数理論理教(科学教)の研究

数理論理(科学)はどこから来て、どのような影響を与え、どこに行こうとしているのか、少しでも考えてみたいと思います。人文系

数理論理教の歴史(概略)(3)、カントール革命以後、完全な人工論理構造の創造

2020-01-04 20:57:22 | 数理論理教(科学教)の歴史

3.カントール革命以後

ゲオルグ・カントール(1845年から1918年)

「素朴集合論の確立者。自然数実数の間に全単射が存在しないことを対角線論法によって示す一方、R と Rn の間に全単射が存在することを証明した。連続体仮説に興味を持ち研究を続けたが、存命中に成果は得られなかった。連続体仮説については、後にゲーデルポール・コーエンの結果によって一応の解決をみている。自身の集合論の矛盾も発見しているが、カントール自身はこうしたパラドックスは集合論を発展させていく上でプラスになる存在であると考え、あまり問題視していなかった。(引用終わり)」

カントール対角線論法

連続体仮説

参考、『新装版 集合とはなにか―はじめて学ぶ人のために (ブルーバックス) (日本語) 新書 – 2001/5/18 竹内 外史  (著)』
  まったくもって人工的に作られた集合論の概念のみを用いて論理体系を形作っていきました。人間が論理的に作った概念だけで、研究を進めました。カントールは、他の数学者から異端扱いされ、そんなものはまったくの空想の産物で役に立たないと嘲られ、精神を病みながらも、その独創的な研究を続けました。この人工論理の研究は、その後のメタ数学や情報処理理論に与えた影響は計り知れないと思います。その意味ではカントールは「革命者」だったと思います。
 集合論というのは、私には宗教書のように思えてなりません。

 その後、ブルバギ(数学秘密結社)らの業績にもつながります。

「ブルバキの主な業績は、7000ページ以上に及ぶ『数学原論』(Éléments de mathématique) の執筆である。元は微分積分学の現代的な教科書を書くのが彼らの目的だったが、作業が中途で肥大化し、その目的は捨て去られた。最終的には集合論の上に現代数学を厳密かつ公理的に打ち立てることにその目標は向けられる。彼らはそこで、代数構造順序構造位相構造という三つの構造概念、フィルターなどいくつかの新しい概念や術語を導入し、現代数学に大きな影響を与えた。その完璧な厳密性と一般性を求める叙述はブルバキスタイルと呼ばれるようになる。(引用終わり)」

リヒャルト・デデキント(1831年から1916年)

「基礎解析の算術化、および現代の代数的整数論を構築した主要な数学者の一人で、加群イデアルベクトル空間といった概念を生み出した(引用終わり)」

フレーゲ(1848年から1925年)

「フレーゲは、古代ギリシアギリシア哲学)のアリストテレス以来の最大の論理学者といわれる。革命的な『概念記法』(Begriffsschrift) は1879年に出版され、アリストテレス以来2,000年変わらずに続いていた伝統論理学を一掃して論理学の新時代を切り開いた。今日の数学で定着している∀(任意の)や∃(存在する)のような量化はこのフレーゲの業績に基づいている。

フレーゲは命題論理述語論理の公理化を最初に行った人物であり、特に述語論理はそれ自体がフレーゲの発明である(実際には概念記法は高階論理の体系であり、ラムダ計算の祖ともいえる極めて先駆的なものである)。しかしそのあまりもの先進性、独創性ゆえにフレーゲの同時代にはその意義は十分に理解されなかった。彼の概念が広まったのは、ジュゼッペ・ペアノバートランド・ラッセルらによるところが大きい。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインエトムント・フッサールは、フレーゲの影響を大きく受けた哲学者である。また、ルドルフ・カルナップはフレーゲの授業に出席しており、彼の(カルナップによればシャイな)性格について書き残している。

またフレーゲは言語哲学や分析哲学の基礎を確立した人物の一人としても数えられる。「意義と意味について」における意味(独:Bedeutung, 英:meaning, reference)と意義(独:Sinn, 英:sense)の区別、概念と対象との区別などで知られる。

フレーゲは数学は論理に帰着しうるとする論理主義の最初の主要な論客でもあり、彼の『算術の基本法則』(Grundgesetze der Arithmetik) は自然数論および実数論を論理から導こうとする企てであった。しかしラッセルが『算術の基本法則』の公理系が矛盾を引き起こすこと(いわゆるラッセルの逆理)を発見して指摘したため、2巻の補遺にこの矛盾について認める文言が付されている。フレーゲ自身はなんとか矛盾を回避する方法を模索したが、フレーゲの修正案にも欠陥があることが、1938年スタニスワフ・レシニェフスキによって示された。(引用終わり)」

1889年 ジュゼッペ・ペアノ 

ペアノ公理

バートランド・ラッセル(1872年から1970年)

ホワイトヘッド(1861年から1947年)

プリンピキア・マテマティカ

「『プリンキピア・マテマティカ』(Principia Mathematica:数学原理)は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドバートランド・ラッセルによって書かれ、1910年から1913年に出版された、数学の基礎に関する全3巻からなる著作である。それは、記号論理学において、明示された公理の一組と推論規則から数学的真理すべてを得る試みである。『プリンキピア』のための主なインスピレーションと動機の1つは論理学に関するフレーゲの初期の仕事で、それがパラドックスをもたらすことをラッセルが発見したのである。

プリンキピアは、数学論理と哲学においてアリストテレスの『オルガノン』以来もっとも重要で独創的な仕事の一つと、広く専門家に考えられている。(引用終わり)」

「数学で使われている推論に関するすべてのアイディアやステップを列挙する。(『チューリングを読む コンピューターサイエンスの金字塔を楽しもう』チャールズ・ペソルド著 日経BP社(以下チューリング)より引用)」

