風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

ヨルダン技能競技大会

2009-06-29 | ヨルダン事情・暮らし・気質
5月10日よりの4日間「ヨルダン技能競技大会」が開催された。

大会は毎年1回開かれており今回で3回目である。
参加者はヨルダン各地にある40以上の職業訓練所より選ばれた訓練生たちで
今回は150名(内女性22名)であった。
訓練所は労働省の管轄下である。


(競技会を知らせるポスター)

大会は3つの訓練所に分かれて行われた。
わたしも関係している訓練所の生徒が5名参加するというので
主会場Ain Al-Basha訓練所に視察がてら行ってみた。

Ain Al-Basha訓練所はアンマン市の北西15kmくらいのところで
バスで30分のところに位置している。

入口のところには横断幕が張られていた。


(会場を示す横断幕)

ここは訓練所の中で最も大きく訓練生はおよそ1,000名と聞く。


(校舎)

開会式には労働大臣も参加するという話で、訓練生が大臣を迎える練習をしていた。
ヨルダンでは大臣が来るときは特別のプロトコルがあるようで、
拍手をしたり声をあげたり、挙手をしたりなど特別なものであった。


(全員たすきをかけて大臣を迎える練習)


(後援の組織を示す立看板)

訓練公社総裁、工業会議所、JICAなどの関係者がそろったところで開会式が始まる。
どうやら大臣は不参加のようである。
大臣を迎える練習をしていた訓練生たちにはちょっと気の毒。


(開会式 右は国王の肖像カーペット)

開会式のあといよいよ競技開始。

主会場では理容、アルミニウム加工、屋内配線、溶接、木工、機械加工、
自動車板金塗装、配管の8種目が行われた。
他の美容、縫製は女子の訓練所で、また菓子製造は別会場で行われた。


(アルミ加工競技場)

板金の競技会場では「板金」の漢字もみられた。
以前訓練所を訪れたとき漢字でどう書くのかと聞かれたが、このためだったらしい。


(漢字で示された自動車板金塗装競技場)


(自動車板金塗装競技場)


(機械加工競技場)


(溶接競技場)


(屋内配線競技場)


(木工競技場)


(理容競技場)

競技の結果、わたしが関係している訓練所からは機械加工で金、木工で銅と
2人のメダリストを出しまずまずの成績だった。

5月14日には場所を変えてアンマン工業会議所で閉会式が行われた。


(閉会式)

メダリストには金が30,000円、銀が22,500円、銅が15,000円の
小切手が手渡された。
また金メダリストを育てたインストラクターにも15,000円の小切手が授与された。


(表彰式)

もちろんわたしが関係している訓練所の金メダリスト、ムハンマド君も表彰式に参加し、
さらにお父さんも息子の晴れ姿を見にやってきて誇らしげであった。


(金メダリスト ムハンマド君と父親)

後日、写真をプレゼントすると非常に嬉しそうであった。

今後このような競技会などを通してヨルダン国の技術水準が向上し、
将来的に「世界技能オリンピック大会」に参加できるようになれる時期が
早く来ることを願っている。

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スペイン・ポルトガル旅行計画

2009-06-22 | レンタカーによるスペイン・ポルトガル旅行
現在、折をみてヨーロッパ旅行を計画中である。

今年のラマダン(断食月)は天文学的には新月の始まる8月22日からのようだ。
しかし目視によるためそれより1日くらいずれることも考えられる.

ラマダンについては2008年出稿「ラマダン」(カテゴリー:ヨルダン風物詩)で
触れたためそちらをご覧いただきたい。

その期間、我々は昨年同様ラマダン中の不便さを避けるべくヨーロッパへ
逃れたいと思い計画を練ってきた。

条件はやはり昨年と同じく車で廻れる交通量のそれほど多くないところで、
かつ物価の高くなさそうなところである。

候補としては当初次の3つがあがった。

1.南イタリア地方、ここは16年前に自動車旅行を計画し、当時住んでいた
  NYから家族連れでジュネーブまで飛び、そこから車でフィレンツエまで
  行ったが、そこで母危篤の報を聞き旅行を中止し急遽ミラノからNYの自宅に戻り、
  NYから日本に帰国した因縁の場所でもある。
2.アドリア海沿いの海岸が美しいクロアチア
3.スペイン・ポルトガル地方

いろいろ悩んだあげく最終的にスペイン・ポルトガル地方を選ぶこととした。

その理由は、ポルトガルの下見といったところである。

わたしはかねてから定年後の人生はヨーロッパで定点を定め、その定点を起点として各地を旅行し、
できれば1,2年ごとに定点を移し自由気ままに暮らせたらとの夢を持っている。
移住するというほどの勢い、意気込みはない。
いやになったらすぐに日本に帰国するくらいの気持ちだ。

その最初の定点として今現在ポルトガルを考えている。
過去にはスペインの地中海沿岸を考えていたが、ここ10数年でその地方の住居費を含む
生活費はかなり上昇しているらしい。
その点、ポルトガルはヨーロッパの中でも比較的安価なのではと期待している。
また海岸線を豊富にもっており、わたしの好きな魚料理も多いと聞く。

