風に吹かれて アンマン

日々の想いを記録に残せたらと願っている
内容は「ヨルダン事情・風物詩・気質」「中欧旅行記」「シリア旅行記」などからなる

エジプト旅行 6日目 その2(コムオンボ神殿)

2009-11-28 | エジプト個人旅行記
船は順調にコムオンボに向けて進路をとる。

ナイル川河畔は肥沃なのだろう、緑が多く、農業、牧畜が盛んなようだ。

エジプト文明はナイル川の賜物といった言葉が思い浮かぶ。


(ナイル川河畔 農業が盛んである)

コムオンボはアスワンから北へナイル川を46km下った東岸にある町である。
地名はアラビア語でオリンポスの丘という意味で、かってはオリンポスと呼ばれていたそうだ。

16:00 2時間ほど航行したであろうか、コムオンボ神殿が見えてきた。


(コムオンボ神殿 ナイル川から)


(神殿遠景)

この神殿はプトレマイオス朝時代(紀元前3~1世紀)に建てられ、
ローマ皇帝アウグストゥスの時代(紀元前1世紀)に完成した。
そのため一見ギリシャのアクロポリスのような印象を与える。


(神殿)

この神殿は、かっては半分以上が砂に埋もれていたらしい。

それは170年前のデビット・ロバーツの絵によってわかっている。


(170年前の神殿 中央の柱の下に人が立っている)

デビット・ロバーツの絵はエジプトのホテルなどにはよく展示されているようだ。

デビット・ロバーツはスコットランド・エジンバラに1796に生まれた。
彼は1838~9年にかけてエジプトに11か月滞在し、各地の遺跡を回って多くの作品を描き
『A journey in Egypt』という画集を残している。

そこには170年前のエジプトの風景と遺跡と人々が描かれていて非常に興味深い資料である。

神殿内には多くのレリーフが残っている。


(レリーフ)

ガイドのハッサンが説明してくれるが、エジプト訛りの英語と、
エジプト歴史に深くないため理解できないことも多かった。


(ガイドのハッサン)


(神に供え物をしているらしい)


(今なお彩色の残る列柱)


(彩色のほどこされた天井)


(柱頭部に模様をあしらった石柱)


(レリーフ)

コムオンボ神殿のレリーフには、何故か医学的な記述があるという。
下の写真は、妊婦の分娩の様子を表しているのではないかと思われる。


(右の女性は妊婦の分娩を表しているようだ)


(レリーフ)


(びっしりとレリーフが施された列柱 
プトレマイオス朝の特徴だそうだ)

見学を終え船に戻る。

船上からの夕焼けがきれいだった。


(日の入り 船から)


(日の入り直後の赤焼け)


(完全に陽は沈んだ)

19:00 船は次の目的地エドフに向かって静かに出航したようだ。

夕食後、簡単なゲームなどを行うパーティがあった。


(ツアー友、左の母子はアンマン在住のアメリカ人)

後日談であるが、エジプト旅行から戻って1週間くらい後に
上の写真の一番左の女の子(名はサブリナ)に我々のアパート近くで
ばったり出くわした。

我家の近くに友達が住んでいて泊まりこみで遊びに来たらしい。

まさに世の中は狭い。

22:30 就寝
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エジプト旅行 6日目 その1(アスワン市内観光)

2009-11-21 | エジプト個人旅行記
5月23日(土) 晴れ

7:00 起床

久しぶりにゆっくりと起きる。
窓の外にはナイル川にゆったりと浮かぶ帆掛け船フルーカがある。

一瞬、時間が止まってるような錯覚に陥る。


(ゆったりと流れるフルーカ)

7:40 いつものレストランで朝食をとる。


(朝食)

今日の午前中は自由行動である。
オプショナル・ツアーとしてフルーカに乗ってヌビア村訪問があったが
皆さんあまり興味がないらしく、希望したのは我々だけ2人であった。
結局ツアーは10人に満たず、キャンセルとなってしまった。

アブ・シンベルのホテルでヌビア人のウエイターと話しをして、
彼らの人柄の良さに興味がわき、生の生活を見てみたかったのだが残念であった。

そこで我々はヌビア博物館に行くこととした。

タクシーを捕まえて値段交渉。

ドライバーは単に片道だけでなく帰りも乗ってほしいらしい。
指定された時間に迎えに来るという。
結局、アスワン駅方面からクルーズ船にもどるまでの半日借り切る形にした。

値段は約1、000円、日本と比較すると非常に安い。ヨルダンよりも安いようだ。


(半日お世話になるドライバー)

