風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

ヨルダン レンタカー家族旅行(ネボ山 死海 温泉)

2009-08-17 | レンタカーによるヨルダン旅行記
4月19日 晴れ

8:00 ワディ・ラム、ぺトラの2泊3日のドライブ旅行から戻った我々は
今回の家族旅行の最終ドライブに出かける。

予定はアンマンより南下してネボ山に寄り死海を経てハママート・マインにある
温泉に浸かりアンマンに戻ってくる行程だ。


(アンマンーネボ山ー死海ー温泉ー
アンマンと時計回りにドライブ)

ネボ山はアンマンの南西30kmのところに位置し死海とパレスチナを見下ろせ、
モーゼ終焉の地として有名である。

ネボ山、パレスチナについては2008年8月30日出稿のパレスチナ
(カテゴリー:ヨルダン事情・暮らし・気質)を参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/morimoriblog/m/200808

ネボ山の教会入り口には記念碑がある。
これは、2000年にローマ法王ヨハネ・パウロ2世が訪れたのを記念してるそうだ。
 記念碑下方には、UNUS DEUS PATER OMNIUM SUPER OMNES
「一つの神、万民の父が、万民の上にいます」と書かれている。

余談であるが本年、2009年5月9日にはヨハネ・パウロ2世の跡を継いだ
ベネディクト16世が訪問している。


(ヨハネ・パウロ2世の記念碑)

記念碑を奥に進むと、4世紀にモーゼを記念して建てられた教会跡があるが
現在は修復中である。

それのモザイク壁画が一部展示されている。


(モザイク壁画)

さらに進むとモーゼの杖のモニュメントがある。

モーゼは杖で現在のエルサレム方面を指し「カナンを目指せ」と言い残して
亡くなったとされている。


(モーゼの杖)

ネボ山は標高800メートルであり、死海は標高マイナス400メートルである。

我々は1200メートルの標高差を死海に向けて下ることにする。

一気に山を下り降りた我々は死海に浮かぶべく公共のアンマン・ビーチで着替えをした。

そこはプールもあり快適な場所である。

ヨーロッパからの旅行客が多くビキニ姿の女性もいて、ここがイスラム国であることを
忘れさせててしまうほどであった。


(Pool)

早速ビーチに向かい


(ビーチ)

それぞれが死海に浮き記念写真を撮った。

塩分が強いためか肌にさすような痛みがあり、長くは浮かないほうがよさそうだ。


(死海浮遊中  向こうの陸地はイスラエル領)

浮遊体験後、女性たちはホテルのエステ、泥パックを予約していたためホテルに向かう。


(マリオット・ホテル)

その間男たちはのんびり昼寝をした。


(昼寝タイム)

ホテルの庭は手入れが行き届いている。


(美しい庭園)

泥パックを終えた妻たちと合流後、温泉に向かう。

時間の関係で昼食を省いた、これには皆不満だったようだが無視してドライブ。

ザルカ・マイン川が死海の谷へと流れ落ちる海抜0~マイナス400mの断崖には
たくさんの温泉が湧き出ているらしく、2000年以上も昔から知られており、
ローマ時代には死海湖岸に温泉療養所があり、持病をかかえていたヘロデ大王が
船で死海を渡って湯治に来ていたと伝えられている。

ハママート・マインの温泉は観光施設となっており入場料を払って入る。
中に入ると案内表示が不十分でよくわからない。

最初に訪れたのは温水プールであった。


(温水プール)

これが温泉とは思えない。

奥に入ると高さ4mほどの小さな滝がある。


(小さな滝 これは人工らしい)

さらに奥に進むと豪快に滝が落ちているのが見える。

これぞまさしく温泉である。
流れ落ちてくる滝はほどよい熱さである。

滝壺には現地の女性も見られ、彼女たちは普段着のまま浸かっているようである。


(Hot Spring)

温泉をあとにして一路アンマンの我家に向かう。

18:00 自宅着

車をオーナー代行に自宅前で返す。

19時過ぎ、自宅から西のほうを眺めると夕焼けが赤く染まって素晴らしかった。

こちらでは天候のかげんでこのような燃え上がるような赤焼けに出っくわすことがたまにある。


(我が家からの素晴らしい赤焼け)

これで4日間のレンタカー家族旅行は終わりである。

本日の走行距離 220km

この4日間での全走行距離はちょうど1,000kmであった。
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ヨルダン レンタカー家族旅行(カラクへ)

2009-08-10 | レンタカーによるヨルダン旅行記
ショーバックをあとにしてカラクへ向かう。


(ショバックからカラクへ北上)

カラクへの道は今までと同じくキングス・ハイウエー。

ショーバックからカラクまではおよそ80kmの山道である。


(カラクへ)

途中にはダム湖も見える。


(ダム湖)


(カラクへの風景)

