「道に迷うことは悪くない。それこそが道を知る一番の方法だから」といった言葉を見た記憶があります。正確かどうか自身がないのですが、外国の諺のようです。
言葉の意味はそれほど難しくないとは思うのですが、この「道」を単に道路といった意味で捉えても十分感じるところがありますが、様々な「専門」とか「分野」などと置き換えますと少し複雑になってきますし、かの古代中国の大思想家・老子が述べるところの「道」となりますと、これは、手が付けられなくなってしまいます。
私たちの知識の習得の仕方を考えてみますと、極論しますと、人真似と経験の二つのような気がします。
「猿真似」という言葉がありますが、本質を理解せずに、うわべだけ真似することで、むやみに他人の真似をすることを軽蔑している言葉です。その通りだと思いますが、この戒めは、ある程度の知恵を有している人を戒めるものであって、たとえば、生まれて間もない赤ん坊などに、この言葉で戒めることなど出来ないと思うのです。
それは、何も赤ん坊に限ったことではなく、新しい環境や新しい分野に入っていくときには、まずは教えられた事や見聞きした物を真似ることから始まるのではないでしょうか。
経験も同様で、これまでに蓄積してきた知恵や知識はあるとしても、未知の事象に取り組む場合には、やはり、不安があり未熟が露呈しがちです。いくら教えられ、見聞きしてきたとしても、実際に体験することは、やはり別物です。経験というものは、どうしても知恵や知識の習得に重要な要素のようです。
経験を積む、経験を重ねる、経験を生かす、経験を活かす、などと使われますが、それぞれの言葉に少し違う意味合いがあると説明されている文献もあります。
真似ることも経験も、知識を習得する上で、とても重要な要素ですが、実社会においては、時には、盗作という問題を生んだり、経験を重しとして後進を潰す懸念もあります。
目下、次の都知事を選ぶ選挙戦が展開されていますが、この選挙に限ったことではありませんが、選挙戦は一国の文化を赤裸々にさらけ出すような気がします。
「そこまで言うか」と言いたいほど相手をこき下ろす例がよく見られます。あまり良い気がしないのですが、先進国と考えられる某国においても、ひどすぎる罵倒合戦が見られます。ああしたことが自分に有利になると思われるのか、多くの立候補者は必死に「真似て」いるのでしょうか。
また、多くの立候補者はやたら改革を叫びます。極端な場合には、これまでの政策をリセットするとさえ言っています。国家であれ、市長町であれ、いくら問題が多いとしても、運営されている施策にはそれなりの意義があり、積み重ねられた経験もあるはずです。それは政治家に限ったことではなく、企業や様々なグループにおいても同様でしょう。いやしくも、そうしたリーダーを目指す上では、人から学び、経験をし、それでも迷い苦しむことが必要のようです。
もしかすると、私たちが知恵や知識を習得するためには、「真似」と「経験」に加えて、冒頭で述べましたように、「迷う」ことも必要なのかも知れません。
( 2024 - 07 - 02 )
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