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風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

世界遺産 ウンム・アル・ラサース

2010-11-26 | ヨルダン国内旅行記
ヨルダンには現在3つの世界文化遺産が登録されている。

まず1985年に登録されたのが「薔薇色の都 ぺトラ」とアンマンの東部の砂漠のなかに
ぽつんと建っている「アムラ城」である。
(アムラ城は我々もヨルダン着任後3ケ月の頃、このブログの初期の時期に訪れたが
その時期まだ意識が薄く残念ながら写真は少ないが次回の稿で触れたい)

次いで2004年に登録されたのが今回我々が訪れた「ウンム・アル・ラサース」である。

世界文化遺産に登録されるには大きく分けて2つの特徴があるようだ。

一つは「薔薇色の都 ぺトラ」に代表されるように、その存在そのものが今現在すでに整備されていて素晴らしいものである。
(ペトラの詳細については2009年7月20日、27日の2回にわたり出稿の「ヨルダン・レンタカー家族旅行(ペトラ その1、その2)」
カテゴリー:ヨルダンレンタカー旅行記)を参照ください

もう一つは、今現在はほとんど整備されていないが、人類の創造的才能が大いに発揮されており
世界の大切な宝物として未来に残すべきと認められて整備を促すものである。

日本にある世界文化遺産は前者に属すると考えられる。
そして後者の代表的なものがウンム・アル・ラサースであり、それはほとんど整備されていない。

ヨルダンの「ペトラ」と並ぶ遺跡として「古代ローマ都市 ジェラシュ」が有名であるが
ジェラシュのほうは世界遺産として登録されていない。

その理由は、一説によるとジェラシュの遺跡は発掘調査や時代考証に関係なく
転がっている遺跡を極論すれば適当に雑然と並べただけだからとも言われている。

我々素人が見れば整然と並んでいるかに見える列柱道路にしても、専門家が見ると
柱の上、下の組み合わせや時代がでたらめだったりするらしい。
(ジェラシュの詳細については2009年5月8日および15日の2回にわたり出稿の「ジェラシュ その1、その2」
カテゴリー:ヨルダン国内旅行記)を参照ください

2009年11月28日(土)

26日にシリアから戻った我々は27日日帰りでカラクに犠牲祭のイベント見学に行き、
その翌日の28日にウンム・アル・ラサースの日帰り旅行に向かった。

シリア旅行の初日から数えると8日目にあたる強行軍である。

しかし普通に海外旅行に出れば10日間くらいの日程であることや、後半は自宅泊であり
勝手知ったるヨルダン国内旅行と考えるとそれほどの強行軍でないとも言える。

朝の10時頃だったろうか、近くの乗り合いバス用のたまり場まで行きマダバ行きのマイクロ・バスに乗車。

マダバはアンマンの南30kmに位置し40分ほどで到着。

さらにマダバで別の壊れかけたような汚いマクロ・バスに乗り換えウンム・アル・ラサースに向かう。
乗客は15人ほどだった。


(アンマンより50kmほど青線を南下)

ウンム・アル・ラサースはマダバの南東約20kmのところに位置し、
30分ほどでビジター・センターの正面に到着した。

センターは新しく、世界遺産であることを誇るかのように近代的なものだった。



しかし見物客はだれもおらず、我々夫婦の2人だけだった。

入場料は無料である、同じ世界遺産のペトラが現在5500円くらいであり、
今後の予定として約9000円への値上げが決まっているのとは大きな違いである。


(誰もいないセンター内)

センターをぬけると、そこは瓦礫の山である。

多くの遺跡が崩れ落ち土に埋まっている。



ここはローマ帝国の時代からイスラム王朝にいたる3~9世紀にかけて栄えた城塞であっが、
たび重なる地震によって街の遺跡はまるごと崩れ落ちて廃墟となってしまったようだ。





