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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

幻想のステーション

2013-11-14 03:03:21 | 詩集・試練の天使

ここは
幻想のステーション
青い角の生えた
小さなあばたーたちが暮らしている

心臓の奥に
忘れ去りたい
黒い小人を隠し
妖精のように
透き通った青い翅をつけて
愚か者に似た
天使の笑顔を
仮面にはりつける
幻想のあばたーが住む
幻のステーション

遠く地平線に
巨大な芋虫のような
青い山岳が見える
見ようによっては
たくさんの翡翠のピラミッドが
空気遠近法の壁のはるか向こうに
並んでいるように見える

あばたーたちはいつも
そのピラミッドが歌う
特急の地下鉄がうなるような
轟音に耳をさいなまれている

真実を見よ
虚偽の空気の中で
酸素をあざむき
真空の中を泳ぐことができる
清らかな魚の魂だと
自分をあざむいている
おろかな自分を殺し
真実の自分を見よ

翡翠のピラミッドは
轟音のオルゴールのように
繰り返す
だが
あばたーたちは
それは瀕死のかたつむりの
かすれたうめきよりも
軽いものだと
相手にもしないのだ

ここは 幻想のステーション
白い病院の中に住んでいる
聖者のごとき老医師が
蝋人形に与えた
芝居の設定だと言うことを
知っていて知らぬ
青いあばたーたちの住む国



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天然誘接

2013-11-13 11:37:29 | 詩集・空の切り絵

    天然誘接

      北斎のはんのきの下で
      黄の風車まはるまはる
  いつぽんすぎは天然誘接(てんねんよびつぎ)ではありません
  槻(つき)と杉とがいつしょに生えていつしょに育ち
  たうとう幹がくつついて
  険しい天光(てんくわう)に立つといふだけです
  鳥も棲んではゐますけれど

             (宮沢賢治全集より)



   * * *

宮沢賢治の言葉には
人格融合の跡がある
その表現には
別の天使が多大な貢献をしているが
どれがどちらの表現であるかと
判別することはできない
ほぼ完全に融合している





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イサベル皇后の肖像

2013-11-13 05:30:06 | 虹のコレクション・本館

No,8
ティツィアーノ・ヴェチェリオ、「イサベル皇后の肖像」、16世紀イタリア、盛期ルネサンス、ヴェネツィア派。

この画家は、さまざまな宗教画、神話画、寓意画など残しているが、彼の才能と心が最も美しく発揮されているのは、肖像画だ。

この絵の女性も美しい。彼が人間をどのように深く愛していたかがわかる。




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腹痛

2013-11-12 12:08:08 | 詩集・空の切り絵

腹痛は
良心の呵責よりも
人間の奥にある鈍痛だ

こなしきれない馬鹿がある時
人間は心より
腹が痛む

その石の中には
忘れ去りたいどす黒い記憶が
餡のようにつまっている



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自画像

2013-11-12 04:35:45 | 虹のコレクション・本館

No,7
ベルト・モリゾ、「自画像」、19世紀フランス、印象派。

これは、女性は着飾らずとも美しいことを証明する絵である。夫と子供に恵まれ、仕事にも充実していた。その自信が画家を美しくしている。人間の女性の本来の美しさである。

フリーダは、愛する男から冷たい仕打ちを受けて深く傷ついたがゆえに、人間を超える美を持ってしまった。あまりに悲しい女性である。それに比べれば、19世紀に生きていたモリゾはまだ、幸せだった。
この時代ではまだ、男が誇り高かったからだ。

エドゥアール・マネは印象派の巨頭だった。印象派の画家の中で、彼を超えられたものはいない。19世紀はまだ、こういう男が、生きていくことができたのである。
だが20世紀に入ると、民主主義の広がりと定着の中で、より高い才能を持つものが嫉妬され、潰されるようになった。マネのような男は、成長段階でつぶされるのだ。

フリーダの愛したディエゴ・リベラは、それなりの画家だったが、マネほどの力はない。はっきり言って、表現者としては、フリーダのほうが上だ。

モリゾが輝いていたのは、マネのほうが実力的に上だったからだ。だからモリゾは許されたのである。だが、リベラを超えたフリーダは、許されなかった。男は、才能あるフリーダに嫉妬し、冷たい仕打ちをした。
ゆえに、フリーダの絵は、愛が生きて行けない世界の中で、断末魔の長い叫びのような、軋る命を激しく美しく表現しているのである。

