『 サッカー アジアカップで優勝 』
U-23による サッカーアジアカップで
日本チームは 厳しい戦いを勝ち抜いて 優勝
パリ五輪の出場権は すでに確定していたが
やはり アジアNO1での出場は
頼もしく感じられる
そういえば パリ五輪も二ヶ月半ほどに迫っている
それまでに 世情も
少しでも平和の祭典らしく なって欲しいものだ
☆☆☆
『 月吹きかへせ 』
さ夜ふけて なかばたけゆく 久方の
月吹きかへせ 秋の山風
作者 景式王
( 巻第十 物名 NO.452 )
さよふけて なかばたけゆく ひさかたの
つきふきかへせ あきのやまかぜ
* 歌意は、「 夜がすっかり更けて 月は半ば西に傾いたが あの月を吹き戻してくれ 秋の山風よ 」と、秋の夜を詠んだ風雅な歌といえますが、この歌は『物名』に組み入れられているように、「かはたけ」を詠み込むのが狙いの歌です。
何とも他愛ない言葉遊びのように思われますが、古今和歌集は『物名』を主題の一つにしているほどですから、当時は技巧として認められていたのでしょう。
なお、「かはたけ」は、「まだけ」あるいは「めだけ」の異名とも、食用茸の一種ともされていて、はっきりしません。
* 作者の景式王(カゲノリノオオキミ)は、文徳天皇の皇子である惟条親王の御子です。
生没年ともに不詳です。文徳天皇の孫でありながら生没年が正確に伝えられていないのは不思議な気もしますが、文徳天皇には多くの皇子・皇女がおり、皇位争いの激しい時代でもあることから、その候補から外れた皇子たちの子孫は、よほどの活躍がなければ歴史の片隅に追いやられるということなのでしょうか。
* 景式王の父・惟条親王(コレエダシンノウ・846 - 868 )は、文徳天皇の第二皇子ですが、第一皇子の惟喬親王( 844 - 897 )も同母の兄です。しかし、文徳天皇の後を継いだのは第四皇子の惟仁親王( 850 - 881 ・清和天皇)で、生後8か月で立太子、9歳で即位しました。惟仁親王の生母は女御の藤原明子で、その父は時の権力者藤原良房なのです。藤原北家が台頭していく中での象徴的な皇位争いと言えます。
ただ、惟条親王らの生母は、更衣の紀静子ですので、静子の父の紀名虎(正四位下)の政治力とも合わせ、皇位に就く可能性は極めて低かったと考えられますが、藤原良房辺りからの圧力はあったかもしれません。
* 作者の景式王の生没年は不詳ですが、父の惟条親王は 868 年に23歳で亡くなっていますので、景式王の生年は 860 年代のことと推定できます。
その後の消息を知ることは出来ませんでしたが、897 年に二世王として従四位下に直叙(特別扱いの叙爵)されていますが、その後の消息も伝えられておらず、ほどなく亡くなったようです。おそらく、20歳を幾つも過ぎていなかったのではないでしょうか。
景式王の生涯を推定するにはあまりにも情報が少なすぎますが、何か哀れなものが感じられてならないのです。
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