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旧埴科郡(現長野市松代町・千曲市)における山名の考察【妻女山里山通信】

2008-07-03 | 歴史・地理・雑学
 旧埴科郡における山名の考察をしてみると、尾根を境に反対側で異なる山名をもっているという例がいくつもみられます。山名の統一ということも実はなかなか難しいのです。また、山名が時代と共に変化した例もあります。明治13~15年頃調査の「長野県町村誌」の記述から見てみたいと思います。

 例えば、鏡台(臺)山から北へ延びる埴科山脈において、西条の戸神山は、千曲市倉科では、三瀧山といいます。その北の1042mは、埴科郡誌で規定している戸神山である可能性があり、さらに北の大嵐山は、倉科では杉山。さらに北へ御姫山、母袋、越山(下に清野の越という集落がある。松代では小丸山という)、象山と続きますが、なぜか御姫山は、倉科でも御姫山です。母袋山というのは、越山と象山の間、母袋城跡のことか。その上の字母袋の最高地点の尾根の肩か不明です。そこは、清野の字深山の最高地点で、清野から見ると三角の山頂に見えますが、実は鏡台山から続く戸神山脈の尾根の先端(肩)にすぎません。清野では深山と呼んでいます。

 清野氏の鞍骨城の支城、天城城のあった山は、千曲市土口では天城山、または手城山といい、倉科では坂山、岩野でも坂山、清野では倉科坂山と称しています。おそらく天城山よりも坂山の方が古い山名かもしれません。頂上には坂山古墳があります。生萱では入山といいます。誰でも薪を取りに行ってもいい山だったのでしょう。入山という呼称は、妻女山にもあります。

 象山の東のふもとには、黄檗宗象山恵明寺(おうばくしゅう ぞうざん えみょうじ)があります。この寺を創建する際に、明から承応3(1654)年に来日した 隠元禅師僧の故郷の地名をとって、山号を「象山」としたそうです。正しくは、「臥象山」といいます。桂林に同じような形の有名な山があります。須坂の臥龍山のように龍や象が臥せた形を形容した山名は、中国から伝わったものです。隠元禅師は隠元の名に由来するインゲンマメや蓮根、スイカなどの野菜や中国の精進料理「普茶料理」も日本に紹介しました。

 つまり象山と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期以降で、それまでは竹山と呼ばれていたか(竹がたくさん生えていた)、西条氏の山城にちなんで西條山と呼ばれていたと思われます。ちなみに妻女山と西條山はまったく別の山です。戦国時代に妻女山という呼称はありませんでした。江戸時代の創作です。妻女山は、斎場山(齋場山)というのが正式名称です。祭場山というのは、土口と生萱村誌のみに出てきます。おそらく松代藩が創作した妻女山に対抗して、斎場山と読みを同じくして村民によりつくられた近世の名前でしょう。

 さらにややこしいのは、斎場山というと513mの円墳のある土口と岩野の境にある山頂でしかないのですが、妻女山という場合には、本来の斎場山をいう場合、赤坂山を指す場合、陣場平を指す場合とあるのですが、部外者にはなかなか区別がつかないと思います。多くの書籍(地名辞典や歴史書)の記載の混乱は、この呼び方と指し示す場所の違いに起因するものです。妻女山と書いた時には、必ずしも山頂を意味しないということなのです。旧清野村の字妻女山や旧岩野村の字妻女を指している時があるということです。本来の妻女山である斎場山は、旧岩野村の字妻女にあるのです。しかも、旧清野村の字妻女山や旧岩野村の字山浦(裏)には、それぞれ妻女という地名があるのですから、混乱します。地元でもこれらを正確に把握している人はほとんどいないと思われます。詳細は、妻女山の字名地名についてをご覧ください。

