風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

イルビッド

2009-04-27 | ヨルダン国内旅行記
昨年の話になり恐縮だが犠牲祭が始まる前日の12月7日に、
人口50万人を抱えるヨルダン第3の都市で北西部の中心都市である
イルビッドに出かけてきた。

犠牲祭については「ホリデー・シーズン風景 その1(犠牲祭)」(カテゴリー:ヨルダン風物詩)
で触れたためそちらをご覧いただきたい。

イルビッドはアンマンの北約70kmに位置しシリア国境まではおよそ15kmである。


(青印がイルビッド)

イルビッドへは大型バスで出かけた。

片道2時間近くかかったであろうか、乗車賃はおよそ250円である。

イルビッドは考古学や芸術系で名高いヤルムーク大学のある学園都市でもある。

下車して大学へと歩を進める。


(大学へと続く道路)

学園都市らしく町並みも落ち着いているようだ


(大学近く)

ヤルムーク大学は特に考古学が盛んで多数の研究者や学芸員を輩出しているそうだ。
学内には歴史博物館と自然史博物館があり多数の資料を展示しているらしい。

しかし、構内に入ろうとすると門番に止められた。
どうやら犠牲祭の週ということで両博物館とも休館らしい。

残念!次回にまわすこととする。


(大学構内)

気を取り直してタクシーでダウンタウンへと向かう。

ダウンタウンの中心は時計塔である


(時計塔)

犠牲祭の前のせいか町は活気で溢れているようだ。


(雑踏)

露店には新鮮な野菜が所狭しと並べてあった。


(かぶ)


(きゅうり)


(果物)

日本では最近見られなくなったはかりも、ここでは今なお現役のようだ。


(昔懐かしいはかり)

また犠牲祭という季節柄、羊たちも毛をすっかり刈られて売られていた。


(犠牲祭には欠かせない羊たち)

スーク(市場)を抜けるとダール・サラーヤ博物館にでた。
こちらは開館していた。


(ダール・サラーヤ博物館)


(建物内部)

館内には中庭もある。

我々はそこで持ってきたおにぎりをほおばった。


(中庭)

博物館を出るとモスクと教会が並んで建っていた。
こんなに近くに建っているのは珍しいのではないだろうか。



(右にモスクの尖塔 左に教会、十字架が見える)

博物館の近くにはヨルダンでも最大級といわれる古着スークが広がっており
なかには古靴を売っているところもあった。


(いくつもの古靴が吊り下がってる靴屋)

帰路にも道路端で犠牲祭用の羊が売られている風景が見られた。


(こちらは毛が刈られてない羊)

あいにく犠牲祭のあおりでイルビッドの目玉である歴史および自然史博物館は
見られなかったが、それは次回の楽しみとしてとってある。

夕刻、無事帰宅。
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アンマンの100円ショップ

2009-04-20 | ヨルダン事情・暮らし・気質
我々が一時帰国中に日本企業の進出による100円ショップが
開店したというので早速行ってみた。

場所は我家からタクシーで20分ほどのところにある
イスタクル・モールの中である。


(タクシーからモールに向かう途中の建設中のビルを望む)

ほどなくモールに到着。

外壁にはショップの名がアラビア語、英語で示されており
「日本の最も価値のある店」と宣伝されていた。


(イスタクラル・モール)

最近アンマンにはヨーロッパ系のスーパーが入ったシティ・モールなどができ、
このモールはさほど繁盛してる感じではない。

モール内にも大きく垂れ幕などで宣伝している。


(垂れ幕)

店に入ると中はかなりの広さである。


(店内)

商品の品揃えも豊富で日本のそれと遜色はないようだ。


(キッチン用品)

妻は一時帰国中、ヨルダンで使うべく何かと品物を買ったようだが
かなりの品物がここで売られており歯軋りすることしきりだった。


(雑貨用品)

しかし値段は日本のように100円とはいかず、基本的には2JD(300円)と
ちょっと高めである。
これも輸入してくる関係でいたしかたないのかと思ったりもする。

しかし現地の同僚に言わせると、もともとこれらの品は中国などで
作られてるものが多いからもっと安くてもいいはずだとの声もある。


(文房具品)


(ねずみ捕りなど)

ヨルダンにおいて一般的に店員は、とくに女性の場合は無愛想なのだが
ここでは日本からの店員教育のせいであろうか親切で愛想よさが目立った。


(写真の依頼に応じる愛想のよい店員)

