風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

エジプト旅行 4日目 その1(アスワン経由アブシンベルへ)

2009-10-26 | エジプト個人旅行記
5月21日(木) 晴れ

6:00 起床

今日は飛行機でアスワン経由でスーダン国境に近いアブシンベルへ行く予定である。


(カイロより南下しアスワン経由でアブシンベルに飛ぶ
 青線はナイル川)

早速朝食をとるためレストランに行く。


(サービス・テーブル1)


(サービス・テーブル2)

7:00 タクシーで空港に向かう。

エジプト航空の国内便は最近できたターミナル2から出るらしい。


(最近できた新しいビルディング)


(ターミナル2)

我々のアスワン空港行きの飛行機はEmbraer170で
76人乗りの小型であった。


(Embraer170 76人乗り)

機内はほぼ満席のようである。


(機内)

9:00 予定通り離陸。

離陸後30分くらいでナイル川が見えてくる。


(ナイル川)

10:25 無事アスワン空港に着陸、1時間25分のフライトであった。


(アスワン空港)

乗継があまりよくなく、我々はアブシンベル行きのフライトを空港待合室で
2時間半ほど待たなければならなかった。

ちょうどイタリア人の観光客15名ほどを引率しているガイドと顔見知りになり
アブシンベルやアスワンでの交通事情、タクシー料金の相場、
またクルーズ船の停泊場所などを聞きまくった。

これはアブシンベル、アスワンでの送迎サービスを費用の観点で取りやめ
自分らで手配しなければいけない我々には貴重な情報となり大いに助かった。


(お世話になったイタリア人観光客のガイド)

アブシンベル行きの飛行機はA320で145人乗りである。

機内はおよそ5割から6割の乗車率のようである。


(A320 145人乗り)

13:00 アスワンの南280kmのアブシンベルに向けて離陸、
およそ45分のフライトである。


(北のアスワンよりナセル湖をはさんでスーダン
国境のアブ・シンベルに飛ぶ 青線はナイル川)

ほどなくナセル湖が見えてくる。

これはアスワン・ハイダムができたことによってできた人造湖であり
琵琶湖の7.5倍だという。


(人造のナセル湖 琵琶湖の7.5倍)

そろそろアブシンベル空港に着陸といった時に、ナセル湖の沿岸に
アブシンベル神殿が目に飛び込んできた。

上空からの神殿を見れるなんてなかなかラッキーである。


(上空からの神殿)

13:45 アブシンベル空港着陸。

空港敷地内にピラミッドのようなものが見られた。
ここにもピラミッドがあるのかと思ったが、どうも違うようだった。


(空港到着 Pyramid?)

ガイドから教えてもらった無料のバスに乗りホテルに。

ホテルにはゲートがあり、敷地はかなり広いようだ。


(ホテルのゲート)

バスはゲートを抜けてホテル玄関に到着。


(ホテル玄関)

ホテルの客室は広い敷地内に配置されている。


(構内)

部屋に入ると室内は二人の荷物を置くにはちょっと狭いが
なかなか快適そうである。


(ベッド)


(バス)

部屋に荷物を置いた我々は早速アブシンベル宮殿へと向かった。
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エジプト旅行 3日目 その2(オールド・カイロ)

2009-10-19 | エジプト個人旅行記
イスラーム地区からオールド・カイロは10kmほどの距離であり,
オールド・カイロはカイロ発祥の地といわれている。

まずコプト教会に行く。

コプト教とはエジプトを中心とした原始キリスト教の一派である。


(コプト教会 ムアッラカ教会)

オールド・カイロ地区には、今でもコプト教徒がかなりいるそうで
教会は葬儀中だった。


(葬儀中の教会内部)

教会に隣接してコプト文化の芸術品や文書、フレスコ画、彫刻、壷、コプト織物
などがいくつもの部屋に分かれて展示されているコプト博物館がある。

時代的には古代王朝およびグレコ・ローマン時代から、アラブ・イスラーム国家へと
移行する時代の文物の展示である。


(コプト博物館)

また博物館の一角には、今は教会となっている聖ジョージ修道院がある。


(ドームが美しい聖ジョージ修道院)

新約聖書の伝承に、イエスの家族が難を逃れるためエジプトに渡ったということが
述べられているが、
そのとき一行が身を寄せた場所にこの修道院は建てられているそうだ。


(修道院内部)

内部は薄暗く、そのため厳粛さをよけいに感じさせる。


(ドーム天井)

オールド・カイロのコプト地区を離れてランチに向かう。

今日のランチはナイル川に浮かぶ船上レストランでとる。


(船上レストランからナイル川を望む)


(ランチ)

