雅工房 作品集

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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十三回

2011-08-17 11:10:42 | テスバウ共和国 入国体験記 
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一番下の娘雅代は、おおらかな性格の持ち主であった。
すぐ上の姉の君枝に言わせると、およそ雅代ほど図々しく自分勝手で、それでいて泣き虫なのは見たことがない、などと常々言っていたが、さすがにそれは少々オーバーな表現である。ただ、雅代の特徴をかなり正確についているともいえる。

第一、雅代には君枝のことを姉だなどという意識がなかったのだから、生意気な振る舞いがあるのは当然ともいえた。少なくとも小学校の低学年の頃までは、双子のような感覚を持っていたようである。
大学は長姉の和美と同じ大学に進んだが、あまり勉強は好きな方ではなかった。成績は中の上かもう少し上のクラスで悪くはなかったが、勉強そのものにあまり興味が持てなかったようである。全科目に対して、いずれも平均以上の成績を収めていたが、特別優れた成績の科目もなかった。
その代わりというわけではないが、人当たりが良く世話好きで、君枝に対する口のきき方の悪さからは信じられないほど外では敵のいない性格だった。

両親は、家庭の主婦には雅代が一番適していると思っていたが、意外に縁がなく、結婚したのは四十歳になってからである。
大学卒業後は、中堅の商社に勤務したが、その後は二、三年ごとに勤め先を変えていた。あまり物事にこだわらないようであり、人当たりも好感をもたれるタイプと思われるのだが、こと職場に関しては、許せないことに接すると辛抱するつもりは全くないようであった。
簡単に勤め先を投げ出してしまう半面、次の職場もそれほど苦労することなく見つけてきて、大学卒業後結婚するまでの間で遊んでしまった期間はごく僅かである。

結婚した相手は、勤め先の上司から紹介された人で、大型貨物船の船長であった。若い頃から船員として働いており、根っからの船乗りであった。
一年のうち半分は船の上、四分の一は海外暮らし、四分の一程度だけを日本で過ごすという生活が続いているようで、日本にいる期間の大半は休暇のような生活であった。
年齢は雅代より八歳ほど上で、すでに五十歳に近かった。彼もこれまで結婚する機会がなくどちらも初婚であった。

お互いにそれなりの人生経験を積んだ者同士の新家庭は、彼の会社の日本での拠点である名古屋でスタートしたが、二か月ほどの新婚生活のあとは、夫となった人は再び海上生活へと出ていった。
彼が乗務する大型貨物船の船籍は、アフリカ某国であるが、実質的なオーナーは東南アジアに本社を置く会社であった。その会社は、主として、インド、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、日本を結ぶ航路に船団を配置していて、彼が乗る船も船団の一翼を担っていた。

二人の新家庭は、会社が用意してくれた小さなマンションでスタートしたが、彼が海外勤務に就くと雅代はさっさと君枝の家に押しかけ、時には実家に戻ったり長姉の和美の家に居候したりといった生活で、自宅には月に三日もいなかった。
彼が海外の寄港地で休暇がある時には、雅代が訪ねて行くことも何度もあった。香港、インド、ドイツ、南アフリカ、サンフランシスコなどを旅行できたのはそのお陰である。彼の会社から振り込まれる給料の一部は、雅代が自由気ままな生活をするのに十分なものであり、たまに彼と見知らぬ街を歩く生活は悪いものではなかったが、二人の生活は四年ほどで破たんした。

離婚に至るような大きなトラブルがあったわけではないが、思い返してみれば、結婚の段階から双方ともが新生活にそれほどの期待を描いていなかったように思われた。
生活のほとんどが海上で、放浪のような生活を続けてきた男にとっては、将来を考えた場合のしっかりとした自分の家を持ちたいと考えたことは事実であり、真剣な気持ちからであった。しかし、いざ家庭を持ってみると、妻となった人に不満はないが、やはり以前の自由気ままな生活が忘れられず、経済的な面からも制約があることを認識し始めていた。
雅代にしても、優しくて自由な生活を保障してくれる夫には感謝していたし、時々訪れる外国の街でのひとときは、豊かな気持ちを醸し出してくれていた。しかし、両親や長姉夫婦の家庭と比べてみた場合、何かが違うという思いが少しずつ膨らんできてはいた。

二人が離婚について真剣に話し合った直接のきっかけは、彼が昇進により本社勤務に変わったことであった。その後も海上勤務が発生するようであるが、主体は本社での管理業務となり、生活のほとんどが本社のある東南アジアの某都市ということになったためである。
互いに憎み合うことなど全くなかったが、彼はその街で骨をうずめるつもりのようであり、雅代には日本を離れてしまう決断が出来なかったのである。

離婚が成立した後、雅代は僅かな荷物を持って君枝のもとに転がり込んだ。
君枝の都合など知ったことではなく、君枝もそんな雅代を積極的に拒むようなことはなく、これまで納戸代わりになっていたマンションの一室を整理して雅代の住処とした。その後は雅代は働きに出ることはなく、家事一切を引き受け、自分が掛ける保険や小遣い以外は全て君枝の収入で生活することになった。

その後君枝が大阪に移ると同じように移動し、同居の形に変わりはなかったが、実家に通うことが多くなり、やがてそちらが生活の拠点となって、両親の世話をし見送ることになった。
父も母も、決して長命といえないまでも、まずまず天寿に近いものをまっとうし、三人の娘がいずれも近くにいる環境の中で悪くない晩年だったといえる。
両親を亡くした後は、雅代が実家の家を守っていたが、やがて長姉和美が夫に先立たれた後は、実家を処分して和美の家に移った。

雅代が同居を始めた頃には、すでに和美は健康面での不安を訴えるようになっていた。
雅代が同居することになり、生活面の不自由さは解決できたが、和美はいずれかの施設に入る決意を固めていて、あちらこちらを訪ねたりしていた。雅代も一緒に訪問したりしていたが、和美が何らかの施設に移る時には雅代も同行するつもりなので、そんな二人を受け入れてくれるのに適した施設はなかなか見つからなかった。

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