 ところで『コンサイス日本山名辞典』修正版1979刊を見たのですが、妻女山は(西条山)となっていて、長野市と更埴市(現在は千曲市ですが)の間にある山。標高は546mとなっているんですね。内容は、『角川日本地名大辞典』そっくりという感じです。これは日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部制作の地図を元にしたものですが、この地図は誤りや恣意的と思われる捏造も多く非常に不正確です。546mの妻女山は、全くピークのない場所にさも山がある様に等高線が描かれている有様です。現地にも行っていないし、正しいかどうかの検証もしていないというところでしょう。こんな感じで誤った情報が、真実であるかのように流布していってしまうのですから、恐ろしいと思います。

 松代の東にそびえる東条の奇妙山は、一に佛師嶽とあります。さらに奇妙山より高い山として立石嶽と記載がありますが、埴科郡誌によると掘切山のことです。しかし、実際は同じ尾根ですが別の山頂です。掘切山は若穂側、立石嶽は松代側に山頂があります。また、笠原山という記述も出てきます。埴科郡誌には地図が添付されていないので位置は不明です。今度山名事典を見てみましょう。当時は正確な地図と方位磁石がなかったためか、方向の記述に間違いがかなりあります。

 東条の里、尼厳(雨飾)山の支脈にある天王山は、山というより丘に近いのですが、その山のある鋤崎(すきざき)は、往古は兒(児)玉崎といい、上杉軍が可候(そろべく)峠を越えた後に、加賀井から東条へ進軍するとき越えた峠といわれています。また、寺尾城のある城山は、その形から寺尾小富士の俗名があります。

 また、武田軍が狼煙をあげたことで名付けられた西条の狼煙山は、一に高テキ山とありますが、その山の形から本名は舞鶴山ではないかと思われます。狼煙山とついたので本来の山名が、下の白鳥山に移動したのではないかと思われるのですが確証はありません。江戸時代の絵図では、高遠山を西條山と記したものがあります。

 千曲市土口において、岩野の薬師山(笹崎山)は、北山といい、唐崎山(朝日山)は南山ともいい、生萱では、北山といいます。俗称は、単に方向のみで呼ぶ場合があります。ですから同じ北山でも、村によって指す山が違ってくるのです。

 鞍骨城のある鞍骨山は、倉科では清野城ともいい、清野山ともいうようです。倉科城(鷲ノ尾城)のある鷲尾山は、城山ともいいます。岩野では倉科尾根といいますが、では倉科山というかといいますと、倉科山は三滝山の下の字名になり別の場所です。但し、岩野の人は、倉科尾根を倉科山ということがあります。

 森将軍塚古墳は、大穴山にありますが、大穴郷(おうなごう)の名称の元になった山で、大穴山から雨宮、生萱、土口、岩野、清野、さらには西条までを大穴郷と称したという記述も残っています。森村の古清水寺には、信濃国縣庄大穴郷清水里森村という木札が残っています。国、縣、庄、郷、里、村の連記は珍しいということです。

 山の名称というのは、まず地元の人がなんて呼んでいるかというのが基本です。また、寺社のある山は、山号も調べる必要がありますが、全く別の山名を称している場合もあります。国土地理院の三角点の名称は、三角点の名称であり、山名と異なる場合もあります。間違って記載され、そのままになっている例もあるようです。

 岩野では、赤坂山は妻女山で定着しています。土口将軍塚古墳は荘厳山ともいいます。笹崎山は、薬師山で定着しています。斎場山だけがいつしか忘れられてしまいました。今後は、この歴史ある山名を広め、定着させていきたいと思っています。

 また、地域文化(歴史・自然・環境・開発・保護など)のために、地元自治体も地図作成者も、登山者やハイカー、自然愛好家だけでなく一般の市民の方も、自然地名に、もっと感心と責任を持っていただきたいと思うのです。

 ところで、松代藩には全国に自慢すべき古地図があります。信濃教育博物館にある「松代府内測量図」です。松代藩は、元禄の国絵図では不十分であるとして、嘉永3年(1850) 東福寺泰作に領内の測量と実測図作成を命じ、安政2年(1855)に完成させました。全11図、縮尺は約1/6000で、相当に緻密で詳しく、しかも美しい地図です。ぜひこれを印刷して販売して欲しいと思うのですが、いかがでしょう。

 妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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コメント (3)
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