もともとはローマ軍の基地であったとされ、いくつかの教会も残されている。

なかでも785年に建てられた聖スティーブン教会はモザイクで有名で仮設の屋根が架けられている。


(白い仮設の屋根が架けられた聖スティーブン教会跡)


(うしろが聖スティーブン教会)

屋根の下には聖スティーブン教会の床一面に描かれたモザイクが保存されている。



床のモザイクにはエルサレムなど古代12都市を舞台に、船に乗ったり、農業や牧畜に従事した
当時の人々の暮らしぶりが一部は不明な所もあるがいきいきと描かれている。

















仮設の屋根に覆われた聖スティーブン教会を離れてさらに見学するが、
保存されているのは聖スティーブン教会だけである。



さらに行くと聖スティーブン教会の他にもいくつかの教会があったようだ。


(ライオンの教会)




(双子の教会)





最終のバスは15:30と聞いていたので早めにバス停の方に行く。

すると二人連れの乗用車が我々の前で停まり、「マダバに行くのか」と聞く
「そうだ」と答えると「連れて行ってやるから乗れ」と言うので乗せてもらった。


(車に乗るとジュースをくれた)

車に乗り込むと早速ジュースを2つくれた、そしてビジター・センタ前の小売店に戻り
あらためてジュースを買っていた。
どうやら彼ら用に買ったジュースを我々に譲ってくれたようだ。

話を聞くと彼らは警察官で、マダバの南100km地点のタフィーレに住んでおり今から帰るとのこと。


(親切な警察官たち、肩にはヨルダン国旗)

タフィーレに来たら家に泊れと携帯の番号まで教えてくれる、なんとも親切な警察官だった。

しっかりとお礼を言い警察官たちと別れる。

マダバよりバスに乗ってアンマンに戻る。

ヨルダン人の親切心に恵まれ心温まる小旅行だった。

将来においてウンム・アル・ラサースが整備され世界に知られた存在となることを願っている。
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犠牲祭 山羊の生贄

2010-11-12 | ヨルダン風物詩
今年もムスリム(イスラム教徒)にとって重要な儀式である犠牲祭の日が近づいてきた。

今年は2010年11月16日だそうである。

我々がヨルダンに着任した年の犠牲祭は2008年12月8日であったし、
去年は2009年11月27日だった。

イスラム暦は太陰暦によるため通常毎年11日づつ前にずれていく。

(犠牲祭の詳細については2008年12月19日出稿の「ホリデー・シーズン風景 その1(犠牲祭)」
カテゴリー:ヨルダン風物詩)を参照ください

実はシリア旅行からヨルダンに戻った翌日の2009年11月27日(金)アンマンから
南に約100kmのところに位置するカラクに向かった。

目的はカラク在住の日本人の大家さんの家で犠牲祭のための儀式として行う
山羊のを見学するためである。

見学のグループはおよそ20人で、スクール・バスが用意された。

こちらではちょっとした団体旅行にはスクール・バスを転用することはよくあるようだ。


(用意されたスクール・バス)

カラクに行くのは今回が2回目である。

前回は子供たち3人がヨルダンに遊びに来た2009年4月にレンタカーで行った時で、
ぺトラからアンマンに戻る途中に寄ったものだった。

(前回のカラク旅行については2009年8月10日出稿の「レンタカー家族旅行(カラクへ)」
カテゴリー:ヨルダン・レンタカー旅行記)を参照ください

今回は直接アンマンから南下した。


(アンマンより青線を南下)

2時間30分ほどでバスは大家さんの家に到着。


(大家さんの家)

ほどなく庭に山羊が連れてこられた。


(連れてこられた山羊)

山羊は自分の運命を知っているのか震えていた。

犠牲祭の儀式と言うわりには特別のお祈りとかもないようである。


(震える山羊)

男たち二人が山羊を慣れた手つきでし、最後に首を切り落とした。
子供たちは慣れているのか別段の怖さも持たずに見ていた。

最後に男が切り落とした頭を高らかにかざしたあと、山羊の皮を剥いでいった。


(血抜きのために吊るしているようだ)

