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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

小春日和の週末は、鞍骨城跡のある鞍骨山へ登山道整備しながらトレッキング(妻女山里山通信)

2021-11-07 | 歴史・地理・雑学
 小春日和の週末。久しぶりに鞍骨山へトレッキング。手鋸(てのこ)と剪定バサミを持って、登山道整備をしながら登りました。名古屋から来訪の山城マニアの男性と、二組のご夫婦と邂逅。一組は貝母を案内した方達で拙書の読者でした。全国から山城マニアや歴女が訪れる里山です。もちろん拙書でも載せています。

 鞍骨山山頂。鞍骨城跡の本郭からの眺め。中央に松代城。手前は文武学校のある松代小学校。右奥には母校の松代中学校。校章は結び雁金です。卒業生には、モーニング娘。21の羽賀朱音ちゃんとか世界的アコーディオニストのcobaさんとかいます。奥の崖が見える里山には、金井山城跡があります。

(左)出発は妻女山の駐車場から右の林道へ。撮影機材に山仕事の道具もあるので陣場平までは車で。途中林道整備をしながら。(右)陣場平入り口。左に鉄の看板があり、小道を50mほど行くと陣場平です。現在は私が主宰する妻女山里山デザイン・プロジェクトの仲間が、里山で日本ではここだけと思われる貝母(編笠百合)の群生地の保護活動をしています。右下に300mほど下ると堂平大塚古墳。私有地ですが古墳の見学はできます。ログハウスがあるので持ち主がおられたら了解を得てください。ここからは徒歩で鞍骨山を目指します。

(左)少し登ると林道から別れて左へ登山道。以前はMさんが立てた標識があったのですが、腐ってなくなってしまいました。山中の標識や看板は、防腐剤を塗らないとだめです。また、熊が壊すので油性のラッカー塗装はだめです。理由は拙書の「猫にマタタビ、月の輪熊に石油」というコラムに書いてあります。(右)少し急登をこなすと、登山道は尾根から外れて右へ。斜面はダンコウバイの黄葉で輝いています。まっすぐ尾根を登ると清野古墳が二基あります。

(左)ダンコウバイの道を登るとほどなく天城山(てしろやま)と巻道の分岐。左の巻道を行きます。天城山は、手城山と書きました。山頂には古墳があり天城城跡でもあります。(右)天城山からの道を合わせてしばらく進むと二本松峠。右が倉科で清野坂、左が清野で倉科坂といいます。昔、名主をした先祖の娘二人が両村に嫁ぎ、この峠を越えて行き来していたそうです。自動車も鉄道もない頃は、皆山を越えていたのです。

(左)二本松峠から暗い杉林を登ると明るい広葉樹林に。(右)太い赤松の倒木。これは手鋸では切れません。左に巻道ができていました。

 駒止と呼ばれる深い空堀。戦国時代の馬は、木曽馬の様な山道が得意な馬だったので、越えられたかも?

(左)孫杓子。マンネンタケ科のキノコ。漢方薬。(右)高圧鉄塔。これが目印になります。

 すぐ先に二条の空堀。先の空堀からは左へ林道倉科坂線へ下る登山道があります。この空堀から先が城内となります。

(左)正面に小高い尾根が続き、両側下に幅4mほどの削平地が続きます。倒木で行けないので右へ。(右)馬場跡ともいわれる削平地。馬場跡?どうでしょう。駒止もあって馬が来られないはずですが。ここで友人のフランス人のトレジャーハンターが、宋銭と秤のおもりを発掘しています。彼は市場があったのではというのですが、まさかこんな山の奥にね。駐在する兵士の小屋があったのではと私は思うのですが。

(左)第5の郭から。左手に回って上へ。矢印とトラロープがあります。(右)こんな急斜面を登ります。石を崩さない様に。

 広い第4の郭。ここは右手に回ります。帰郷して2009年春にこの登山道を整備した時は、ノイバラ、エビガライチゴ、ヤマガシュウが生い茂って登山道を完全に塞いでいて、除去しなければ鞍骨山へは登れませんでした。何度も通って登山道整備をしました。その後、千曲市の緑を守る会や倉科のMさんなどが整備をしてくれて、誰もが登れる山になりました。

 そこから見上げる本郭。上に第3の郭。

 右に回って斜めに登ります。見上げると本郭の石垣が見えます。登る道は不明瞭で細くかなり危険です。半端ない山城だと分かります。

 本郭下の第3の郭には四角い窪地が。来る度にここは何だったのだろうと思います。井戸ではないですね。厠でしょうか。敵が襲ってきた時には、まず石を投げて糞尿をぶちまけたと史料にもありますし。

(左)その上の第2の郭は、犬走りの様な細長い郭です。(右)本郭下の石積み。割とよく残っていますが、松代群発地震で崩れたり欅の根で壊されたりしています。坂城の村上義清の葛尾城跡の様に、城跡を傷めない様に鉄の階段とか木道が整備されるといいのですが。古墳とか山城の保存や保全は非常に難しいと思いますが重要なことだと思います。

 鞍骨城跡本郭。標高798mの鞍骨山山頂。鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に脇郭と副郭、さらにその西に大郭と狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がありません。

 清野村誌によると、「村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す(現在の松代城の場所)。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言う。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。」と記されています。

 信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策。その後、武田が滅びると上杉の会津移封に伴って清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったのです。

 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ…、鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。いずれにせよ山城マニア、戦国マニア必見の山城です。


 鞍骨城跡は、12月から4月上旬の落葉期と芽吹き前以外はあまり眺望がありません。そこで拙書でも紹介していますが、本郭から東へ20mぐらい行った先に二箇所展望岩があります。手前の展望岩から北東の眺め。眼下に出発点の妻女山(旧赤坂山411m)が見えます。その向こうに千曲川。川中島が広がります。正面の尖った山は、別名戸隠富士と呼ばれる高妻山。右は長野市民の山、飯縄山。

 次の展望岩からは眼下に松代城跡。手前には松代藩の文武学校がある松代小学校。バーチャルで火縄銃や大砲が撃てます。真田宝物館、真田邸、象山神社、象山記念館がいずれも徒歩で行ける範囲にありオススメです。

 望遠レンズで長野市街を撮影。左に善光寺の表参道と山門、国宝の本堂が見えます。これは今まで知りませんでした。肉眼では見えないので、清野氏も上杉景勝も知らなかったでしょう。プロカメラマンも唸るOLYMPUSの望遠レンズの凄さを再確認。しかも、これ三脚でなく手持ちなんです。驚異的です。「私がOLYMPUSを使い続ける理由。たかが写真されど写真(妻女山里山通信)」をご覧ください。

 妻女山展望台の真下にある赤坂橋対岸から撮影した鞍骨山(鞍掛山)。右へ妻女山と矢印がありますが、まず二本松峠、天城山(てしろやま)、陣場平(謙信陣城跡・貝母群生地)、長坂峠(斎場山への分岐)、妻女山と続きます。展望岩東のコルは、自然の地形を更に掘ったものの様です。昔は石段があったと聞きました。空堀二つの下には水の平という窪地があり、水場だったといわれています。現在は熊やイノシシのヌタ場になっています。(2017年11月撮影)

象山から鞍骨山、天城山から斎場山、土口将軍塚古墳から薬師山へのトレッキングルポ
離山の麓から鞍骨山を望む(象山から鞍骨山、天城山、斎場山、妻女山までの大パノラマ)

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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