ヒルベルト(1861年から1943年)

ダフィット・ヒルベルト(David Hilbert, ドイツ語: [ˈdaːvɪt ˈhɪlbɐt]1862年1月23日1943年2月14日)は、ドイツ数学者。「現代数学の父」と呼ばれる。

1895年ゲッティンゲン大学教授に就任。19世紀末から20世紀初頭にかけての指導的な数学者となった。弟子の育成にも努め、マックス・デーンエーリヒ・ヘッケヘルマン・ワイルヴィルヘルム・アッカーマンパウル・ベルナイスなど著名な数学者を輩出することになった。ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン(のちのジョン・フォン・ノイマン)の論文を評価し、当時22歳であったノイマンをゲッティンゲン大学に招いた。日本人では高木貞治がドイツ留学時代ヒルベルトの弟子であった。

不変式論英語版抽象代数学代数的整数論積分方程式関数解析学、幾何学の公理系の研究、一般相対性理論など業績は非常に多岐にわたる。彼の公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれる。その他ヒルベルト空間ヒルベルトの零点定理などに名前が残っている。(引用終わり)」

参考、『ヒルベルト――現代数学の巨峰 (岩波現代文庫) (日本語) 文庫 – 2010/7/17
C.リード (著), Constance Reid (原著), 彌永 健一 (翻訳)』
  この人は聖書に出てくる預言者のような方であり、現代数学を創始した人だと思います。すべてを構造主義的に考えようとする強力な意志の基、物理学などにも数理論理的思考を用い、精緻化していきました。ヒルベルトにとっては、すべてが完璧に構造主義的(イデア構造の壮大な伽藍)になっていないと、我慢ならなかったようです。
 第一次世界大戦でドイツが国粋主義的になるなか、ヒルベルトは一貫して普遍観念を持ち、敵国のフランスなどの研究者や文化にも寛容であったため、国粋主義的になった国民・政府から非難され中傷されました。
 ドイツ敗戦後、まだ国際的に監視の目があるなか、またドイツ人が萎縮している時に、国際数学学会にヒルベルトを先頭として颯爽と入場したドイツの研究者たちは、喝采のもと受け入れられて、復帰しました。そして、ヒルベルトは早急に完璧な構造主義的な理論を構築しなければならないと、預言者のような説教を行いました。

クルト・ゲーテル(1906年から1978年)

1924年、ゲーデルは、ウィーン大学に入学し、まず物理学を、後に数学を学んだ。そして、1930年には、最初の重要な業績である「第一階述語論理の完全性定理」を発表し、学位を得た。テオドール・スコーレムジャック・エルブランの二名がこれに限りなく等しい成果を出していたものの、ゲーデルが最終的に誤謬なく完成させた。

1931年ゲーデル数の概念を用い、20世紀数学基礎論論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した[2]。これは、ヒルベルトが数学の無矛盾性を証明するために推進した「ヒルベルト・プログラム」に関連して研究されたものであるが、「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを示した不完全性定理は、ヒルベルト学派の主張した有限の立場を忠実に用いて、手法としての超数学を具体化することで、皮肉にもそのプログラムが本質的に不可能であることを暗示するというものであった。不完全性定理は、ジョン・フォン・ノイマンなど当代一流の学者の激賞を受け、「人間の理性の限界を示した」とも評されている。

1940年、ヒルベルトの第一問題(連続体仮説)について、「集合論のZF公理系が無矛盾ならば、そこに選択公理と一般連続体仮説を加えても無矛盾である」ということを証明した[3]。以上がゲーデルの三大業績と呼ばれている。この後、ゲーデルは、連続体仮説に関する研究から身を引いた。1963年ポール・コーエンは、「ZF公理系に選択公理と一般連続体仮説の否定を加えても無矛盾である」ということを証明し、ゲーデルの結果と合わせて、「選択公理と一般連続体仮説はZFとは独立である(したがって、証明も否定の証明もできない)」ということを示した。このとき、ゲーデルは「これは自分がなすべき仕事だった」と悔やんだと言われ、コーエンの仕事を絶賛した。その一方で、ゲーデルは「すべての数学的命題に対して、人間は真偽を判定することが可能である」と信じていたと言われる。特に、連続体仮説に関しては、その否定を信じていた。(引用終わり)」

ゲーテル完全性定理

数理論理学においてゲーデルの完全性定理(ゲーデルのかんぜんせいていり、Gödel's completeness theoremGödelscher Vollständigkeitssatz)とは、第一階述語論理の恒真な論理式はその公理系からすべて導出可能であることを示した定理を言う[1]1929年クルト・ゲーデルが証明した。(引用終わり)」

ゲーテル不完全性定理

ゲーデルの不完全性定理(ゲーデルのふかんぜんせいていり、Gödel's incompleteness theoremsGödelscher Unvollständigkeitssatz)又は単に不完全性定理とは、数学基礎論における重要な定理で、クルト・ゲーデルが1930年に証明した[1]ものである。不完全性定理が示したものは、数学用語での「特定の形式体系{\displaystyle P}Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」とは無関係である[2]。すなわち不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが[2]、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般社会哲学宗教神学等によって広まり、誤用されている[3](引用終わり)」

「第一階述語論理は公理系からすべて導出可能である」ということが非常に重要である。この範疇なら機械的に計算(言語的な操作も含む)できるのであり、その後チューリング機械(→進化したものがコンピューター)ができる根拠となるものです。

 

 

 

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