ランチをすませた我々はカイロ随一のおみやげ商店街といわれるハーン・ハリーリに
行くため再びイスラーム地区に向かう。

途中、イスラーム世界の最高学府をもつガーマ・アズハルを車中より見る。
このガーマ(寺院)はミナレットが5本もあることからも、その格式の高さをうかがえる。 

ガーマの創建は970年で988年には付属のマドラサ(高等教育施設)が建てられ
これが現在のアズハル大学となった。
今に残るイスラーム世界最古の高等学府である。


(ドーム、尖塔が印象的なガーマ・アズハル アズハル大学前身)

ハーン・ハリーリの歴史は古く14世紀末には市ができたらしい。


(ハーン・ハリーリ)

大半がみやげ物屋で、旅行者が必ず立ち寄る観光名所だ。


(路地より尖塔を望む)


(路地にあるみやげ物店)

ハーン・ハリーリ観光後、今日のホテルに向かう。

昨日までのホテルは空港まで遠いため、若干空港に近めのカイロ中心部に宿をとった。
明日はカイロ空港より9:00発のフライトでアスワン空港乗換えで
アブシンベル空港まで飛ぶ予定である。


(今日のホテル ビクトリア・ホテル)

こじんまりとした玄関とは違って、ホテル内はかなり広く古くからのホテルのようである。

室内もきれいだ。


(落ち着いた雰囲気の室内)

16時頃だったであろうか、まだ夕食には時間があるため6日後の砂漠キャンプに
行くためのバスの予約をするために長距離バス・ターミナルまで行くことにした。


(市内風景)

道を横切るのは慣れない我々にとっては大仕事である。


(道路を横切る人)


(車線のない道路)

ちょっと道を間違えたため20分ほどかかってターミナルに着く。

そのターミナルは想像した以上に大きく綺麗である。
最近できたものらしい。


(トルゴーマン 長距離バス・ターミナル)


(電光表示板のある乗車券売場)

無事、乗車券を購入した我々は一旦ホテルに戻る。

17:45 タクシーを拾い夕食に向かう。

今日の夕食は昨日行った韓国焼肉店の近くにあるタイ料理を考えている。

お店に入ってみるとそこは本格的なタイ料理を出してくれるようだ。
しかしタイ人のウエイターなどはいないようだ。

何品かの料理と、ビール、ワインを注文。


(タイ料理)

料理は期待を裏切らず美味しいものだった。

暫らくタイ料理からは遠ざかっていたのでよけいそう感じたのかもしれない。

20:30 ホテルに戻る。

明日は6:00起床の予定だ。

22:00 就寝。
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エジプト旅行 3日目 その1(イスラーム地区)

2009-10-12 | エジプト個人旅行記
5月20日(水) 晴れ

7:30 ガイドとロビーで会う。

今日はカイロ市内観光の日である。
午前はイスラーム地区、午後はオールド・カイロの予定だ。

エジプトの世界遺産といえば、ピラミッドや神殿などの古代遺跡が有名だが
カイロのイスラーム地区のイスラム建築群も世界遺産に登録されており
その数は600以上にのぼるそうだ。

また「1000のミナレットの街」と形容されるように、
どこかしこにミナレット(尖塔)が見られた。


(どこからでもミナレットが見られる)

我々はまずシタデルに向かった。


(シタデル)

これは十字軍を打ち破った中世アラブ世界の英雄にしてアイユーブ朝の創始者
サラディンが1176年、対十字軍の拠点として丘の一角に建設した城塞である。


(シタデルの見張り塔)


(投石のための武器)

シタデルの中には1857年に完成したガーマ・ムハンマド・アリがある。
ガーマとは寺院という意味である。

この寺院はオスマン朝支配下にあったアラブ諸国の中で、一番早く近代化の
基礎を築いたと言われているムハンマド・アリによって建てられた。

余談だがこのムハンママド・アリはルクソール神殿にあったオベリスクを、
フランスのナポレオンから、当時としては珍しい大時計をプレゼントされた際
そのお礼としてナポレオンに贈った人として有名である。
(これについては近いうちルクソール神殿の稿の中でも触れたいと思う)

このガーマはイスタンブールのガーマを真似て造ったそうで、オスマン朝様式の
影響を受け、巨大なドームと鉛筆型の2本の高いミナレットを持つ美しいものだ。


(高台に建つカイロのランドマーク ガーマ・ムハンマド・アリ)


(ガーマの周りは大理石である)


(中庭)


(みそぎのための洗い場)


(回廊)

内装も外見に負けないくらい豪華である。

大きなシャンデリア、たくさんのランプ、ステンド・グラス、
そしてそれらに光が織りなすハーモニーは荘厳な雰囲気である。


(美しい天井ドーム)


(光が反射する天井ドーム)


(イルミネーションが美しい)

