風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

ヨルダン東部 世界遺産アムラ城ほか

2010-12-10 | ヨルダン国内旅行記
前回の稿でヨルダンの世界文化遺産について述べたので、今回はまだ触れてなかった
ヨルダンにある3つの世界遺産の一つであるアムラ城を中心に記したい。

(ヨルダンの世界遺産については前回(2010年11月26日)出稿の「世界遺産 ウンム・アル・ラサース」
カテゴリー:ヨルダン国内旅行記)を参照ください

2008年6月27日(金)

その日は摂氏40度を超すようなもの凄く暑い日だった。

我々がヨルダンに到着したのが3月26日だったので、丁度3カ月経った日に国際協力機構(JICA)の
シニア・ボランティアが企画してくれたヨルダン東部のツアーに参加するチャンスを得た。

アンマン東部は交通の便が悪くバスなども出てない地方が多いため非常に行きにくい所と言われている。

ヨルダン在住の日本人にとっても最後に残るのがこのあたりで、日本への本帰国直前にあわてて行く人や
運悪く行く機会を逃す人も多いようだ。

幸運にも我々はヨルダン着任早々この地を貸切のバスで行く機会に恵まれた。

バスはアンマンよりヨルダンの東部をサウジアラビアとの国境近くまで行き
4つの遺跡を回る予定である。


(アンマンを出て時計と逆回りにハラナ城、アムラ城、
アズラック城、ハラバート城と4つの遺跡を見学する)

最初に到着したのが砂漠の中にぽつんと一つ建っているハラナ城である、
砂漠の中で一番保存状態がよいそうだ。

砂漠の中に建っているにもかかわらず、あるいはそのためかヨルダンの遺跡では珍しい太陽光発電があった。

事務所の電力を賄っているのであろうか。


(事務所の横に太陽光発電)

ハラナ城は謎の建物とされ、宮殿とも要塞とも言われるが
最近では隊商宿だったというのが有力なようだ。


(ハラナ城 正面35mの壁をもつ長方形である)

次に向かったのがヨルダンに3つある世界遺産の一つであるアムラ城であり、
1985年に世界遺産として登録されている。


(世界遺産を示す標識)

アムラ城は砂漠の中で最も美しい城と言われている。

8世紀に建てられこれもまた隊商宿として使われていたらしい。


(アムラ城)

遺跡としては上記の写真がすべてであり、一般にイメージとして持つ世界遺産としては小ぶりである。

今現在、世界文化遺産として登録されているのは700余数にのぼるそうだが、
このようなこじんまりとした物もいくつかあるのであろう。


(サウナのあるドーム屋根が特徴である)

城の内部にはフレスコ画があり、1970年代にスペインの考古学者グループによって、
そして近年フランスの援助で修復されたそうだ。


(フレスコ画)



我々が訪れたのをどこからか嗅ぎつけてきたのであろうか楽器をもった老人が音楽を奏でていた。

楽器は中央アジアあたりで見られるような胡弓に似た物のようである。

シルク・ロードを伝わって来たのであろうか、ちょっとしたロマンを感じる


(胡弓を奏でる老人)

アムラ城をあとにしてバスは今日3番目の見学地、アズラック城にやってきた。

アズラックはイラクとサウジアラビアへ通じる道の交差点にあり、3世紀頃のローマ時代に
戦略上の重要拠点として要塞が建てられ、その後ビザンチン、ウマイヤ、マムルーク朝を通じて
何度か修築、改築が繰り返されて今日にい至っているそうだ。


(アズラック城の入口)

城は近くで採れる黒玄武岩を使って建てられている。

かの有名なアラビアのロレンスも1917年にはアラブ革命時の戦略基地として滞在していたそうだ。


(中庭)


(天井の石組 独特の建築手法で石が崩れない)

最後に訪れたのが丘の上に建つハラバート城である。

この城は、もとはカラカラ帝統治時代(198~217年)の周辺部族に対する要塞であったが、
7世紀に修道院となり、その後ウマイヤ朝によってギリシャ・ローマ時代の装飾が壊され、
イスラム様式の要塞、宮殿に修築されたそうだ。

そして現在は大規模な修復工事中である。


(ハラバート城 時代の流れを経て修復工事中である)


(ハラバート城内の修復された一部の遺跡)