20世紀は、女が男を超えた時代だった。




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はるかかなた

2013-11-11 12:38:27 | 詩集・試練の天使


赤くも酸い林檎を噛みながら
銀の上着を羽織り
外に出る

石の町を横切り
白翡翠の死体が歩く
スクランブルを泳ぎ渡り

さざれ石となった電話の音が
暴力的に吹き荒れる
音楽の町を過ぎ

鈍く固化した練水晶の
城砦の門に向かう
門を出るとそこは砂漠の部屋だ

はるかかなたに
竜の背びれのような
真珠の金字塔の列が見える

金字塔は夢の褶曲運動のように
かすかにうなりながら
遠い未来をつくっている

旅人はすべての夢を捨て
はるかかなたに向かう
その歯は震えながら涙の歌を奏でる
オルゴールの歯車のようだ




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書物の聖母

2013-11-11 05:11:09 | 虹のコレクション・本館

No,6
サンドロ・ボッティチェリ、「書物の聖母」、15世紀イタリア、初期ルネサンス。

ボッティチェリは数々の美しく甘美な女性像を残しているけれども、これがもっとも好きだ。
さみしさを漂わせながらも女性の高い気品を表現した婦人像である。実に美しい。

ボッティチェリは非常に特殊な画家だ。特別な使命を持っていた。ゆえにその表現した女性像は、永遠の人類の宝となるほどのものになった。

彼の作品は、後々の人々の心をおおいに豊かにしていくことだろう。




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天使

2013-11-10 10:07:42 | 詩集・試練の天使

銀白の夜に わたしは彼を抱きしめた
人格の融合とは
セックスよりも貴い
天使の幸福だ

もはやわたしはわたしではない
もはや彼は彼ではない
彼の歩いてきた道に
落としてきた白い真珠の光が
かすかに さくらの花びらのように
薄紅に染まる

ひとつであった時間を
奇跡のように共有することが
はげしく君を愛させる
たまらぬ 
魂の叫びだ

(ああ ほんとうに
 わたしは
 よいことを したいという
 きもちの かたまりなのになあ)

愛している
ああ 愛している

泣いているのも
答えているのも
あなたなのか
わたしなのか
どちらでもよい

わたしたちは溶けあい
月に染まる
ひとつの 大きな
詩人の影になる

紺青の頭蓋の空に
ふたつの月をかかげ

ひとつの清い影になる




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レオン・トロツキーにささげる自画像

2013-11-10 03:08:01 | 虹のコレクション・本館

No,5
フリーダ・カーロ、「レオン・トロツキーにささげる自画像」、20世紀メキシコ。

20世紀芸術にはさまざまなものがあるが、人間の精神の崩壊がどれにも如実に現れている。嘘のはびこる世界の中で、芸術家も一つのステータスとなり、芸術家は嘘と真の間で壊れていく自分の姿を、知らず知らずのうちに描いていた。

フリーダ・カーロは20世紀という時代で自分を表現した画家の中では、特筆すべき名だと思う。この絵は、苦しい時代の中で自己存在の美を求めた彼女の絵の中で、最も美しいものだと思う。

この絵には実在の女性の存在感が強く表れている。
愛と試練の間でさいなまれた人間の魂が表現されている。



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女の肖像

2013-11-09 04:07:17 | 虹のコレクション・本館

No,4
パルマ・イル・ヴェッキオ、「女の肖像」、16世紀イタリア、盛期ルネサンス。

この画家の描く美女は美しい。男の理想とする女性はこういうものかという、一つの例である。生身の女性と言うより、まるで彫像のようだ。

だがこういう完璧な美女というのは、どこか男性的な感じがする。現実の美女というのは、みな、どこかにかわいらしい欠点というものがあるからだ。欠点というのは、女性的なやさしさなのである。欠点があるからこそ、見る者がほっとするのだ。

完璧な美女というのは、相手に勝とうとする男性的な表現である。男というものの中にはだれにも、女性になりたいという願望がある。自分が女になるのなら、だれにも負けない、完璧な美女になりたいと、彼らは思うものなのだ。

この美女は、女性というよりは、女になりたい男の理想像だ。




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