今回の旅行は我々にとって生活しやすい場所かどうかを見極めるためと観光との
2つの目的をもった欲張ったものになりそうである。

スペインが加わったのはアンマンからのフライトでポルトガルへの直行便はないため
マドリッドに飛ぶためだ。
この際多少でもスペインの空気に触れるのも悪くはないかなと思う。
しかしマドリッドは単に通過するのみで街を見るつもりはない。
マドリッドなど都市へのツアーは日本からも頻繁に企画されており、値段も安いようである。

ただスペインでは寄りたい場所が1ヶ所ある、それはセゴビアである。
物の本によるとセゴビアは子豚の丸焼きが名物料理だそうだ。
ぜひそれだけは食したいとの思いでセゴビアは日程に入れるつもりだ。

ヨルダンとの時差はスペインが1時間、ポルトガルが2時間、飛行時間は5時間強である。

日数は10日間、概略の行程としては次のように考えている。


(マドリードを起点として時計回りにカセレスーリスボンー
ポルトーサラマンカーセゴビアーマドリードと進む予定)

ポルトガルの下見が主目的のため、宿泊数はポルトガルが2に対して
スペインは1くらいであろうか。

宿泊地の選定、ホテル、フライト、レンタカーの予約などすべてが完了するのは
7月に入って暫らく経ってのこととなるであろう。
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アジュルン

2009-06-15 | ヨルダン国内旅行記
4月3日 晴れ 

アンマンから北西に73km、ヨルダン川からそう遠くないところに
松やオリーブの林に囲まれた美しい小さな町アジュルンはある。

水源にも恵まれているためアジュルンはいつも緑に囲まれているそうだ。


(青印がアジュルン)

8:50 自宅発、タクシーでバス停に向かう。
9:15 バス発車

アジュルンの中心から2kmほど離れた山の頂上に、カラート・アル・ラバドという
城が建っている。
その山はこの近辺では一番高い山で十字軍遠征に備えて見晴らしのよい頂上に
城が建てられたそうだ。

そのためバスからも遠目に城を望むことができる。


(真ん中の小高い丘の上に城は建つ)

10:30 アジュルンのバス停に到着

城までは2km、上り坂なのでタクシーに乗る。

しだいに城の全貌がはっきりしてくる。


(城の全貌)

タクシーを降りて入り口へと向かう。

ヨーロッパ系の観光客も多いようだ。


(城の入り口付近)

この城はもともとは十字軍に備えて1,187年のハッティンの戦いで十字軍を破り、
エルサレムへの無血入城を果たしたアラブの英雄サラディーンの甥が
1184-85年にかけて造った要塞として知られている。

かって四隅には塔があったそうだ。


(四隅にあった塔の一つ)

また幅16m深さ12~15mの外堀があったようである。


(今も残る外堀跡)

城の内部は階段や細かな段差が多く、部屋から部屋に通じる通路は人が一人しか
通れないほど狭く、複雑な構造である。


(城の内部)

敵に向けて投げ落としたのであろうか、大きな石でできた弾丸がおかれてもいた。


(石の弾丸)

屋上に上ると360度のパノラマがひらけ、緑も豊富である。


(屋上からアジュルンの町を望む)

眺めがよく遠くまでが見渡せ軍事拠点にするのにぴったりの立地というのが
一目瞭然である。


(屋上からイスラエル方角を望む)

帰りは下り坂なのでピクニック気分で歩くことにする。



途中の花々が美しい。



途中、国花であるブラック・アイリスらしきものもあったが
色に黒味がなく単なる青色のアイリスのようだった。




(青色アイリス)
30分ほどでバス停に到着。

金曜のせいか人影はまばらであった。
こちらでは金曜は休日でモスクにお祈りにいく人が多い。


(さびれた感じのバス停)

我々は待っていたマイクロ・バスに乗り込む。


(我々が乗車したマイクロ・バス)

このマイクロ・バスは20名ほどが乗車でき、満席になると出発するシステムで
非常に安価であり、慣れてくると便利なものである。
しかし満席が原則であるため発車まで時間のかかることがあるのが欠点である。

12:45 出発

14:00 アンマンのバス停に到着、別のマイクロ・バスに乗り換え自宅付近まで行く。

14:30 自宅付近に到着。 

自宅付近に美味しいシュワルマ屋がある。
本日の夕飯を確保すべくそのシュワルマ屋に行く。

シュワルマとは羊や鳥などの肉を串に巻きつけた大きな塊を火であぶり、
これを削ってホムス(アラブ風パン)で包んだものである。


(肉の塊の後ろにはストーブがあり炙っている)


(肉の塊を削った後すばやくホムスで包み込む)


(ホムスで包んだ後鉄板でしばらく焼く この上に鉄製のコテを置く)