の儀式が終わったあと時間があるため我々はカラク城見学に行った。

我々にとっては2回目の見学である。

今回初めて日本の援助で造られたパノラマ展望場を案内してもらった。

そこからはカラク城やカラクの町を一望できよい景色であったが
残念ながら訪れる人は少ないようだ。


(展望場からカラク城を望む)


(カラクの街を望む)

カラク城を見学のあと大家さんの家に戻る。

カラクではマンサフ料理が有名だそうで、案の定マンサフが出された。

マンサフ料理とはヨルダンを代表する料理で山羊や羊をヨーグルトで煮込み
ご飯、ホブス(パン)、ナッツとともに盛り合わせたものである。

そしてされた山羊の頭は今回の一番のお客様の前に提供される。


(マンサフ 松の実が入っている)

マンサフの味はの現場をみたせいか、あまり美味しくは感じなかった。
そして山羊の肉は羊よりも筋が多く硬いようだった。

マンサフを食べた我々は夕方アンマンに戻った。

今年も来週の16日にはこのような光景があるのかと思うと懐かしい気持ちだ。
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シリア旅行 6日目

2010-11-05 | シリア旅行記(2009年版)
2009年11月26日(木)

7:30 起床。

シリアで最後の朝である、朝食を取ったあとホテルから500mほどのマルジェ広場に行く。

広場に行くのは今回が初めてである。

シリアの首都ダマスカスは巨大なスーク(市場)やウマイヤド・モスクに代表される旧市街と
省庁や大使館のある新市街に大きく分けられる。

そしてマルジェ広場は新市街の中心地である。


(新市街の中心部 マルジェ広場)





広場近くには下町的雰囲気のお菓子屋さんも多い。
我々はその一つで胡麻の風味が美味しい胡麻クッキーをおみやげに買い求めた。


(広場近くのイスラム装飾のビル)

広場近くにはダマスカスにおけるシンボル・タワー的なビルもあり、ビルの上には「SONY]のマークがあった。


(シンボル・タワー 上に「SONY」のマーク)

ホテルに戻り荷物を引き取りタクシーでセルビス(乗り合いタクシー)の乗り場に向かう。

途中、隣りを走っているセルビスからアンマンへ行くのかと声をかけられる。
どうやら走りながら客を物色しているらしい。

我々はそちらのセルビスに乗り換えた。

セルビスは4人で満席のため、ドライバーはあと2人の客を求めて辺りを走り回っていたが
5分ほど経って諦めたのかアンマンヘ向かうようだ。

我々はゆったりと座れてラッキーである。


(ダマスカスからアンマンへ青線を南下)

ドライバーは盛んに電話をかけている。

あとでわかったことであるが、どうやらアンマン方向で満席でないセルビスを探していたらしい。

途中、セルビスのたまり場みたいな所で他のセルビスに乗っていた二人の男性客が乗ってきた。

めでたく満席となり、助手席に妻、後部座席に男性3人を乗せたセルビスは再び出発した。

男性客たちに話を聞くと彼らは国境近くのイルビッドに住んでおり、
年に何回かは買い物をするため物価の安いダマスカスに来るらしい。
今回は明日からの犠牲祭に備えての買い物のようだ。

国境を越えたところで、男たちはセルビスを降りた、近くに彼らの車を停めてあると言う。

やはりヨルダン人の彼らにしてもシリアの道路、特にダマスカスは道も分からず運転が難しいようだ。

再び我々二人となってゆったりと座りながらアンマンに向かった。

17:00 アンマンに到着。

こうして我々の2回目のシリア旅行は終わった、。

私にとっては生涯最後のシリア旅行であろう。

後日談であるがダマスカスのスーク巡りが気に入った妻は今年(2010年)の2月
長女が友達連れでヨルダンに来た際もセルビス利用で1泊2日のダマスカスを楽しんだ。
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