2時間ほどドライブしたであろうか、山上にカラク城が見えてきた。

ここは十字軍とイスラム側との攻防で歴史に名を残している。
12世紀前半、ヨルダン側に進出した十字軍によって城塞都市の建設が始まり
1,161年に完成したそうだ。


(カラク城)

昔は30mの深さがあったという堀跡は今もあり、それをわたって城内に入る。


(堀跡)

城からの眺めはやはり素晴らしい。


(城下を望む)


(城からの風景)

しかし城そのものの保存は不十分のようでなんら説明らしきものがなく
まだ整備中で物足りなさを感じる。


(城内の様子)


(石垣)

未整備でありながらも博物館だけは日本の協力で立派なものが建っており
なにかちぐはぐな感はいなめなかった。

また立派な博物館であったがトイレがなかったのは残念であった。
結局城内には一つもトイレはないようである。


(博物館建設に日本の貢献を示すレリーフ)

カラク城をあとにする。

当初、カラク城をみたあとそのままキングス・ハイウエーの山道をマダバに向かって
進む予定であったが、どうゆうわけかキングス・ハイウエーに乗れず、
平坦なデザート・ハイウエーでアンマンに帰ることとなった。


(当初赤線コースの予定が黒線になってしまった)

17:30 デザート・ハイウエー利用のため予定より早くアンマンの自宅着。

本日の走行距離315km。

明日はレンタカーの期限最終日である。
日帰りでモーゼ終焉の地ネボ山、死海などに出かける予定である。
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ヨルダン レンタカー家族旅行(ショーバックへ)

2009-08-03 | レンタカーによるヨルダン旅行記
4月18日 晴れ

6:00 起床
急いで山越しに日の出を見る。


(日の出)

ホテルの構内を散歩しながらレストランに向かう。
このホテルの敷地はかなり広いためちょっと迷うくらいだ。

この地域は古い石造りの家が多いせいか、石材を用いた造形物が眼をひく。
客室の造りもそうである。


(石造りのアーチ)

朝のサービス・テーブルも昨夜の夕食同様豪華である。


(朝のサービス・テーブル)


(朝食)

9:00 ホテルを出発。

ホテルに隣接して古いこの地方独特の石造りの家が多数ある。
容易にホテルがこれらの家を模してることを想像させる、


(古い石造りの家)

我々の今日の目的地はアンマンの我家である。

時間はかかるが景色を楽しめる山道のキングス・ハイウエーを北上の予定である。

途中ショーバックとカラクに立寄るつもり。
ショーバックは交通の便が悪いためヨルダン在住でもなかなか来れないところだ。
どちらも古城があることで有名なところである。


(一番下のぺトラよりショーバック、カラク、
マダバ、アンマン自宅へと北上の予定)

山道を40分、20kmほど走ったであろうか峡谷に囲まれた丘に建つ城が見えてくる。

一見シリアのクラック・デ・シュバリエ城を思わせる立地だ。

クラック・デ・シュバリエ城については2009年3月2日出稿の
「シリア旅行記 2日目 その2」(カテゴリー:シリア旅行記)を参照ください。


(丘の上に建つショーバック城)

ここはエルサレムの十字軍が初めてヨルダン側に
城を築いたところだそうだ。


(ビジターセンター)

ビジターセンターは立派であるが城そのものはまだまだ整備がされてない。


(未整備のままの城)


(無造作に遺物が置かれたままの内部)

しかし城からの景色は四方が見渡されて素晴らしいものだった、
これはどこの城でも共通のようだが。


(城からの風景)

我々家族はショーバックを後にして次の目的地であるカラクに向かう。
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ヨルダン レンタカー家族旅行(ペトラ その2)

2009-07-27 | レンタカーによるヨルダン旅行記
凱旋門をくぐり左手にエル・ハビズ城を見ながら先に進む。
ぺトラは文字通り奥が深い。


(左手にエル・ハビズ城)

ここから先はさらに1時間ほどの細い山道、崖道が続くらしい。
そんな道にはロバが適しているそうだ、べドウィンがさかんにロバを勧める。


(ロバとらくだ らくだは山道は向かないため
シークに戻るためのものだ)

我々はロバの脚に頼らず自力で先を目指す。

落岩もあったりして細い道をさらに細くしているところもある。


(細い道)

眼下の風景はなかなかのものだ。


(崖また崖の風景)


(崖の裂け目)

1時間ほど登ったであろうか、ようやくエド・ディルに到着。

エド・ディルは高さ45m、幅50mと先のエル・ハズネより大きく
1世紀中ごろに築かれたナバタイ人の神殿だそうだ。

ディルというのは修道院のことらしく、昔はこのあたりに修道士が住んでいたため
エド・ディルと名づけられたらしい。


(エド・ディル)