順調に4つの遺跡を見学し終わった我々は一路アンマンへと向かったが途中で災難が待っていた。

帰路、どうもバスのエンジン音がなにかおかしい。

運転手はクーラを切ると言う、どうやら砂漠の中40度を超えるほどの暑さのせいか
もともとバスが古いせいか、エンジンの調子が悪いようだ。

クーラを切ってしばらく走ったが、とうとう頓挫してしまった。

運転手は電話をして代わりのバスを手配してくれたが、
その間2時間近く酷暑のバスの中で待つこととなってしまった。

そんなアクシデントもあったが、ヨルダンに赴任して3カ月目の日帰り旅行は無事終わった。


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世界遺産 ウンム・アル・ラサース

2010-11-26 | ヨルダン国内旅行記
ヨルダンには現在3つの世界文化遺産が登録されている。

まず1985年に登録されたのが「薔薇色の都 ぺトラ」とアンマンの東部の砂漠のなかに
ぽつんと建っている「アムラ城」である。
(アムラ城は我々もヨルダン着任後3ケ月の頃、このブログの初期の時期に訪れたが
その時期まだ意識が薄く残念ながら写真は少ないが次回の稿で触れたい)

次いで2004年に登録されたのが今回我々が訪れた「ウンム・アル・ラサース」である。

世界文化遺産に登録されるには大きく分けて2つの特徴があるようだ。

一つは「薔薇色の都 ぺトラ」に代表されるように、その存在そのものが今現在すでに整備されていて素晴らしいものである。
(ペトラの詳細については2009年7月20日、27日の2回にわたり出稿の「ヨルダン・レンタカー家族旅行(ペトラ その1、その2)」
カテゴリー:ヨルダンレンタカー旅行記)を参照ください

もう一つは、今現在はほとんど整備されていないが、人類の創造的才能が大いに発揮されており
世界の大切な宝物として未来に残すべきと認められて整備を促すものである。

日本にある世界文化遺産は前者に属すると考えられる。
そして後者の代表的なものがウンム・アル・ラサースであり、それはほとんど整備されていない。

ヨルダンの「ペトラ」と並ぶ遺跡として「古代ローマ都市 ジェラシュ」が有名であるが
ジェラシュのほうは世界遺産として登録されていない。

その理由は、一説によるとジェラシュの遺跡は発掘調査や時代考証に関係なく
転がっている遺跡を極論すれば適当に雑然と並べただけだからとも言われている。

我々素人が見れば整然と並んでいるかに見える列柱道路にしても、専門家が見ると
柱の上、下の組み合わせや時代がでたらめだったりするらしい。
(ジェラシュの詳細については2009年5月8日および15日の2回にわたり出稿の「ジェラシュ その1、その2」
カテゴリー:ヨルダン国内旅行記)を参照ください

2009年11月28日(土)

26日にシリアから戻った我々は27日日帰りでカラクに犠牲祭のイベント見学に行き、
その翌日の28日にウンム・アル・ラサースの日帰り旅行に向かった。

シリア旅行の初日から数えると8日目にあたる強行軍である。

しかし普通に海外旅行に出れば10日間くらいの日程であることや、後半は自宅泊であり
勝手知ったるヨルダン国内旅行と考えるとそれほどの強行軍でないとも言える。

朝の10時頃だったろうか、近くの乗り合いバス用のたまり場まで行きマダバ行きのマイクロ・バスに乗車。

マダバはアンマンの南30kmに位置し40分ほどで到着。

さらにマダバで別の壊れかけたような汚いマクロ・バスに乗り換えウンム・アル・ラサースに向かう。
乗客は15人ほどだった。


(アンマンより50kmほど青線を南下)

ウンム・アル・ラサースはマダバの南東約20kmのところに位置し、
30分ほどでビジター・センターの正面に到着した。

センターは新しく、世界遺産であることを誇るかのように近代的なものだった。



しかし見物客はだれもおらず、我々夫婦の2人だけだった。

入場料は無料である、同じ世界遺産のペトラが現在5500円くらいであり、
今後の予定として約9000円への値上げが決まっているのとは大きな違いである。


(誰もいないセンター内)

センターをぬけると、そこは瓦礫の山である。

多くの遺跡が崩れ落ち土に埋まっている。



ここはローマ帝国の時代からイスラム王朝にいたる3~9世紀にかけて栄えた城塞であっが、
たび重なる地震によって街の遺跡はまるごと崩れ落ちて廃墟となってしまったようだ。





もともとはローマ軍の基地であったとされ、いくつかの教会も残されている。

なかでも785年に建てられた聖スティーブン教会はモザイクで有名で仮設の屋根が架けられている。


(白い仮設の屋根が架けられた聖スティーブン教会跡)


(うしろが聖スティーブン教会)

屋根の下には聖スティーブン教会の床一面に描かれたモザイクが保存されている。



床のモザイクにはエルサレムなど古代12都市を舞台に、船に乗ったり、農業や牧畜に従事した
当時の人々の暮らしぶりが一部は不明な所もあるがいきいきと描かれている。

















仮設の屋根に覆われた聖スティーブン教会を離れてさらに見学するが、
保存されているのは聖スティーブン教会だけである。



さらに行くと聖スティーブン教会の他にもいくつかの教会があったようだ。


(ライオンの教会)




(双子の教会)





