★手品師さんの明日
手品師さんは、病院への道を、セレスティーヌといっしょに歩いていた。今日、そこに入院している詩人さんに、彼女を紹介するつもりなのだ。
「ヒカル。下ばかり見てる。苦しい?」セレスティーヌが若干舌足らずな日本語で言う。
「いや」手品師さんは重い心を抱いたまま、歩いていく。その足取りに、セレスティーヌは自分の歩調を合わせて、心のリズムを合わそうとしている。
詩人さんが入院したと聞いた日から、やっと三週間後、彼はセレスティーヌと一緒に休みを取ることができた。もう、あらかた、画家さんから話は聞いていた。
退院と言っても、病気が治ったわけではなく、残り少ない日々を、家で過ごさせてやりたいという彼の両親の気持ちを、医師が許してくれたのだそうだ。詩人さんは、前に入院した時、もうすでに、五十パーセントは、だめだと思ってくれと言われていたそうだ。本人はこのことを知らない。
病院の白い建物の、玄関前に、二人で立つと、手品師さんはしばし立ち止まって振り向き、空を見上げた。
ああ、菫色の空だ。よく詩人さんはいう。この青い空が、なぜか詩人さんには、菫色に見えるのだという。
きっとあいつには、この世界は、ぼくたちとは違うように見えているんだろう。手品師さんはそう思いながら、病院の玄関をくぐった。セレスティーヌは黙ってついていく。
教えられた病室を訪ねると、そこは個室だった。点滴の管を何本もつけて、疲れ果てて痩せた詩人さんが、白いベッドの上に横たわっていた。詩人さんは手品師さんの顔を見ると、できるだけ明るい声を出して微笑み、「やあ、ひかる!」と言った。ああ、この声。いつも、詩と一緒に心によみがえってくるこの声。何度も聞いたこの声。いつも何かあると聞きたくなる、この声。
手品師さんは、セレスティーヌの手をぎゅっと握った。セレスティーヌは何も言わず、笑って、詩人さんに挨拶した。詩人さんはもう、画家さんから彼女のことを聞いていたので、笑って言った。
「やあ、きれいな人だね。光はいつも一番いいのを見つけるんだ」
ほんとにもう。と手品師さんは思う。うっすらと笑顔を返しながら、返事ができない自分がもどかしい。代わりにセレスティーヌが、わざと変な外国語なまりを演じて、いった。
「はい、わたしこのひとのつま、なるひとよ。もうすぐけこんするの。わたる、よろこんで」
「うん、よろこぶよ。うれしい」
ぐ、と手品師さんは自分の喉が鳴るのを聞いた。あとにも先にも、自分を抑えるべきところで抑えることができなかったのは、手品師さんにとって、このときだけだった。
(つづく)