このシュワルマ、ビールにすこぶるあい、私たちの好物である。

15:15 自宅着

早速シュワルマでもってビールを楽しんだことは言うまでもない。


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ウンムカイス その2

2009-06-08 | ヨルダン国内旅行記
遺跡を東西に貫くローマン・ロードには敷き詰められた玄武岩に馬車の轍が
できるほどにぎわっていたようだ。


(列柱の続くローマン・ロード)

この遺跡はまだ発掘途上であり、日本からは国士舘大学の学生たちが
発掘調査に協力している。

途中大学院生に会い運良く案内を請うことができた。
院生の説明により我々だけでは見落とすようなところも詳細に見ることができた。

地下埋葬室は地元の聖者を埋葬するため360年頃に建設され、
ビザンチン時代にはイエスの奇跡「ガダラの豚」巡礼者向けの
教会に改装された歴史を持ってるらしい。


(地下埋葬室)


(六角形のパシリカ・テラス跡)

小高いところからはシリアが望めたがあいにくのもやで
ガリラヤ湖などはかすんでいた。


(シリアを望む)

遺跡というものは通常時代の流れとともに土に埋もれていくようだが
ここも例外でなく1メートル以上は掘り下げる必要があるそうだ。

院生によるとオリーブの木は勝手に切ったりすることは禁止されてるらしく
木の根っこを残した状態で発掘が進められている。


(発掘で残ったオリーブの木 下の地層がローマ時代のものである)


(浴場入口)


(浴場内)


(今もなお残る浴場内の床 大理石である)


(列柱道路 敷き詰められた玄武岩に馬車の轍が残っている)


(商店街の跡である)


(ニンファエウム)

遺跡の外れたところにはヘレニズム時代の神殿跡が残っていた。


(神殿跡を示す案内板)


(小高く盛り上がった神殿跡)

院生によると神殿の反対側にはいまだ発掘されてない円形劇場である
北劇場があるというので行ってみた。
土に埋もれたままで一見すると山のようであるが、
いわれてみると円形劇場の形をなしている。


(土に埋もれたままの劇場跡)

院生によると今後発掘がすすめばまた新たな事実がわかるだろうとのこと。
ここの発掘はドイツが中心となって行っているそうだ。


(土砂に埋まったままの遺跡)

一連の説明を受けレストランで院生と食事の後別れをつげる。

14:45 我々は待たせてあったタクシーでイルビッドに向かった。

当初2時間といってドライバーと交渉したが3時間以上かかってしまった。

イルビッドでは美味しいと評判のお店でアラビア料理のスイーツである
カナーフェを買った。

これは薄く焼いた生地の間にクリームやチーズがはさまっていて温かく
シロップやナッツ、クリームなどをつけて食べるものだ。


(カナーフェ)

最初かなり甘さが強すぎるように感じるが慣れるにしたがって
この甘さがたまらないとはまってしまう日本人も多いようだ。

カナーフェを楽しんだ後、またバスに乗りアンマンに戻る。

夕刻自宅にもどった。

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ウンムカイス その1

2009-06-01 | ヨルダン国内旅行記
日本の一時帰国から戻って1週間が過ぎた3月12日、
シリア国境沿いのウンム・カイスに出かけた。

ここにはローマ時代にデカポリスの一員として繁栄したガダラ(セム語で要塞の意)
という名前の都市があり、その古代都市の遺跡が残っている。

天候に恵まれると遺跡からゴラン高原やガリラヤ湖が望まれ、
そのパノラマは壮大で春にはピクニックに訪れる人も多いそうだ。

8:40  自宅を出発、タクシーで長距離バス停まで行く。
9:10  バス出発、イルビッドに向かう。
10:30 イルビッドのバス停に到着

イルビッドはヨルダン第三の都市でありバス停も大きい。


(イルビッドのバス切符売場)

バス停には商店街もある。


(バス停の商店)

美味しそうなカバブも売っていた。


(カバブ焼き)

10;50 タクシーに乗りウンムカイスに向かう。
およそ30分ほどで遺跡に到着。

最初に西劇場に向かう。
この円形劇場は黒玄武岩で積み上げられ3,000人が収容可能という。


(西劇場の舞台)

保存状態はあまりよくないようだ。


(西劇場観客席)

西劇場からは遺跡全体が望まれる。

その日はもやがかかっていて見通しはさほどよくなくゴラン高原、ガリラヤ湖は
かすんでいた。


(遺跡を望む 遠くにゴラン高原が見られる)

周りにはいくつかの花も見られピクニック気分を味わえた。


(色とりどりの花1)


(色とりどりの花2)

赤いアネモネも印象的である。


(アネモネ)

また何虫であろうか、背が人面の虫も見られた。


(人面虫)

六角形に建った黒玄武岩の柱が印象的なビザンチン時代の教会跡もある。


(右手が教会跡)

途中列柱が立っているが、これらの列柱は以前から立ってたものか
その辺に転がっていたのを最近になって適当に立てたものかはよくわからない。
私はおそらく後者だと思っている。


(黒曜石列柱)

我々は黒曜石の列柱をあとにして遺跡を東西に貫くローマン・ロードへと向かった。
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