最終のバスは15:30と聞いていたので早めにバス停の方に行く。

すると二人連れの乗用車が我々の前で停まり、「マダバに行くのか」と聞く
「そうだ」と答えると「連れて行ってやるから乗れ」と言うので乗せてもらった。


(車に乗るとジュースをくれた)

車に乗り込むと早速ジュースを2つくれた、そしてビジター・センタ前の小売店に戻り
あらためてジュースを買っていた。
どうやら彼ら用に買ったジュースを我々に譲ってくれたようだ。

話を聞くと彼らは警察官で、マダバの南100km地点のタフィーレに住んでおり今から帰るとのこと。


(親切な警察官たち、肩にはヨルダン国旗)

タフィーレに来たら家に泊れと携帯の番号まで教えてくれる、なんとも親切な警察官だった。

しっかりとお礼を言い警察官たちと別れる。

マダバよりバスに乗ってアンマンに戻る。

ヨルダン人の親切心に恵まれ心温まる小旅行だった。

将来においてウンム・アル・ラサースが整備され世界に知られた存在となることを願っている。
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アジュルン

2009-06-15 | ヨルダン国内旅行記
4月3日 晴れ 

アンマンから北西に73km、ヨルダン川からそう遠くないところに
松やオリーブの林に囲まれた美しい小さな町アジュルンはある。

水源にも恵まれているためアジュルンはいつも緑に囲まれているそうだ。


(青印がアジュルン)

8:50 自宅発、タクシーでバス停に向かう。
9:15 バス発車

アジュルンの中心から2kmほど離れた山の頂上に、カラート・アル・ラバドという
城が建っている。
その山はこの近辺では一番高い山で十字軍遠征に備えて見晴らしのよい頂上に
城が建てられたそうだ。

そのためバスからも遠目に城を望むことができる。


(真ん中の小高い丘の上に城は建つ)

10:30 アジュルンのバス停に到着

城までは2km、上り坂なのでタクシーに乗る。

しだいに城の全貌がはっきりしてくる。


(城の全貌)

タクシーを降りて入り口へと向かう。

ヨーロッパ系の観光客も多いようだ。


(城の入り口付近)

この城はもともとは十字軍に備えて1,187年のハッティンの戦いで十字軍を破り、
エルサレムへの無血入城を果たしたアラブの英雄サラディーンの甥が
1184-85年にかけて造った要塞として知られている。

かって四隅には塔があったそうだ。


(四隅にあった塔の一つ)

また幅16m深さ12~15mの外堀があったようである。


(今も残る外堀跡)

城の内部は階段や細かな段差が多く、部屋から部屋に通じる通路は人が一人しか
通れないほど狭く、複雑な構造である。


(城の内部)

敵に向けて投げ落としたのであろうか、大きな石でできた弾丸がおかれてもいた。


(石の弾丸)

屋上に上ると360度のパノラマがひらけ、緑も豊富である。


(屋上からアジュルンの町を望む)

眺めがよく遠くまでが見渡せ軍事拠点にするのにぴったりの立地というのが
一目瞭然である。


(屋上からイスラエル方角を望む)

帰りは下り坂なのでピクニック気分で歩くことにする。



途中の花々が美しい。



途中、国花であるブラック・アイリスらしきものもあったが
色に黒味がなく単なる青色のアイリスのようだった。




(青色アイリス)
30分ほどでバス停に到着。

金曜のせいか人影はまばらであった。
こちらでは金曜は休日でモスクにお祈りにいく人が多い。


(さびれた感じのバス停)

我々は待っていたマイクロ・バスに乗り込む。


(我々が乗車したマイクロ・バス)

このマイクロ・バスは20名ほどが乗車でき、満席になると出発するシステムで
非常に安価であり、慣れてくると便利なものである。
しかし満席が原則であるため発車まで時間のかかることがあるのが欠点である。

12:45 出発

14:00 アンマンのバス停に到着、別のマイクロ・バスに乗り換え自宅付近まで行く。

14:30 自宅付近に到着。 

自宅付近に美味しいシュワルマ屋がある。
本日の夕飯を確保すべくそのシュワルマ屋に行く。

シュワルマとは羊や鳥などの肉を串に巻きつけた大きな塊を火であぶり、
これを削ってホムス(アラブ風パン)で包んだものである。


(肉の塊の後ろにはストーブがあり炙っている)


(肉の塊を削った後すばやくホムスで包み込む)


(ホムスで包んだ後鉄板でしばらく焼く この上に鉄製のコテを置く)

このシュワルマ、ビールにすこぶるあい、私たちの好物である。

15:15 自宅着

早速シュワルマでもってビールを楽しんだことは言うまでもない。


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ウンムカイス その2

2009-06-08 | ヨルダン国内旅行記
遺跡を東西に貫くローマン・ロードには敷き詰められた玄武岩に馬車の轍が
できるほどにぎわっていたようだ。


(列柱の続くローマン・ロード)

