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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

上杉謙信の誤算(妻女山里山通信)

2008-07-10 | 歴史・地理・雑学
 山本勘助が信玄に「この度の軍術木啄(ぼくたく・きたたき・啄木鳥)の木をつついて虫を取るに朽つる穴を構わず後ろの方を嘴にてたたき候 故に虫は前に現るを喰い候 この度の軍法ははばかりながらこれに等しく存せられ候と申し上げる。」と提唱します。

 さらに、「半進半退の繰分と唱え、味方二万余の御勢を二手に分けて、一万二千を大正(たいせい)の備え、八千余人を大奇(たいき)の備えとし、一万二千の大正をもって夜中に妻女山に押し寄せ、不意に切って入らば、さすがの謙信もこれに驚き山を逃げ下り、川を渡るところを、味方八千余人と引率し川中島に備えを立て、越後勢が犀川の方へ渡らんとするところを待ち構えて、ことごとく討ち取ることは、礫(つぶて)をもって鶏卵を打ち砕くに等しい。味方の勝利は疑なし。」と続くわけです。(『実録甲越信戦録』より)

 斎場山(妻女山)布陣で、炊飯の煙を見た謙信は、「諸葛孔明名付けて半進半退の術と云い、日本にては繰り分けの術と云えり。」と武田信玄の啄木鳥戦法を見破ったとされていますが、『甲陽軍鑑』には、啄木鳥戦法という言葉は出てきません。これは、中国春秋時代、呉の将軍・孫武が書いた兵法書『孫子』の軍争篇の一説です。これでは、一般大衆はなんのことか分からないので、江戸時代に出版された『甲越信戦録』の作者によって啄木鳥戦法と命名されたのでしょう。もっとも啄木鳥には、いわれるような習性はありませんが。これは山本勘助が無知なのではなく、江戸時代の作者が啄木鳥の生態を知らなかったのでしょう。

 炊飯の煙を見て見破ったとありますが、実際は上杉方の記録にあるように間者や乱取りの兵などの情報が入ったのでしょう。確かに闇に乗じて象山の陰より南進し、西條の入から登って戸神山脈中腹の唐木堂に潜めば、倉科はすぐ峠の向こう、鞍骨は大嵐の峰づたいにすぐです。しかも、斎場山からは天城山を越えるか唐崎を回ってくるまで見えない。相手の喉仏まで迫れるわけです。別働隊に選ばれたのは、高坂弾正、真田、相木、芦田など地の利に長けた信州勢。迎える本隊は、甲州勢。作戦は完璧に思えました。

 しかし、別働隊が斎場山に到着してみると蛻の殻。この決戦の日は9月10日とありますが、現行暦にすると10月28日だそうです.。早ければ北信濃では小雪が舞ってもおかしくない季節。お互いにとって後がない状況だったわけです。月齢は9日目、霧の出る前夜は空が澄み月明かりもあったはず。月の入りを待って双方は動き出したと思われます。この頃、川中島には川霧が立ちはじめます。霧は急激に増殖し自然堤防を溢れ山裾に押し寄せ、ついには山をも隠してしまいます。地元の人はみな知っていますが、10m先さえ全く見えない状態になります。フォグランプを点けても車の運転もままならないほど。一度上信越道でそういう状況になったことがありますが、風景がホワイトアウトしてしまって、空間感覚がなくなり恐怖を覚えた経験があります。

 上杉軍は、雨宮の渡を渡ったとする本や、屋代の渡、戌ケ瀬、十二ケ瀬を渡ったとする本がありますが、斎場山の上から下まで、清野から岩野、土口まで布陣していたのですから、数カ所の瀬から渡ったとみるべきでしょう。記述が分かれたのもそのためだと思います。

「越後方は、月の入りを待って、静かに用意をして、丑の中刻(午前3時頃)妻女山を出給う。直江、甘粕、柿崎宇佐美の諸将は下知し、十二ヶ瀬、戌ヶ瀬を渡った。謙信公も戌ヶ瀬を渡るなり。直江山城守は、小荷駄奉行として、人夫に犀川を渡らせ、自分は丹波島に留まる。甘粕近江守は一千余人で東福寺に留まり、妻女山に向かいし敵兵が出し抜かれて、やむなく川を渡ろうとするのを阻止するため川端に陣を備えた。」(『実録甲越信戦録』より)

 さて、上杉軍は車懸りの先方で武田軍に襲いかかったとありますが、まあ相手の虚を突いた振り向き様シュートみたいなものでしょうね。上杉軍は表向きは善光寺へ向かって進軍していたそうですから。霧は日が昇ると共にアッという間に消えます。武田軍は鶴翼の陣とありますが、おそらく千曲川、つまり斎場山の方を向いていたでしょうし、まだ早いからと陣形も充分ではなかったと思われます。驚愕したでしょうね。

 しかし、上杉軍は武田軍を打ち破ることはできませんでした。これは、甘粕隊や直江小荷駄隊などを除いた上杉軍の数が武田軍とほぼ同数であったからではないかといわれています。そこへ別働隊が加わったのですから多勢に無勢。上杉軍は敗走するしかなかったわけです。

 雨宮の渡には有名な頼山陽の詩碑があります。
「鞭声粛々夜過河 暁見千兵擁大牙 遺恨十年磨一剣 流星光底逸長蛇 」
(鞭聲肅肅夜河を過る 曉に見る千兵の大牙を擁するを 遺恨なり十年一劍を磨き 流星光底に長蛇を逸す)
 結局川中島は信玄の領地になってしまったわけですから、謙信の悔しさはいかばかりのものだったか計り知れません。しかし、日本海を制し上洛するという信玄の夢も叶うことはありませんでした。まさに強者共が夢の跡。歴史とは実に残酷なものです。

 妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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