ガーマを出てカイロ市内を展望するが、ガスがかかっていて遠くまでは見渡せなかった。
風向きなのでガスがないときは遠くにギザのピラミッドも見えるという。


(街を望む 尖塔が見えたのだが写真でははっきりしない)

シタデルをあとにして、ガーマ・スルタン・ハサムに向かう。

ガーマ・スルタン・ハサムと道をへだてて最後のシャーが眠るガーマ・リファーイが建つ。
ガーマ・リファーイは20世紀に入って建てられたもので、尖塔が美しかった。


(ガーマ・リファーイーの尖塔)

ガーマ・スルタン・ハサンは世界最大級のイスラーム建築だそうだ。

我々は中に入った。


(中庭)


(中庭にあるみそぎ場(手洗い場))

集団礼拝で使用される説教壇の横にはミフラーブという聖地メッカの方向を示す
くぼみがあり、タイルで豪華に装飾されていた。


(右のくぼみがミフラーブ さらに右に説教壇がある)

帰りに我々は歌手の撮影をしている一行に出会った。

このあたりはイスラームの雰囲気を多く残しているため撮影によく使われるそうだ。


(歌手 エジプトでは有名らしい)

我々は車で次の目的地オールド・カイロに向かった。
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ヨルダンの奨学生

2009-10-05 | ヨルダン事情・暮らし・気質
今回はエジプト旅行を一旦離れて、先日訪れたヨルダン人家族について触れたい。

どこの国でも学費に苦慮している若者は多い。
そんな彼らにとって奨学金制度は非常にありがたいものだ。

ヨルダンにも奨学金はいくつかあるようである。

その一つに青年海外協力隊員を中心として、また在ヨルダンの日本人達の協力を得て
運営されているオルドン奨学基金団がある。

奨学金としては年間最大で800JD(約112,000円)が提供される。

私も前任者からの依頼を受けて、現在、私立大学で経営学を専攻している
19歳の女性の後見人を務めている。

彼女の場合、年間の授業料は2,400JDほどなので、奨学金により
カバーされるのは年間授業料の1/3となる。

後見人の役割は、団体に応募者の推薦をし、奨学金を受ける資格を得た場合は
相談相手、受領者と団体との連絡係りといった役回りである。

私が後見人となっている彼女の家族はベドウィン出身であり、
今から8年前の2001年にアンマンの南およそ320kmの
サウジアラビアの国境に近い砂漠地帯であるワディ・ラム近くの村から
アンマン郊外に引っ越してきたそうだ。

しかし1年後、彼女が12歳の時に父は亡くなっている。
彼女の家族構成は現在60歳の母と2人の姉、6人の兄、そして1人の妹と彼女を含めて11名の大家族であり、うち彼女を含めて6名が学生である。
高校生の妹を除いて皆が大学に入学したようだ。

概してヨルダン人は教育熱心と聞く。

また最近一人が失職したこともあり職を得ているのは3名だけである。

ヨルダンでは気に入った仕事がない場合は何がなんでも働くという意識は薄いようで
家族全体で助け合うということが、ごく普通のようである。

そんな家族をラマダン(断食月)明けの祝日休暇を利用して22日に訪ねてみた。


(郊外の彼女の家 壁の赤い箱は新聞受け)

家に着くと家具の整った応接間に案内され、早速アラビア・コーヒのもてなしを
受けた。
そのあと、さらにお茶のサービスを受ける。

ちょうどお昼過ぎのランチ時だったこともあり、マグルーバをご馳走になる。
マグルーバとはひっくり返すとの意味で、鍋をひっくり返して大皿に盛ることから
この名がきたらしい。


(マグルーバ とり肉、カリフラワー、ジャガイモが入っている)

デザートとしてトウモロコシの粉を焼いてシロップに浸けたものと
トルキッシュ・コーヒーをいただく。

食事後、家族の写真を撮らせてもらう。

休暇を利用してワディ・ラムに嫁いだお姉さんの子供たちも来ており、
末の4歳の子は正装して写真を撮らせてくれた。

ラマダン明けの休暇はアラブの人にとっては、日本のお正月のようなものらしい。


(左端と真ん中は姉の息子達13歳、4歳)


(正装した4歳の子)

彼女は将来において生まれ故郷であるワディ・ラム近くの村に
帰りたいと思っている。 
そこはベドウィンとしての習慣・文化が強く残っているところであり女性たちの地位も低いようだ。

その地で彼女は女性の自立を助けるべく主婦や広く女性が収入を得られるような仕事を見つけ、
開発し、それをサポートする組織なり仕組みを作りたいと考えている。

この夢の実現はいつのことかわからないが、まさに今は第一歩であり
彼女の夢が実現することを望んでいる。
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