また商品を整理整頓したり補充する姿も頻繁にみられた。


(商品補充、点検の店員)

店員によるとこの店はすでに以前から中東進出はしており
ドバイに7店、サウジアラビアに3店、レバノンに3店もあるそうだ。
確実に中東の人々に受け入れられている証拠であろう。

さらに5月には我家からタクシーで10分のところにあるメッカ・モール内にも
ヨルダンでの2号店を開店するそうだ。

この100円ショップの進出によって我々日本人の生活の利便性は大いに向上したようだ。

今後も数多くの日本企業が進出して、サービス法や技術の移転と同時に
ヨルダン人や我々日本人の利便性にも貢献してくれたらと願っている。




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ヨルダンの春

2009-04-13 | ヨルダン風物詩
ヨルダンの春は短い。

一般的にいって、ここではもちろん夏が一番長く、ついで冬、そして秋、春は
極端に短くほぼ1ヶ月くらいであろうか。

9:30 我々はこの短い春を楽しむべくアンマンの北西、直線距離で60km強の
ヨルダン渓谷の北に位置するイスラエル国境に近いぺラに向かった。
3月27日のことである。


(青印がぺラ)

今回は補修校の生徒を中心としたバス・ツアーで参加者は生徒たちの親や、
その他希望者などでおよそ50名であった。

ぺラまでの道程はアンマンから南方に見られる砂漠地帯と違って
ここがヨルダンかと思われるほどの緑が多い風景をたのしめ、
またぺラにおいてはいろんな花が見られるというふれこみである。

確かにバスがアンマンを離れて1時間くらい経つにしたがって風景が変わってくる。
このあたりは農作地帯のようで大きなビニール・ハウスの波が広く見られた。


(大地を覆うビニール・ハウスの波)

この地域では地中海沿岸で採られている三段農法なるものが盛んで、
上段にナツメヤシやバナナなどの背の高いもの、中断にオレンジ、オリーブなど、
そして下段にはじゃがいもやトマトなどを配置し効率的に土地を利用しているそうだ。


(棗やし 中断はオリーブ 向こうの山はイスラエル領)

途中、山越えになると山々は緑に覆われて、「スイスみたい」という人もいたが
それもあながち誇張ではないようである。


(緑の山々 どこかスイスを想わせる)

木々の茂みも思いのほか深いようだ。


(生茂る木々)

11:40 そんな風景を楽しみながらぺラに到着。

ぺラはエジプト古王朝時代にその名が知られ、エジプトとも交易があった
カナン人の都市だったらしい。
ローマ時代にはデカポリスの一つとして栄えたが、717年と、747年の
地震で被害をうけ、以後衰退したようだ。

今も列柱などが見られ、現在オーストラリアが中心となって発掘を行っている。


(ペラ遺跡 右下方に列柱が見える)

遺跡のより上に丘がありそのあたりは色とりどりのお花畑である。


〈春菊群生〉

頑張って丘を上る。


〈花のじゅうたん〉

30分くらいで頂上に到着。


(アネモネと春菊)

うちから持参したおにぎりを食べる。


(ルッコラ)

食べ終わり一息ついたところで丘を下りる。


(? マーガレットに似てるのだが)

途中の花が美しい、あまり花の名に詳しくない身、名前がわからない。

ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたい。


(赤紫が美しい)

このあたりに咲いてる花はほとんどが小ぶりで、日本の高山植物のようである。
しかし、ここは高山ではなく海抜200mくらいである。


(赤が美しいアネモネ)

噂によるとこの近くにヨルダンの国花であるブラック・アイリスが咲いているらしい。
国花でありながらこの花にお目にかかれる人は少ないようだ。
咲いている日数もことのほか短いとのこと。

今回一緒だったヨルダン滞在の長い人でも見たことがないという。
我々も折にふれて注意してみているが見たことがない。

いわゆる「まぼろしの花」である。

現地の人にいわれて探すこと一時間。

ついに発見!!なんとそれは古びたホテルの前にぽつんと咲いていた。


(ブラック・アイリス)