この先さらに500~600m先にすばらしいView Pointがあるという。
妻はここで止めたが、私と子供たちはさらに上のポイントを目指す。

頑張って暫らく行くとヨルダン国旗が見えてくる。
そこがView Pointである。


(国旗がたなびくView Point)

ポイントに立つと360度のパノラマが開けすばらしいものだった。


(VPからの景色)


(VPから)

VPまで行った我々は心置きなくエド・ディルをあとにし帰路につく。


(帰路 青空が美しい)

帰路、またもインドの撮影隊に遭遇。
今度は崖の上に立っていた。


(衣装を変えて撮影の女優)

エル・ハズネに戻り今一度「ばら色の都」の雰囲気を味わう。
夕暮れのせいかばら色が濃いように感じる。


(もう一度エル・ハズネ)

再びシークを通って入り口に戻り、ぺトラ遺跡をあとにしレンタカーで
今日のホテルに向かう。

今日のホテルはこの地方の昔の石造りの家を模倣したもので最近特に人気があり
予約しにくいホテルになっている。


(石造りの部屋が並ぶホテル)


(我々の部屋の玄関前)

外観の古めかしさとは違って、室内はいたって綺麗で明るい雰囲気である。


(ベッド・ルーム)


(バス・ルーム)

シャワーを浴びて夕食に向かうとちょうど日が沈んだところであった。


(日没)

レストランも綺麗で、旅行客はヨーロッパ人が多いようだ。
我々は運良く6人席に席を確保できた。


(我々の席)

食事はビュッフェ式だが品数も豊富でアラビア料理を堪能できた。
もちろんビール、ワインも頼んだ。


(夕食)

2時間くらい家族で話し合いながら過ごしたであろうか、部屋に戻る。

今日はよく歩いたので全員脚はパンパンだ。

22:00 就寝。
  
今日の走行距離117km
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ヨルダン レンタカー家族旅行(ペトラ その1 )

2009-07-20 | レンタカーによるヨルダン旅行記
シーク入口にきた我々は狭い岩の裂け目へと入っていく。


(シーク入口)

頭上に迫り出した崖の高さは60~100mだそうだ。


(文字通り岩の裂け目を歩く)

崖上からの水をせき止めたとみられる昔のダム跡も見られた。


(ダム跡)

またナバタイ人が信仰していた神を描いたかのような彫り物も壁に刻まれている。


(ナバタイ人の彫り物)

ぺトラのかっての繁栄を示すかのように水源地から水を引いていた水路跡も見られる。
水路には土管(素焼きの管)が置かれていたそうだ。


(窪んだところが水路 そこに土管を置いた)


(延々と続く水路跡)

この狭く暗い道を30分ほど歩いたであろうか。
突然一筋の明かりが差し込んでくる。


(一筋の明かり)

さらに明かりの先に眼を凝らす。



すると突如美しいばら色の神殿が目の前に現れる。

川端康成の「雪国」風に言えば「狭い岩の裂け目を抜けるとそこはばら色の都であった」
という風情である。

このばら色の神殿、「エル・ハズネ」と呼ばれ神殿風霊廟で、幅30m、高さ43mだそうだ。
紀元前1世紀~後2世紀のものらしい。


(ばら色の都)

この「エル・ハズネ」は微妙な光の違いによって、1日に50色ものばら色を見せるといわれ
ばら色の都とも呼ばれている。

内部を見てみると時の流れであろうか、あるいはもともとなのか鮮やかな岩肌模様が見られる。


(内部の壁)


(天井にも模様が)

「エル・ハズネ」の前ではインド人による撮影が行われていた。


(インド人女優であろうか)

「エル・ハズネ」を過ぎるとここにも円形劇場がある。
これは2-3世紀のもので5,000人以上収容できたそうだ。


(ローマ円形劇場)

円形劇場のちかくにはみやげ物屋さんも多い。


(砂でできたみやげもの)

また疲れた観光客のためのラクダやロバも多く見られた。


(ラクダ引き)

円形劇場の向かい側には岩窟墓群がみられ、その最大のものは宮殿の墓と呼ばれ
3階建てのローマ帝政期宮殿建築を模倣しており1-2世紀に造られたらしい。


(宮殿の墓)

岩窟墓の中に入ってみるとそこにも色鮮やかで神秘的な岩肌模様が見られた。


(岩窟墓の壁)


(岩窟墓天井の岩肌模様)

我々はさらにぺトラ遺跡の真ん中あたりに位置する柱廊通りへと進む


(柱廊通り)

柱廊の広さは6mだ。


(列柱)

この通りを囲むように大寺院、凱旋門などの建築物があったようであるが
551年の大地震によってほとんど崩壊してしまったようだ。


(大寺院の存在を示すプレート)


(大寺院跡)

柱廊の最後には比較的原形をとどめた凱旋門が残っている。


(凱旋門)

我々は凱旋門をくぐりさらに奥へと進むこととする。
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