
☆ 博士の研究
飛行船は、博士の研究にとって、最も有用なものだった。
ヘリコプターでは騒々しすぎて、せっかくのデータをぶちこわしてしまうし、飛行機では中空に止まることができず、あっという間に目標地点を通り過ぎてしまう。
博士の専門は、気層考古学、及び魔法言語学。澄んだ秋空の、風の心地よい日、特に鱗雲が龍のように堂々と空を横切る日は、気層調査には打ってつけの日だ。博士は機材を載せた飛行船を飛ばし、数人の助手たちとともに調査に向かう。
大地に地層があるように、空に気層があるのをご存じだろうか。上空を見ると澄み渡る瑠璃の天蓋ばかりに目を奪われるが、そこには目に見える太古の空気が、透明な布のように折り畳まれ保存されている。これを気層といい、実はその中には、化石のように太古の人々が発した言葉の破片が埋もれているのだ。その言葉の結晶化石を(専門的には言霊石という)発掘し、解読するのが、博士の主な研究目的なのだ。
もちろん、全ての恐竜が化石にはなれないように、全ての言葉が言霊石になれる訳ではない。なれるのは、特別な人の特別な言葉、呪文、予言、魂の歌う愛の歌……。
博士は予定地点の上空に飛行船を止まらせ、モニターを見ながら新しいセンサーの微調整をした。モニターは半球型の水晶レンズでできていて、油膜のような反応パターンが表面をぐるぐると渦巻いている。
作業が一段落すると博士は窓から下界を見下ろした。遙か下には灰白色の岩塊を剥き出した小さな岬が、翡翠の板のような海に乳房のように突き出ていた。博士はここで発見した一連の言霊石が、一種の予言詩ではないかと考えている。
「博士、ありました!」
助手の一人が突然叫んだ。博士があわててモニターにしがみつくと、半球レンズの片隅に、淡いすみれの花びらのような反応が、ふわふわと泳いでいた。
「データはとったか?」
「はい、間違いありません」
「よし、では採取しよう」
言霊石は、春先の小川の薄氷のようにデリケートだ。細心の注意をもって扱わないと、あっと言う間に気化して全てがパーになる。飛行船の外部に取り付けた採取機の先端には、コウノトリの羽毛でできたハケがついていて、操作をまかされた熟練の助手は、モニターを見ながら慎重にマニピュレーターを操り、肉眼では見えない言霊石を見事にハケにからめとった。安堵の吐息が船内に広がった。博士は助手の労をねぎらい、飛行船を帰すよう操縦士に命じた。
研究室に戻った彼らは、カプセルに閉じ込めた言霊石に、特殊な試薬をふりかけ、一定温度に設定した保冷庫に入れて数日待つ。そこで初めて言霊石は、薄紫色の水滴として肉眼で見えるようになる。これを結晶水という。次にこの結晶水をコウゾの樹皮を加工した特殊な布に染み込ませ、頭でっかちの蜘蛛のような奇怪な形をした増幅器に入れ込む。
大事なのはこれからだ。チャンスは一度しかない。
博士は七人の耳の良い助手を集め、機械と耳の調子を聞いた。助手たちは増幅器につないだヘッドホンを点検しながら、それぞれのやり方で大丈夫と言った。博士はファイルとペンを取り、メモの用意をした。最後の最後になって、人間の感覚だけしか頼るものがない今の技術レベルを、博士は何より嘆いている。言霊石の言葉は、どんなすばらしいオーディオ機器をもってしても記録できないのだ。だが今は今のレベルで、やれるだけのことをやっておくのが研究者の責務というものだ。
「よし、始めよう」
博士が手を上げて合図をすると、室内の空気がピンと緊張した。助手の一人が増幅器のスイッチを入れた。誰ひとり物音をたてない静けさの中で、機械のかすかなうなりだけが羽音のように響いた。ヘッドホンをした助手たちは目を閉じて、耳に神経を集中した。
皆がかたずを呑んで見守る中、結晶水をしみこませた布は機械の中で静かに燃焼し始めた。そしてそれが燃え尽きる寸前、結晶水の中に秘められた魔法の言葉は、ため息のように気化して再びこの世に蘇る。その最初で最後の再生を、機械は最大限に増幅し、七つのヘッドホンに伝えるのだ。
沈黙は七十秒以上続いた。助手たちはほっと息をつきながら、次々にヘッドホンを外した。
「どう聞こえた?」
待ちかねたように博士がたずねると、七人のうち三人は、『シュ』と聞こえたと言った。他の三人は『シ』と聞こえたと言い、残る一人は何も聞こえなかったと答えた。博士は口元を固めて渋い顔をした。
「今までのデータをまとめてみよう」
別の助手が端末の前に座り、コンピュータからデータを呼び出した。博士はモニターに出てきた結果と、自分のファイルに記したメモとを見比べた
オンマヤ サラサリ(以上意味不明)
トホ□□オヤノ(遠き御祖の?)
ミスノカケ(御簾の影?)
ウタヒ オトレヤ(歌い踊れや)
ハ□□ナル(はるかなる?)
トキヲヘタテテ(時を隔てて?) フタタヒノ(再びの)
メクリ□タレ□(巡り来れる?)
……『シュ』(『シ』?) (□=欠落)
「どう読める?」
「遙かなる時を隔てて……再び巡り来れる……『主』?」
「『死』かもしれない…」
「何かの名詞の始まりの音とも考えられます。定型詩としては明らかに不完全ですから」
「うむ。周辺のデータからその辺を予測できないだろうか」
「やってみましょう」
博士はファイルを助手に渡すと、眼鏡を外してこめかみをもんだ。目を窓にやると、外はいつしか霧のような雨が降っている。博士は窓に手をつきながら、暗記してしまった太古の音韻をつぶやいた。するとどこからか、目に見えぬ小さな風が、子へびのように博士の唇にまとわりついた。その微かな感触が、博士の心臓を痛くしぼりこむ。
(……だれだ。だれなのだ、お前は。この言葉を発する度に私の前に現れるお前は……)
博士は、太古、言葉は一種の生命体であったと信じている。声を肉体とし歌を翼とするそれは、天使だったのか、悪魔だったのか……。それがわかれば人類の存在意義すらもわかるかもしれない。
博士は、握り締めた拳をゆるめると、小さく息を吐き、自室に向かった。次の作業計画にとりかからねばならない。研究者の仕事に終わりはないのだ。
(2001年、ちこり23号所収)