この遺跡はまだ発掘途上であり、日本からは国士舘大学の学生たちが
発掘調査に協力している。

途中大学院生に会い運良く案内を請うことができた。
院生の説明により我々だけでは見落とすようなところも詳細に見ることができた。

地下埋葬室は地元の聖者を埋葬するため360年頃に建設され、
ビザンチン時代にはイエスの奇跡「ガダラの豚」巡礼者向けの
教会に改装された歴史を持ってるらしい。


(地下埋葬室)


(六角形のパシリカ・テラス跡)

小高いところからはシリアが望めたがあいにくのもやで
ガリラヤ湖などはかすんでいた。


(シリアを望む)

遺跡というものは通常時代の流れとともに土に埋もれていくようだが
ここも例外でなく1メートル以上は掘り下げる必要があるそうだ。

院生によるとオリーブの木は勝手に切ったりすることは禁止されてるらしく
木の根っこを残した状態で発掘が進められている。


(発掘で残ったオリーブの木 下の地層がローマ時代のものである)


(浴場入口)


(浴場内)


(今もなお残る浴場内の床 大理石である)


(列柱道路 敷き詰められた玄武岩に馬車の轍が残っている)


(商店街の跡である)


(ニンファエウム)

遺跡の外れたところにはヘレニズム時代の神殿跡が残っていた。


(神殿跡を示す案内板)


(小高く盛り上がった神殿跡)

院生によると神殿の反対側にはいまだ発掘されてない円形劇場である
北劇場があるというので行ってみた。
土に埋もれたままで一見すると山のようであるが、
いわれてみると円形劇場の形をなしている。


(土に埋もれたままの劇場跡)

院生によると今後発掘がすすめばまた新たな事実がわかるだろうとのこと。
ここの発掘はドイツが中心となって行っているそうだ。


(土砂に埋まったままの遺跡)

一連の説明を受けレストランで院生と食事の後別れをつげる。

14:45 我々は待たせてあったタクシーでイルビッドに向かった。

当初2時間といってドライバーと交渉したが3時間以上かかってしまった。

イルビッドでは美味しいと評判のお店でアラビア料理のスイーツである
カナーフェを買った。

これは薄く焼いた生地の間にクリームやチーズがはさまっていて温かく
シロップやナッツ、クリームなどをつけて食べるものだ。


(カナーフェ)

最初かなり甘さが強すぎるように感じるが慣れるにしたがって
この甘さがたまらないとはまってしまう日本人も多いようだ。

カナーフェを楽しんだ後、またバスに乗りアンマンに戻る。

夕刻自宅にもどった。

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ウンムカイス その1

2009-06-01 | ヨルダン国内旅行記
日本の一時帰国から戻って1週間が過ぎた3月12日、
シリア国境沿いのウンム・カイスに出かけた。

ここにはローマ時代にデカポリスの一員として繁栄したガダラ(セム語で要塞の意)
という名前の都市があり、その古代都市の遺跡が残っている。

天候に恵まれると遺跡からゴラン高原やガリラヤ湖が望まれ、
そのパノラマは壮大で春にはピクニックに訪れる人も多いそうだ。

8:40  自宅を出発、タクシーで長距離バス停まで行く。
9:10  バス出発、イルビッドに向かう。
10:30 イルビッドのバス停に到着

イルビッドはヨルダン第三の都市でありバス停も大きい。


(イルビッドのバス切符売場)

バス停には商店街もある。


(バス停の商店)

美味しそうなカバブも売っていた。


(カバブ焼き)

10;50 タクシーに乗りウンムカイスに向かう。
およそ30分ほどで遺跡に到着。

最初に西劇場に向かう。
この円形劇場は黒玄武岩で積み上げられ3,000人が収容可能という。


(西劇場の舞台)

保存状態はあまりよくないようだ。


(西劇場観客席)

西劇場からは遺跡全体が望まれる。

その日はもやがかかっていて見通しはさほどよくなくゴラン高原、ガリラヤ湖は
かすんでいた。


(遺跡を望む 遠くにゴラン高原が見られる)

周りにはいくつかの花も見られピクニック気分を味わえた。


(色とりどりの花1)


(色とりどりの花2)

赤いアネモネも印象的である。


(アネモネ)

また何虫であろうか、背が人面の虫も見られた。


(人面虫)

六角形に建った黒玄武岩の柱が印象的なビザンチン時代の教会跡もある。


(右手が教会跡)

途中列柱が立っているが、これらの列柱は以前から立ってたものか
その辺に転がっていたのを最近になって適当に立てたものかはよくわからない。
私はおそらく後者だと思っている。


(黒曜石列柱)

我々は黒曜石の列柱をあとにして遺跡を東西に貫くローマン・ロードへと向かった。
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