ブラックといいながらも真っ黒ではなく紫の濃いような色であり
シルクの光沢も感じられる国花にふさわしい気品のある花だった。

念願のブラック・アイリスを見て帰路につく。

途中いたるところでピクニックやバーベキューを楽しむ人々を見る。
ヨルダンの人は野外で遊ぶことが好きなようだ。


〈小さな滝 車列はピクニックにきたもの〉

21:00 帰宅

帰路では道を間違えたり、バスが故障したりで帰宅は思いのほか
遅くなってしまったが短い春の一日を堪能した日であった。

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日本語弁論大会

2009-04-06 | ヨルダンでの日本文化紹介
今回は我々が一時帰国から戻った3日後の2009年3月7日に行われた
「日本語弁論大会」について記したい。

この大会は今回で12回目だそうだ。


(桜が図案化されたポスター)

会場は昨年開催された「ジャパン・フェスティバル」と同じく
ヨルダン大学構内で行われた。


(上が大会を示す横断幕 赤字で日本語弁論大会と書かれている)

会場は正門左側に位置するアドミニストレーション・ビルで、
なかなかモダンなものである。


(アドミニストレーション・ビル)

ロビーも広く明るくホテルを連想させる雰囲気である。


(国王の写真が飾られたロビー)

会場受付には日本紹介の雑誌も希望者に配られていた。


(日本紹介雑誌)

ここヨルダンでは青年海外協力隊員を中心とした「アル・オルドン奨学基金」が
設立されており、毎年2名の学生を選びサポートしている。
それの募金活動が同じく受付で行われていた。


(アル・オルドン奨学基金の募金活動)

大会はヨルダン国、日本国の国歌演奏で始まる。


(国歌演奏 左より塩口日本大使、外国語学部長、JICA所長)

塩口日本大使、外国語学部長の挨拶のあと大会はいよいよ始まった。

大会は俳句の部と弁論の部の2部構成となっている。

俳句の部では出場者が選んだ俳句についての解釈を英語とアラビア語で
行うものであり、漱石、蕪村、芭蕉、一茶などの句に対してヨルダン人からの
解釈が試みられ興味深かった。

しかし日本語による解釈はなく、ややもすると英語力に左右されやすく
ちょっと物足りない感じである。

あとで関係者に聞いてみると、俳句の部の参加者はまだ初級レベルであり
日本語で説明するほどのレベルに達してないとのことである。

俳句の部の発表者は男性3名、女性7名の計10名であった。


(俳句の部 発表風景)

弁論の部はあらかじめテーマが決められているか自分で自由にテーマを見つけるかは
参加者に任されている。

参加者は男性4名、女性8名の計12名であり、規定のテーマを選んだものが
9名、自由テーマを選んだものが3名であった。

規定のテーマには次の3つが挙げられていた。
1.わたしの宝物
2.人生で一番嬉しかった日/悲しかった日
3.日本/ヨルダンの(   )がクールだ

内訳は1を選んだものが4名、2を選んだものが1名、3を選んだものが4名で
(   )の中はそれぞれ、日本の(桜/お辞儀)の2つと
ヨルダンの(パーソナリティー/コーヒー文化)の2つであった。

自由テーマは下記の3つである。
・ロボットの時代
・自分のルール
・羽を伸ばす


(弁論の部 発表風景)

弁論の部の発表終了後表彰式がおこなわれた。


(表彰式)

俳句の部での1位は一茶の「元日や 上々吉の 浅黄空」の解釈を披露した
女性が選ばれた。

3位までの入賞者はすべて女性であった。

また弁論の部では規定テーマ「人生で一番悲しかった日、嬉しかった日」で
15歳で結婚した友人が、早すぎる結婚のために結婚式そのものが一番
悲しかった日であると訴え、早婚の問題点をえぐったものであった。
発表には演技力もあり説得性のあるものであったが、私としては同じような
内容を以前に新聞記事で読んだことがあり、また自分の体験ではなく友達の
体験を題材としてることに疑問が残った。

私としてはむしろ2位、3位に入った「ヨルダン人のパーソナリティがクールだ」、
「ヨルダンのコーヒー文化がクールだ」のほうがヨルダン人が自国の文化を
主張してくれて、今まで気づかなかった、あるいは知らなかったヨルダン文化の
一面を指摘され、また教えられ興味深かった。

こちらでも3位までの入賞者はすべて女性だった。


(弁論の部 一位表彰)

最後に発表者、関係者が記念写真をとって大会は終わった。


(記念写真)

結局、総計22名の発表者のうち女性が15名であり、また入賞者6名すべてが
女性というわけで、ヨルダンにおける女性上位のパワーに圧倒された大会であった。



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