雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

曲がった木は切られない ・ ちょっぴり『老子』 ( 27 )

2015-06-19 14:40:28 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 27 )

               『 曲がった木は切られない 』

曲がっていることも良い

「 曲則全、枉則直。窪則盈、弊則新。少則得、多則惑。是以聖人抱一、為天下式。 』
『老子』第二十二章の冒頭部分です。
読みは、「 曲なればすなわち全(マッタ)く、枉(オウ)なればすなわち直(ナオ)し。窪(ワ)なればすなわち盈(ミ)ち、弊(ヘイ)なればすなわち新なり。少なればすなわち得、多なればすなわち惑う。是を以って聖人は一(イツ)を抱き、天下の式となる。 」
文意は、「 曲がった木は役に立たないので切られることなく、天寿を全うする。枉(極と同意味)にして身をかがめていると、かえって真直ぐに進める。窪地には水が満ちるもので、弊(古くなったもの)となれば新しいものか生まれてくる。少しのものなら手に入れることができるし、多くの物を望めばあれこれ迷い何も得られない。従って、聖人はただ一つのものを抱き、へりくだった態度で天下に手本を示している。 」といった感じです。

真直ぐに伸びた木は、建築材に適しているので切られてしまうが、曲がっている木は利用しにくいので打ち捨てられていて、結局寿命をまっとうする。人も、背伸びして自分を誇示すると風当たりが強くなり、敵も増える。身をかがめて、控え目にしていると、そのような抵抗は少なく、かえって真直ぐに進むことかできる、という教えです。
現代にも十分当てはまる教えだと思われます。
なお、聖人が抱くという「一」が、『道』そのものだというのでしょうね。

謙譲の精神

第二十二章は、この後も今少し続いています。
大体の文意は、「 聖人は、自分を表に出そうとしないから、かえって人々に認められる。自分の考えを押し通そうとしないから、ますますその行為や考え方が際立ってくる。自分の業績を自慢しないので、かえってその功績が認められる。自分の才能を誇らないから、それ故に指導者とされる。
このように、聖人は、他と争わないから、彼と争おうとする者もいない。古人が、『曲なればすなわち全し』と言ったのは全く真実である。
身をかがめて謙譲の精神を守り通すことで、万物の母から与えられた身を全きままに返すことができるのである。 」
といったように、聖人、すなわち『道』を極めた人の生き方が述べられています。

傲慢は嫌われ、謙譲が尊敬されることは、現在にも通じると思われます。
ただ、悲しいかな現実の社会には、ややもすれば大声で主張する者が利を得ることも少なくありません。しかし、それだからこそ、何が真実かを見抜く知恵が必要であり、身を低くして生きる知恵が必要なのかもしれません。
『 曲則全 』とても好きな言葉です。

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