ヌビア博物館はユネスコの援助によって1997年にオープンした近代的な博物館である。



(ヌビア博物館)


(入口)

ここでは先史時代からイスラーム時代にかけてのヌビア地方の
歴史、習慣、風俗を中心に展示している。

展示品には日本で見かける観音様に似たものも見られた。


(日本の観音様に似た像)

かなり細かい彫刻像が多くある。


(猿の彫刻)

また、アブ・シンベル神殿の今昔の位置を示す模型も興味深い。


(今はナセル湖に沈んでる下の位置より
60m上に移されたのが現在の神殿位置)

中庭もなかなか整備されていて美しい。


(中庭からの風景)

博物館を出ると約束どおりタクシーが待っている。

アスワン駅に行ってもらう。

エジプト国鉄の終点はアスワン・ハイダム駅であり
アスワン駅はその一つ手前の駅である。


(アスワン駅)

構内にはチケットを求める人も見られた。


(駅構内)


(駅前の街並み)


(観光馬車)

駅の裏手にスーク(市場)があると聞いていたので行ってみた。

すごい悪臭がする。
なんとそこには生魚が暑さの中にさらしたままだった。


(すごい悪臭の生魚)

こんな魚を食べてお腹をこわさないかと思うほどだ。

さらに行くと野菜スークもある。


(駅裏の野菜スーク)

どうもこの辺りまでくる観光客は少ないようだ。


(地元人のための野菜スーク)

地元の人たちが好奇の目で見る中、かまわずにさらに歩を進める。


(昔風な路地と家並み)

アパートのような建物の一部には色彩が施されている。
これはヌビア人の家の特徴のようだ。


(色彩が施された建物)

絵が描かれているものもある。


(絵が描かれている建物)

さらに行くと川があるが、こちらでは川がゴミ捨て場のようである。

この光景はカイロ周辺の川でも見られた。


(ごみだらけの川)

どうも我々は来るべきスークを間違えたようだ。
そのお陰でアスワンに住む人たちの生の姿に出会えたようだ。

駅に戻ると、駅の正面、横手のほうに観光客向けのスークはあった。


(おもて通りスーク 整備されている)


(スークの街並み)

妻は民族衣装であるガラベーヤを記念に買った。


(ガラベーヤ店の主人)

買い物を終え、再びアスワン駅前に戻るとタクシーが待っている。

12;00 そのままクルーズ船にもどり、約束のお金を払ってタクシーを降りる。

13:00 クルーズ船出航。

風を帆一杯に受けたフルーカも名残りを惜しむかのように並走する。


(並走するフルーカ)

途中、おだやかなナイル川をまたぐ大きな橋が美しい。


(ナイル川をまたぐ美しい橋)

船は次の目的地であるコム・オンボに向かう。
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エジプト旅行 5日目 その2(切りかけのオベリスク ハイダム イシス神殿)

2009-11-16 | エジプト個人旅行記
15:30 観光に関するミーティングが始まる。

総勢20名くらいで当然ながら夫婦連れ、家族連れが多い。
国籍はアメリカ、カナダ、ブラジル、レバノン、日本といったところだ。
ヨーロッパからの参加はないようだ。
ヨーロッパからは近いこともあって、旅行客が多く
彼ら独自でグループを作っているのではと推察する。

子供を2人連れた女性も参加しており、驚いたことに我々と同じく
アンマンからの参加であった。
国籍は米国だが国連関係の仕事でアンマンに駐在してるとのこと。

ガイドはハッサンといい、自分でオールド・ハッサンと名乗っていたが
かなり年配のようだ。

簡単な諸注意のあと、バスに乗り込む。


(ガイドのオールド・ハッサン)

最初の訪問はアスワンの町を1kmほど南下したところの古代の石切り場である。


そこには何かの失敗があって横たわったままになっているオベリスクが残っている。


(中央に横たわっているのが切りかけのオベリスク)


(切りかけのオベリスク)

ここでは高い石切り技術を持っていたようだ。

まず石に切り込みをつける。


(切り込みをつけられた石)

そしてそこに木のくさびを打ち込み、次にくさびを水で濡らす。
すると、くさびが膨張し自然に石が割れるそうだ。
切り口はほとんど凹凸がなく、滑らかに切れるという。

我々はさらに10kmほど南下しアスワン・ハイダムに向かう。


(ロータス(蓮)をイメージしたハイダム記念塔)

このダムは幅3600m、高さ111mの巨大なダムで1970年、
ドイツとソ連の協力によって完成したそうだ。

このダムによってできたのが人造湖、ナセル湖だ。
ナセル湖の大きさは琵琶湖の7.5倍もあるそうである。


(下に見える発電所)

このハイダム、高さが111mもあり、エジプトが誇る巨大建造物といわれているが
あまりその大きさを実感できない。

それは下方に水が貯えられていることと、ハイダムの上に我々が乗っており
3600mという幅を感じられないためではないかと勝手に想像した。


(ハイダムからの風景)

このあとイシス神殿に向かう。

イシス神殿はフィラエ島にあり船着場に向かった。


(フィラエ島に向かう船着場)

乗船すると10分ほどでイシス神殿が見えてきた。


(船からのイシス神殿)

この島では古代エジプト末期王朝時代からローマ支配時代にさまざまな神殿が建てられた。
なかでも最も有名なのはイシス神殿であるが、後に建てられた教会の遺跡もある。

この神殿群も、アブ・シンベル神殿と同様、アスワン・ハイダムができてから
水没する運命にあった。
そこで現在地に移されることとなり、1980年に完了したらしい。


(イシス神殿に入る)


(列柱)


(回廊)


(壁画)




(中央はトラヤヌス帝のキオスク)

キオスクの裏はナイル川であり、船着場の休憩所だったらしい。

裏手の川のほうに廻ってみる。


(川のほうからのキオスク)

川のほうからの景色は170年前のデビッド・ロバーツの絵と同じのようである。


(170年前のキオスク)


(壁のレリーフ)


(教会があったことを示す十字架 コプト十字)


(レリーフ)


(彫られた猿)

フィラエ島を観光した後、来たときとは逆に船着場に戻り、バスでクルーズ船に戻った。

夕食を済ませたあと、しばしベリーダンスなどの余興を楽しむ。


(ベリーダンス)

ダンサーはアスワンで一番の踊り手とのふれこみであったが
アスワンにダンサーは一人しかいないとのオチであった。

22:00 就寝。
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エジプト旅行 5日目 その1(アスワンへ クルーズ乗船)

2009-11-09 | エジプト個人旅行記
5月22日(金) 晴れ

6:00 起床

今日も朝からスケジュールが立て込んでるため、すぐにレストランに向かう。

東の山の上を見るとちょうど日の出である。


(山から昇る太陽)

我々が一番乗りであった。


(サービス・テーブル)


(朝食)

この地方にはヌビア人といわれる色の黒い人が多い。
ウエイターもヌビア人のようだ。

彼らは自分たちがエジプシャンでもアフリカンでもなく、ヌビア人だ
ということにとても高い誇りを持っているそうだ。

顔つきもアフリカンのそれとは違うようである。


(人なつっこいヌビア人のウエイター)

7:30 バスにて空港に向かう。

今日はアスワンに行きクルーズに乗船の予定である。


(スーダン国境のアブ・シンベルよりナセル湖を
はさんで北のアスワンに飛ぶ)

9:15 アブ・シンベル空港を離陸 280km、45分の飛行である。


(機内より 砂漠のようである)

10:00 アスワン空港に着陸

先日、イタリア人団体のガイドから聞いた情報に基づきタクシーを捕まえる。


(ドライバーとタクシー)

アスワンのタクシーはリゾート観光地のせいかカイロのタクシーよりは
はるかに綺麗である。


(カイロより綺麗なタクシー)

途中の集落はヌビア人村だそうだ。


(ヌビア人村)

アスワンに近づくと観光馬車がある。


(観光馬車)

ナイル川沿岸には緑も多い。


(緑も多い)

タクシーはクルーズの乗船場に到着。

我々の船は「ラダミス号」である。


(我々のクルーズ船 ラダミス号)

これに乗って3泊4日で、途中観光をしながら
アスワンよりルクソールに向けてナイル川を下る。


(ナセル湖北のアスワンよりルクソールに向けて
ナイル川を北に下る 青線はナイル川)

早速船内に入り室内に荷物を置く。


(船内)

船内は手入れが行き届いており、船室も綺麗である。


(船室)

船室の窓からの風景も綺麗である。


(窓から)

ナイル川はゆったりと流れているようである。


(窓からの風景)

ナイル川の沿岸には緑が多く、その奥手にはちょっとした山もある。



アスワン名物の帆掛け船のフルーカも浮かんでいる。


(アスワン名物のフルーカ)

一息ついた我々はレストランに行く。

レストランはかなり広く、品揃えも豊富である。


(レストラン)

味もよいようだ。


(ランチ)

ランチ後15:30のミーティングまでは部屋でのんびり過ごす。

これからの4日間が楽しみである。
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エジプト旅行 4日目 その2(アブシンベル神殿))

2009-11-02 | エジプト個人旅行記
ホテルの部屋から出ると、そこはすごい暑さであった。

アブシンベルは北回帰線を超えスーダンとの国境まであとわずかの
エジプト最南端に位置する。

5月であっても気温は40度を超えてるのではと思われる。

ホテルにはプールもあるが、暑さのせいか誰も泳いではいない。


(誰もいないプール 奥はナセル湖である)

庭の木々も南国らしく原色が多いようだ。


(ナセル湖の脇に咲く原色の赤い花)


(たわわに花をつけた木、何の木だろうか)

ホテルからのナセル湖も美しい。


(ホテルから見るナセル湖)

神殿入口はホテルから歩いて5分くらいのところにある。

神殿は大小2つあって、サークル状の道のどちらからでも廻ることができる。

我々は最初に大神殿のほうから見ることにした。

これらの神殿は、アスワン・ハイダム建設時に神殿が水没の運命にさらされ
ユネスコが国際的キャンペーンにより救済したものである。

1964年から68年にかけて工事が行われ、大小2つの神殿をブロックに切断する方法で
元の位置より60m上にそっくり移動することにより今の神殿がある。

話は過去のアブシンベル神殿にさかのぼるが、かっては砂に埋もれていたらしい。

それは170年前のデビット・ロバーツの絵によってわかる。


(170年前のアブシンベル ナイル川河岸にあった)

デビット・ロバーツの絵はエジプトのホテルなどにはよく展示されているようだ。

デビット・ロバーツはスコットランド・エジンバラに1796年に生まれた。
彼は1838~9年にかけてエジプトに11か月滞在し、各地の遺跡を回って多くの作品を描き
『A journey in Egypt』という画集を残している。

そこには170年前のエジプトの風景と遺跡と人々が描かれていて非常に興味深い資料である。


(かなりの部分が砂に埋もれている)

神殿は1813年、スイス人ブルックルハルトが土地の人の案内で発見した。
北から吹く強い風のため神殿の4分の3は砂に埋もれていたそうだ。
イタリア人ベルツォーニが発掘を始め、初めて神殿内部に入ったといわれている。

ベルツォーニは英国人3人とともに掻いても掻いても崩れてくる砂をさらに掻き分け
ようやく神殿の入り口をみつけたのは1815年のことだった。

話は現在の神殿探索に戻る、5分ほど歩いて大神殿に着く。

この大岩窟神殿を建設したのは、古代エジプト新王国時代第19王朝のラメセス2世だ。
今から約3300年前のことである。

ラメセス2世はカルナック神殿やルクソール神殿にも自分自身の巨像を
多く残していることからもわかるように、自己顕示欲が強かったといわれている。

そのなかでも極め付けがこの神殿である。


(大神殿)

正面の4体のラメセス2世の巨像は高さ20mである。


(ラメセス2世の巨像)

入口の手前の壁には戦争捕虜のレリーフが残る。


(アフリカ系の捕虜)

捕虜にはアフリカ系やシリアから連れてこられたものもあり、顔つきや服装などが違う。


(シリア人奴隷)

大神殿入口から中に入れ、至聖所などがある。
写真撮影はここまでである。


(大神殿入口)

大神殿を200mばかり行くと小神殿だ。

小神殿はラメセス2世が王妃ネフェルトアリのために建造した岩窟神殿である。

ちなみに我々が泊まっているホテルの名はネフェルトアリ・ホテルである。

大神殿と比べると確かに小さいが、それでも正面にラメセス2世の立像4体と
ネフェルトアリ2対が並ぶ姿は圧巻である。
足元には彼らの子供たちの像が刻まれている。


(小神殿)

小神殿を見学したあと、我々は一旦ホテルに戻る。

20:00からはアブシンベル神殿をスクリーンとした「音と光のショー」が
開催される、それまで休憩する。

19:30 再び神殿に向かう。

ちょうど日没の時間であり、ホテルから見るナセル湖に沈む太陽が美しかった。


(ナセル湖に沈む太陽)

会場はほぼ満席である。


(音と光のショー)

座席にはイヤホンが置かれており日本語解説を聞くことができた。


(大神殿をスクリーンとして)

我々はピラミッドでの「音と光のショー」を見たこともあってか
あまり感動することはなかった。


(小神殿をスクリーンとして)

40分ほどのショーを見て、ホテルに戻る。

21:00 ホテルのレストランで本日の夕食をとる。

ビュッフェ形式であったが味はよかった。


(夕食)

23:00 就寝。
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