モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

武田別働隊はどこをたどったか!?【妻女山里山通信】

2007-10-06 | 歴史・地理・雑学
前回に続き次男に、武田別働隊の辿ったと思われる経路を、別の角度から作ってもらいました。松代の東にそびえる奇妙山上空2000mから見た図です。プラス、その断面図も作ってもらいました。

黄色い線が、海津城を出陣した武田別働隊が辿ったと思われる経路です。西条の入から唐木堂越え、大嵐の峰を辿り、鞍骨、天城を巻いて妻女山(斎場山)へ攻め込みました。『更級郡誌』には、甲ノ十将が夜間越えたる処として戸神山の記載があり、倉科生萱土口等より妻女山を襲うため、とあります。つまり、軍勢を大嵐の峰で隊を分けて、一部は倉科、生萱、土口に下りて妻女山へ向かったと解釈できます。

断面図は、海津城から西条の入--唐木堂--戸神山--大嵐山--鞍骨山--天城山--東風越--斎場山--薬師山--岩野のものです。標高差:約835m。戸神山に登ってしまえば、多少のアップダウンはあるものの、後は下りということが分かります。東風越で隊を分けて一部は赤坂山(妻女山)へ攻め込んだと思われます。倉科に下りた隊は、一部が二本松峠から妻女山へ、生萱・土口を回った隊は、土口の古大穴神社から薬師山へ、あるいは堂平から陣場平・斎場山へ攻め込んだと思われます。

こんな長い尾根を深夜に歩けるのだろうかと思われるでしょう。不可能だという歴史家も少なくありません。ところがどっこい大正時代のことですが、まだ坂城、戸倉、屋代、松代が同じ埴科郡だった頃、鏡台山はその中心に位置していました。そこでなんと山頂で小学生の合同キャンプと運動会が開かれたわけです。

大正9年5月27日には、埴科郡の尋常小学校5年生以上の児童が、鏡台山頂に集まり、合同運動会を開催しました。清野・岩野からは、小学生が鍋釜・米・味噌・缶詰・野菜・着替えなどを背負って、妻女山から天城山、鞍骨山を周り、戸神山脈を辿って鏡台山まで行き、飯盒炊さんをして翌日の運動会に備えたといいます。運動会は、合同体操に始まり、綱引、鉢巻取、襷(たすき)取、棒倒しなどを行ったということです。

驚くのは、夕食の後、ドドドドーン!という轟音と共に浅間山が大噴火し、真っ赤な火柱が見えたというのです。生涯忘れえない想い出となったことでしょう。今時の子供なら登るだけでも精一杯、体力のない子は無理かもしれません。七回ほど開催されたそうですが、雨天により登山途中で中止になったりで、大正12年より廃止されたということです。

 夜の行軍とはいえ、ましてや命を受け命をかけた武士達ですから、このルートを辿るのは大変なこととはいえ不可能ではないと思われます。戸神山脈の尾根に登れば、妻女山までの尾根道はほとんどが下りだというのも見逃せません。現代人のやわな体力や山に対するリテラシー(読解力)の無さを基準に考えてはいけないということです。ちなみに岩野あるいは清野の麓から鏡台山までは、山に慣れた人なら6~7時間ぐらいで登れます。但し、月の輪熊や猪の生息地なので、対策は必須です。オオズズメバチ、マムシにも要注意。

詳しくは、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。もっと大きな図や、絵地図、妻女山・鞍骨山トレッキングルポなどがご覧いただけます。

参考資料:『清野小学校開校百年誌』『更埴市誌』『埴科郡誌』他
■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作。高さを1.5倍に強調。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする