風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

パレスチナ

2008-08-30 | ヨルダン事情・暮らし・気質
仕事でアンマンの南西約30kmのマダバ市に行く機会があった。

マダバの周辺にはキリスト教に関する史跡も多く観光地である。
ビザンチン時代(紀元後4~7世紀)にはマダバ市内にも数多くの教会が建てられ
内部にはモザイクが施されている、イスラム教が興隆する前の話である。
そのマダバの西10kmにモーゼ終焉の地と伝えられるネボ山がある。

マダバには現地の社員とドライバーとで行ったのだが、
この二人朝から日ごろと違ってテンションが高いようだ。
聞いてみると二人とも1960年代後半のパレスチナ難民だ。
もし仕事が早く終われば是非ともネボ山に行き故郷を偲びたいという。

ヨルダンにはパレスチナ人が多い。国民の7割を占めている。
政府の政策が難民受け入れに寛容なのが影響しているのであろう。
多くの地区に難民キャンプと呼ばれる地域が今もある。

パレスチナ人は全世界で1,009万人(2005年末 パレスチナ中央統計局)といわれている。
現在パレスチナ暫定自治区が設定されておりヨルダン川西岸地区とガザ地区に分かれる。


(薄黄色がパレスチナ暫定自治区
 大きなほうが西岸地区 左の小さいほうはガザ地区)

西岸地区(5,655平方km)は三重県ほどの面積で241万人が住み、
種子島ほどの大きさのガザ地区(365平方km)には142万人が住んでいる。
超過密状態であることが窺われる。

旧約聖書の中のモーゼがエジプト王の迫害を逃れて、ヘブライ人を率い出エジプトを敢行したという話は多くの人が耳にしたことがあるだろう。
モーゼとその一行はシナイ山で十戒を授かったあと、現在のヨルダンを北上したと言われているが
ルートについて確かな記録はない。
ネボ山でモーゼは率いてきた民に「あれが約束の地だ」という言葉でパレスチナに向かうよう促し、
自身は山上から見守り亡くなったとされている。

この故事からわかるようにネボ山からは、パレスチナ高原にガスがかかることも多いが、
パレスチナの地やエルサレム、エリコなどを遠望することができる。

手早く仕事を片付けネボ山に行くこととする。
パレスチナ方面を望めるポイントに来ると二人は暫し沈黙である。
何を思うのであろうか。


(望郷にふける二人 手を拡げてるのがドライバー)

こんな風景をかって見たことがあるような気がする。
記憶を辿って過去にさかのぼる。
思い出した!

30年ほど前、返還前の香港に行ったとき国境沿いに中国を望んだことがある。
そのとき同じように郷愁にかられている人たちを目撃した。
我々の中国人ガイドは「ここはいい!風の匂いがちがう」といって懐かしんでいた。

現在も韓国の人が国境沿いに北朝鮮を望む姿がTVで放映されるのを観ることがある。

どんな民族にとっても故郷を想う気持ちは同じなのであろう。
故郷を追われたり失ったり、また引き裂かれたりの人たちを想う一日であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予約完了(飛行機、ホテル、レンタカー)

2008-08-23 | レンタカーによる中欧個人旅行記
中欧旅行の予約が全て完了した。

飛行機については旅行会社に頼むことにした。
というのは、我家の大家代行は旅行会社を経営しているからだ。
料金をネットで調べたり、他の旅行会社をあたったが値段は基本的に変わらない。
大家代行から多少のディスカウントのオファーがあった。

でもここで大きな誤算が生じていた。
原油の高騰により以前調べたときよりサーチャージが50ドルほどあがっているのだ。
結局一人680ドルとなり、二人で当初の予定額1260ドルより、
はやくも100ドルの予算オーバーとなってしまう。

ホテルはダイヤモンド社発行の「地球の歩き方」を参考に値段と寸評を基にし
インターネットを通して下記のように予約した。

1泊目   センテンドレ Kentaur Hotel(www.besthotelsbudapest.com/kentaur%20hotel.htm)                    60EU(朝食付)
2泊目   ブラチスラバ Ibis Bratislava Centrum(www.ibishotel.com)    82.40EU
3、4泊目 プラハ Pension Museum(www.pwnsion-museum.cz)   106EUx2(朝食付)
5泊目   チェスキークルムロフ Hotel KONVICE(www.boehmerwaldhotels.de)   72EU(朝食付)
6,7泊目 ウイーン Ibis Wien Mariahilf(www.ibishotel.com)      初日64EU、2日目89EU
8,9泊目 ブダペスト Ibis Budapest Heroes Square(www.ibishotel.com)   60EUx2

6ヶ所に宿泊することになるが予算の関係でどうしても日本にもあるIbisが3ヶ所となってしまった。
ビジネス・ホテルのようで風情がないだろうと想像するが仕方がない。
プラハにもIbisはあったが、ここは折角の古い街並みの風情を楽しみたいとの想いから
朝食付のペンションを選ぶ。

ウイーンとブダペストのIbisでは変更・取消不可の条件で低料金の提示があったため、
リスクを感じながらも、航空運賃が予算オーバーの身、そちらを選択した。
2~3割は安いようだ。
ブラチスラバのIbisではそのような提示は残念ながら無かった。

宿泊代としては合計593.40EU、およそ950ドルとなる。
まずまずである。

最後にレンタカーの予約を行う。
安い地元の店もあったが、海外での配車トラブルなどの危険を考慮し、空港に営業所のあるAVISを選んだ。
AVISでは10%のJALのマイレージ会員割引があることを知る。
それでも地元の店よりは2~3割は高い。

料金は9日間のレンタルで444.53EU,GPSが1日あたり8EUで72EU、
合計561.53EU,およそ824ドルとなった。

GPSは当初見積もっていなかったが、宿泊代が予算内に収まったことと、マイレージ会員の割引が使えることから装備することにした。
不案内なヨーロッパでの道案内として期待してるが、使いこなせるかが心配だ。
車は一番コンパクトなグループを指定、AT車、MT車の指定は予約時にはできないようである。
ヨーロッパのことなのでおそらくMT車だろうと覚悟している。

ここで計画時予算との比較を見てみる (単位は米ドル)

             計画時予算    予約後    
航空運賃(二人分)   $1,260   $1,360
宿泊代(9泊分)      $1,170     $950
レンタカー代         $700     $824
  合計          $3,130   $3,134

とほぼピッタリの数字となった。
我ながら立派!

あとは9月12日の出発を死守するだけだ。
フライトはアンマン発11:30、ブダペストには14:10着の予定である。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨルダン人の暮らしぶり

2008-08-18 | ヨルダン事情・暮らし・気質
ヨルダン人の生活レベルについて考えたい。

アンマンのモールにはヨルダン人も沢山来ている。
カートに山ほどの物を入れてる人も数多く見かける。
彼らの消費意欲はこれが被援助国かと眼を疑うくらい旺盛だ。
事実、一人当たりのGDPでは被援助国の水準を越えてきてるらしい。
中東の比較的政治的に安定した国という地政学的特徴、「ぜひ味方につけたい」との思惑から
日本、米国、ロシアをはじめ各国が競って援助の手を差し伸べてるのではと思うことも多い。

街並みもかなり整備されてきている。
ダウンタウンには多くの古い街並みが残るが、アンマン市西部のほうでは
近代的な街並みが整備されてきている。
歩行者天国もあり、スターバックスなどの店が軒を並べる。


(お昼の歩行者天国  日中は暑いため人はあまり出歩かない)

日中はそれほどでもないが夜になると涼を求める人で賑わう。
着ぐるみや、すべり台などもあり子供達も楽しげだ。


(スターバックスを背景にポーズをとる着ぐるみ
撮影代として0.5JD(75円)取られた)

(空気で膨らませたすべり台)

話はちょっとそれる。
ヨルダン人の生活は、実力以上にかなり膨張してるのではと感じている。
ヨルダンは恒常的に大幅な輸入超過の貿易構造を続けておりその赤字幅は年々拡大している
(2005年にはGDPの約40%)
この赤字を埋めているのが海外(湾岸諸国、欧米)在住のヨルダン人からの送金(GDPの約20%)、
海外からの財政援助(GDPの約10%)、湾岸諸国を中心とした
海外からの直接投資(GDPの約10%)である。
ざっくり言って、ヨルダン人はかなり水増しされた生活を享受してるといえるのではないか。

現在、ヨルダンの経済活動は好景気の湾岸諸国の影響もあり、ビル・ラッシュに
代表されるよう絶好調である。
これらのビルにはショッピング施設も作られ、今以上にファッショナブルとなるであろう。
この経済好調の追い風を受けて、早期に貿易構造の改善などの施策が効を奏し、
水増しじゃなく真水での生活を謳歌できるようになることを願ってやまない。
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

結(沖縄音楽公演)

2008-08-13 | ヨルダンでの日本文化紹介
久しぶりに「君が代」を聴いた。

日本大使館の後援により結(沖縄音楽公演)がフセイン公園で催された。


(公演を知らせるポスター)

公園は我家から車で15分くらいの所にあり、広大な敷地内にサッカー練習場などのスポーツ施設
いくつかの野外施設からなっており、この季節夕涼みがてらの家族連れで賑わっていた。

公演は奥の小高い丘にあるローマ劇場を思わせるような施設で行われた。
入り口には日の丸の上に漢字、アラビア語、英語で日本を表わす看板があり、
ゆかた姿の若い女性やカップルも数組見られ、ここをヨルダンと思わせない風情もあった。


(入り口近くの看板)

8時になると、日本大使の案内のもとライヤ王女が入場される。
なんでもライヤ王女は現国王の腹違いの妹君だそうだ。

王女、大使が貴賓席に到られると同時にヨルダン国歌の演奏、全員自然と起立する。
つづいて「君が代」の演奏が厳かに始まった。
とたんに琴線に触れるものがあり目頭が熱くなるのを感じた。
異国で聴くせいであろうか、今まで聴いた中でも一番にあげられるくらい
心の奥底までズシーンと響いた「君が代」であった。

沖縄音楽がヨルダン人に受け入れられるのだろうかと心配したが、皆真剣に聴き入り、
また沖縄舞踊を楽しんでおり、拍手のポイントも当を得ていた。
音楽に国境のないことをあらためて感じる。


(沖縄舞踊と演奏)

「結(ゆい)」とは昔から見られるもので、小さな集落や自治単位における共同作業の制度である。
富山県の五箇山から岐阜県の白川郷にかけての合掌集落では、今でも茅葺屋根の葺き替えに
結の制度が残っていることは知られている。

沖縄でも「ゆいまーる」または「いーまーる」と呼ばれ「結」の相互扶助の制度が今なおあるそうだ。

公演名を「結」としてるのも日本とヨルダンの相互扶助を願ってのことかと勝手に想像しながら聴いていた。

遠く眼下にアンマンの夜景を望み、爽やかな風を受け心地よい夜だった。
また「君が代」をとおして自分のアイデンティティを強く呼び起こさせられた公演であった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

医療事情(3) 女性療法士

2008-08-08 | ヨルダン事情・暮らし・気質
主任の検査を終え個室で待っている。

ほどなく妙齢の瞳がブルーの女性が入ってくる。
妻の担当らしい、名をナターシャという。
名前からわかるように、祖先は黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地域にある
ロシア連邦チェチェン共和国の出身で本人はヨルダンで生まれたそうだ。

早速ジェルを患部に塗り超音波による治療に入る。


(治療するナターシャ)

彼女は大学で理学療法を学び資格を取ったとのこと。
妻に聞くと、ゆっくりとやさしくポイントを抑えた丁寧な治療をしてくれ非常に上手らしい。

話をしていると日本文化や漢字に興味があるらしい。
後日、妻が漢字でナターシャと書いてプレゼントすると大喜びで
なんでも額に入れて飾るそうな。


(プレゼントした書 菜多紗=ナタ-シャ)

ヨルダンにはチェチェン民族が1万人くらいいるそうで、彼らのコミュニティがあり民族の結束は固いらしい。
彼女自身もアラビア語はもちろん、チェチェン語も話す、英語も上手だ。
彼女の容貌はあきらかにアラブ系のそれとは異なり白人系である。

こちらで人の顔を見ていると、アラブ系はもちろんアジア系、アフリカ系、ヨーロッパ系と
さまざまな顔に出会う。まさに人種・民族のるつぼである。

先史古代文明時代【紀元前3000-紀元前4世紀)、ギリシャ・ヘレニズム時代(紀元前4世紀ー紀元前1世紀)、ローマ時代(紀元前1世紀ー紀元後4世紀)、ビザンチン時代(紀元後4-7世紀)、イスラム初期時代(7世紀ー9世紀)、十字軍時代【11-13世紀)、アイユーブ朝・マムルーク時代(12-16世紀)、オスマン・トルコ時代(16-20世紀)を経て現在に至るまで歴史の激動の中、戦争、征服、被征服を繰り返すなか,
それらをくぐり抜けながら生きてきた人たちの結果が今ここにしっかりと存在している。

話が横道にそれたがナターシャの治療は続く。


(熱心に治療するナターシャ)

彼女はムスリム(イスラム教徒)だが、いまだかって髪を覆うムスリム独特のスカーフは
嫌いだからといってしたことがないそうだ。
写真も気にしないと言う。
アンマンの中心部ではスカーフをしてない女性を多く見かける。
女性ムスリムの意識も特に若い人や都会あたりでは変化しているのかも知れない。

妻はこれから暫く週2,3回のペースでナターシャの治療を受けながら様子をみることとなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする