Dying Message

僕が最期に伝えたかったこと……

「前代未聞のプロ野球選手」

2008-05-26 15:51:27 | 小説
 ――乗馬への転身。それは競走馬にとって死刑と同じ意味を持つ。もちろん乗馬クラブなどでの需要がないわけではないが、多くの場合、乗馬は廃用の隠語として用いられる。
 ワンウェイチケットもそんな窮地に追い込まれた一頭であった。近親にこれといった活躍馬もおらず父も無名なこの牡馬は、本来、中央競馬で走るレベルになく、芝のデビュー戦はタイムオーバーの惨敗、目先を変えた二戦目のダートもブービーといいところなく終わった。
 ただこの馬が他と違ったのは、その馬体である。トウショウファルコやサッカーボーイを彷彿とさせる尾花栗毛に、知性を感じさせつつどこか寂しげでもある瞳。天から授かったパーツのひとつひとつが芸術品のようで、調教師も馬主も、その肉体を抹殺することにどうしても納得がいかなかった。

 そこで馬主が提起したのは画期的な案だった。プロ野球への挑戦を表明したのである。この前代未聞の珍事をマスコミは連日取り上げ、ワンウェイは一躍有名になった。しかし、それはあくまで野次馬的な関心であり、冷ややかな目で見る者も少なくなかった。事実、球団からのオファーはなかなか届かず、オーナーも夢の実現を一度は諦めかけた。
 が、そんなある日、横浜ベイスターズから育成枠での契約の申し出があった。集客力を見込まれたのだろう。

 現実は想像以上に厳しかった。よく考えれば当然のことだが、まずバットも握れないのである。やがて口にバットを咥える手法を編み出すが、これでもまともにミートすることすらできない。守備でもファンブルの連続で、やがて代走専門での起用が決定した。いや、決定したというより、そこに雪崩れ込んだというのが正しい。背番号は、スーパーカートリオ・高木豊にちなんで「103」に決まった。

 夕暮れの練習場に、怒声がこだまする。
「何度言えば分かるんだ! ベースには滑り込めと言ったろう」
「すみません……」馬は力なく答える。
「それから速さ自体も物足りん。競走馬なら100mを6秒くらいで走れるんじゃないのか」
「それはこの練習場が土だからだと思います。僕は芝向きの血統ですから。横浜スタジアムの内野は芝なので僕の脚力が生きるでしょう」
「こいつ、いっぱしの口をききやがって」
 そう言ってコーチがワンウェイの胸を小突くと、跳ね返され、よろけてしまった。馬に体をぶつけられた日にゃたまらんな。そう呟くと彼の頭の上で豆電球が光った。その光はワンウェイチケットの未来を確かに照らした。

 公認野球規則7・06(a)にはこのような条文がある。
「捕手はボールを持たないで、得点しようとしている走者の進路をふさぐ権利はない」
 つまりこれを逆手に取った戦術が「体当たり」である。これならば馬の体の大きさを最大限に生かせる。それがコーチの閃いた案であった。
 救世主のコーチは、明くる日もまた明くる日も、ワンウェイの体当たりを受け続けた。球団が支配下選手契約を結ぶのに、背中の数字の桁が減るのに、そう時間は掛からなかった。
 
 しかし全てが順調だったわけではない。やがて開幕の時期を迎えても、ワンウェイは二軍に甘んじていた。野球への情熱を失いかけたある日、アザだらけのコーチが言った。
「もっと体に力を込めろ! お前、最近たるんでいるぞ。一軍に上がれず腐っているのか」
「いえ、それは……」馬は俯いた。
「競走馬として半端だったお前が、すぐに野球がうまくなるわけないだろう。ましてや馬が野球なんて前代未聞なんだ。もっと粘り強く頑張ってもらわないと困る」
 馬は返事をする変わりに目を瞑る。
「いいか、お前が野球で成功するかどうかは、お前だけの問題じゃないんだ」
 コーチは深呼吸して続けた。
「今、地方競馬が相次いで廃止となっていて、生産頭数も減少しつつある。そんな中で競走以外にサラブレッドの受け皿を見出せば、どれだけの者が救われるか。生産牧場は、一部の大牧場を除いて倒産の危機に瀕している。もちろん馬自身だって処分以外の道が開けるのは喜ばしいことだろう。お前はそんな牧場や競走馬の将来まで背負っているんだ」
 ワンウェイは声を詰まらせた。自分が入団できたのは話題作りのためと思っていたのに、コーチは自分のことはおろか競馬界全体のことまで考えてくれている。自分が担っているのは、他のどんな馬も、そうディープインパクトだって成し得なかった一大プロジェクトなのだ。どんな重圧も今は快感にしか思えなかった。馬はひたすらに練習に打ち込んだ。

 交流戦も佳境に入った6月上旬。対巨人、9回裏2死3塁。同点の場面でウグイス嬢のコールが響く。ピンチランナーは、決意の片道切符を手に、ただまっすぐにダイアモンドのゴールを見つめていた。


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