとくアメリカで燃え盛り、異端裁判のようなことも起き始める。

 資本主義というのは、白紙の人間が科学技術(数理論理)を応用して付加価値のある商品を生産して、利潤(合理的な価値形成)を得るという、まったくもって数理論理教に適った制度なのかもしれない。

 マルクスは相対的剰余価値(科学技術を応用した付加価値)競争により、ますます高度な有機的構成社会になると予言した。(ちなみにただただ人の労働価値を奪い取るという絶対的剰余価値もあるが、これには価値創造はなく、全体の価値は増加しない。)

 とにかく科学技術による価値創造、それにともなう超効率的な生産・流通・消費システムにより価値は無限に増大し、皆が効率的な組織になり、豊になるとい筋書きだ。今ではグーグルなどは純粋な数理論理のみを応用して価値増大に邁進している。とにかく左翼が言っている「労働者よ団結せよ」といのはどういうことなのか?「労働者よ全員科学技術者になれ、価値創造に貢献せよ」というのが正しいのではないか。その筋書き上は…

 もし科学技術の価値創造と、そのマイナス面(環境・社会破壊)が等価かマイナス面が上回れば、実質価値は縮小する。例えば、原子力産業の放射性廃棄物の管理費用は未来世代に永遠に受け継がれる。未来世代まで考慮すれば、トータルの価値は減少してしまう。今その瀬戸際に来ているが、科学技術(数理論理)の暴走は止まらないようだ。

 またマルクスが描いた、相対的剰余価値生産による高度の有機的構成社会は、ソ連や中国でやられた共産社会(独裁社会)ではない。国家が有能な経営者の代わりをできる訳がない。アメリカのような自由競争社会で科学技術(数理論理)を応用した厳しい付加価値競争の中で必然的にそうなると考えていたと思う。今のインターネット社会はこの有機的構成の高度化に近づいていると思う。ソ連や中国は、数理論理思考の競争がない社会に、価値増殖魂を持った経営者不在の中で、この完成形の共産社会を築こうとして当然ながら失敗した。今敗者復活戦ではないが、ロシアも中国も資本主義的体制になり、数理論理競争に血眼になっている。

 日本の明治維新も一種の数理論理革命だったと思う。しかし数理論理教の宗教的な核心まで移植できず、何やら精神的には偶像崇拝的な思考に染まってしまったようだ。そのため科学技術は「手段」でしかなかった、これは「究極的な目的」にならないと、独創的な発想は生まれない。科学技術(数理論理)は神との交信のために必要な記号なのだ。

 数理論理教=科学教=工業化=文明化の最大のデメリットは、その生み出す科学技術応用物質や商品、兵器、そしてその競争システムにより人間自身が破壊されてしまうことだろう。数理論理教はすべてを数理論理に還元することが目的だから、それに関与できない人間などはまったく価値がないと切り捨てることも多い。数理論理的思考をしない者に「人権」はないのだ。

 リンカーンが「人民の人民による人民の政治」と演説した場所のゲティスパークは、南北戦争最大の激戦地、両軍合わせて数万人が命を落としたところだ。そしてその死臭がまだ漂う中、この殺し合いには意義がある、理性(数理論理教)の戦いのためにはこの犠牲は必要だと演説した。

 福島原発公害事件も、一つの数理論理競争なのかもしれない。数理論理教(資本主義競争)に関与しない人間などには、「人権」などないと言わんばかりの仕打ちが行われている。数理論理教は世界教になり、これに抗する輩は抹殺される運命にあるのか?

 

 



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